2054年 12月7日(月)

第125話

 優姫と出会ってから一週間が経とうとしていたある日のこと。突然めったに機能しないビジュアライザーの通知音が鳴った。

 これに連絡を入れてくるものなど限られている。和馬は優姫がまだシャワーを浴びていることを確認し送信されてきたメッセージを確認する。


「ついに来たか」


 全身から腹の底に落ちていく諦めの感情。

 いつかは来ると思っていた。だが何故優姫と出会って間もないこの時期に。もう少し静かな時間を楽しませてくれたっていいじゃないか。弱音を吐こうとして頭を振り乱す。

 馬鹿か。ここがそういう世界なのだと言ったのは自分自身ではないか。

 拒むという選択肢もあるがもしその選択をした場合、それはつまり所属する派閥の連中に牙を剥くということを示す。そんなことをすれば和馬だけでなく優姫にも危害が及びかねなかった。

 行くしかないだろう。優姫がシャワーを浴びている間に部屋を出ることにした。


「遅かったじゃねえか、和馬」


 出向いた先は普段から下っ端の和馬たちが集められる竹下通りの一角。そこには既に十数人のチンピラが集合している。

 その中でも特別異彩を放っている全身入れ墨だらけの屈強な男がガンを飛ばして来る。桐生という名のこの辺りの区画を牛耳っている派閥をまとめる自称若頭だ。

 むろん若頭といっても極道やその類のものはない。あくまでもチンピラにすぎない矮小な存在だ。

 そんな存在を前にしてそこから抜け出そうという選択肢を早急に排除しているあたり、和馬もまたこっちの方が性に合っているのだろう。


「違う、和馬くんは、和馬くんはずっといい人。和馬くんはだって他の皆とは違うじゃない」


 脳裏に優姫の言葉が反芻する。

 俺はこの連中たちと何一つ変わらない。俺はただ度胸がないだけだ。ずっと俺は法に縛られないこの無法地帯で本来ならば法に罰せられることをしてきた。

 そんな思考を脳内で反芻させる和馬に言い逃れする術などない。


「にしてもよぉ和馬、お前最近全然来なくねーか?」

「少し疲れがたまっててな」

「もしやテメー、他の派閥の連中に裏でへいこらしてんじゃねえだろうな」

「そんな無謀なこたしねーよ」

「まあいい、それよりてめえら、ボスからの連絡は確認したな?」


 疑り深い目で和馬の顔を舐めまわすように睨んだチンピラは全員に声が届くよう前に行く。

 

「俺たちの次の行動が決まったってぇことよ。次の水曜、四日後だな、俺たちの派閥は大規模作戦に出る。言わねーくても解ってるとは思うが脱走作戦だ」


 今回この派閥が考えた作戦。それはこれまでのようなアンドロイドの破壊工作や一匹狼を襲うような小規模なものではない。

 この区画チンピラを隔離している渋谷一角からの脱走。


「だが簡単なことじゃねぇ、軍用A.A.がこの区画を囲ってっからよ。だがこっちにも手がねえわけじゃぁねえ」

「手……? 素手でどうこうできる相手じゃないぞ」

「ンなこたぁ知ってるぜ和馬。あのA.A.には機関銃とかも詰まれてっからな。だがよ、これを見ろ」


 そう言って彼が押し出してきたものはブルーシートの掛けられた巨大な荷台だった。

 それが目の前に押し出されると同時、火薬のきついにおいが鼻を突く。途端に嫌な予感に襲われながらもそのシートを引っぺがした。


「これ……」

「見てのとーり武器だ」


 荷台に積まれた無数の銃火器。尋常ではない数だった。軽く三桁近くはある拳銃や機関銃。それに加え無数の手りゅう弾と弾薬。


「こんなん、どうやって……」

「俺たちの派閥はまったく外との交流を持ててないわけじゃねえ、連絡通路はすでに確保してんだよ」

「つまり、外の人間と流通していたってことか。この時のために。だがこれだけの武器を調達するには、相当額が必要だったはずだ。どうやってそれを工面――」


 そこまで問いかけて解答に行きつく。チンピラたちが一匹狼を襲いその所有物だけでなく臓器まで回収する理由。それが解った気がした。


「いいか野郎ども。決行は来週の水曜だ、忘れんじゃねえぞ。もしビビって逃げたり、参戦しなかった奴はその時点で俺たちに対する反逆扱いだ。死にたくねーなら解ってんな」

「俺たちはそれまで何してればいいんだ?」

「他派閥の連中には抑制掛けてっから気にしなくていい。が、どこの派閥にも属してねえ奴は危険だ。決行日に何かしらやりやがる可能性があっからな。そういうやつらは、当日までに全員殺せ」

「な……命まで奪うことねぇだろ!」

「あ? 和馬てめえ上の決定にケチ付けんのか? それがどういうことか解ってんだろ。ここで死にてえのか?」

「……ッ」


 荷台から取り上げた拳銃の銃口を向けられ唇を噛みしめる。この連中は刃向かうものは何の躊躇もなく殺害する。そして裏切るものも。

 結局何も言えずのその場を後にした。ここで反抗しなければもはや抗うことなどできないと判っていながら。



「和馬くんっ、どうしたの?」


 帰宅すると夕飯の用意を済ませていた優姫が驚愕の声を上げた。


「別に何もないが」

「別にって……何もないわけがないよ、そんな真っ青な顔して」


 急いで歩み寄ってきた彼女に連れられダイニングのソファに腰を落とす。

 すぐにコーヒーを入れたカップを手渡された。じっとその表面を見つめる。ゆらゆらと揺れ動く水面は、あたかも和馬の心情を示しているようだ。


「本当に大丈夫? 何があったの?」

「別に何もねえって」


 隣に腰かけてきた優姫に僅かな苛立ちを覚える。この少女にだけは知られたくない。

 たった今帰宅する直前に四人の人間の殺害現場に居合わせただなんて。

 

「ねえ、そんな顔して、大丈夫なわけがないよ。和馬くんがそんな顔するなんて絶対よくないことがあったんでしょ」

「うるせーな、あんまとやかく言うんじゃねーよ」

「っ……」


 怒気は含めないように努力したが彼女にはその言葉がかなり強烈なプレッシャーを孕んでいるように思えたんだろう。

 言葉に詰まり隣に座ったまま何も言葉を紡がない。困ったように和馬を見つめてくるが彼女のことを気遣っている余裕などあるはずもなく。

 先ほど初めて人間の頭部を撃ち抜く瞬間を目にした。人を殺すという行為に関してはこれまで幾度となく聞かされてきた。

 どれくらいの血潮が噴き出すのかとかどこを撃てば即死するのだとか。悲鳴が上がらないほどの一瞬で事切れるのだとか。

 そんなことは解っているつもりだった。それなのに自分でいざ人の死を垣間見たら。

 

「怖がらせて悪い……だけど今は、ほっといてくれよ」

「それは、できないよ」

「あんでだよ」

「だって震えてるじゃない」


 彼女に触れられた右手は自分でも気づかぬうちに激しく震えていた。

 右手は先ほど拳銃を握っていた方の手だ。そして人間を殺すことのできる、きっとすぐに血塗られる――。


「っ! 触るなッ!」


 反射的に彼女の手を振り払っていた。

 触れられたことでこれからすることが彼女に伝わってしまっているのではないかと、そんなありえない錯覚を覚えてしまったから。彼女に内側を覗き込まれているのではないかと。

 そんな危うい心の神髄を心肝から揺さぶるような強烈な衝動。


「和馬くん……」

「やめろよ、それ以上俺に踏み込んでくんじゃねえ、これ以上俺を惑わすんじゃねえよ」

「惑わしてなんて」

「言ったろ、俺はこっちの人間だ。人知れず光の当たらない闇の中に取り残されとくべき人間なんだよ」


 彼女は悲しそうに見つめてくる。そんな顔はさせたくなかった。それでも現状彼女を悲しませているのは和馬だった。


「和馬くん、とりあえずお風呂に入ろ? そんな状態じゃ、まともに何も判断できないよ」

「俺はいたって正常だ。なにもおかしくなんてなってねえ」

「いいから、ね? ほらコート脱いで」

「……!? 馬鹿ッ、それにさわんじゃ――ッ」


 彼女が和馬から脱がそうとしたコート。ポケットに収めているものの存在を思い出し発作的に彼女の手を振り払う。

 半分脱がされていたコートは彼女の指にかかったまま完全に脱がされた。

 尻もちをついた優姫の目の前にそれは落下する。――――ゴトッ! 到底コートがならすとは思えない音。


「今の……」


 彼女がコートを持ち上げようとすると同時、和馬のビジュアライザーが着信を告げた。それに出ることもせずに優姫のことを見つめる。

 何かに感づいたのか、ポケットに触れたまま中身を取り出すこともせずに固まっている優姫。その手は確実にポケットに重なり生地越しに触れていた。


「……電話、なってるよ」


 震えた声を絞り出す。それにこたえることはせずにじっと彼女を見据え続ける。

 気づかれてしまった。こんなにも早く、こんな形で。一番知られたくなかった優姫に。

 通知音が止む。無言でその場に屈みコートを引っ張り上げて改めて着直した。そうして彼女に背を向けドアに手をかける。


「悪いけどこれ以上俺の中に入ってこないでくれ。俺を惑わさないでくれ。言ったはずだ。俺にはその光が眩しすぎるんだ」


 静かに後ろ手にドアを閉める。

 もう心に決めた。惑わされていただけだ。彼女という光に縋り新たな更生の道を見出そうとしていただけなのだ。

 結局はそれが甘えで意味なんてない物だと判っていたのに。





「あとはこの竹下通り二番街の北東部だけだな」


 拳銃を片手に路地裏を進んでいく桐生チンピラ。そんな彼のすぐ後を追いながら周囲に目を走らせていた。

 腐食しているのか凄まじい腐臭を放つゴミの山。それがゴミの放つ匂いではないとすぐに気が付いた。ゴミの中には野垂れ死んだ一匹狼の死体が数人分転がっている。


「ここのは皆、死んでんだろ」


 呼び出され出向いた竹下通り。どうやら部屋に戻っているうちに竹下通りの一匹狼たちはほとんどが片付けられていたようだ。

 これまではどこに行っても数人はいた乞食のようなチンピラたちの姿がなく、ただ血痕だけがそこに残されていた。

 ゆっくりと歩を進めながらゴミ箱を蹴飛ばしていく。

 人を殺すことに抵抗をなくしたわけではない。それでも迷いを断ち切るためには、もはや後戻りできないところまで落ちるしかないと思っていた。


「ここにもいねーか。あとは……」


 他のチンピラのいない場所を見つける。あそこにいなければもうこの路地裏にはいないと踏んでいいだろう。

 最後のごみ箱を蹴り飛ばした。


「ひ……ヒィィッ!?」


 そこに隠れ蹲っていた男。

 まだ成人もしていないのではないかという和馬よりも年若いチンピラだ。

 もはやチンピラと呼んでいいのかすら怪しい。この人物に限らず他に殺害された者たちも。皆強者に痛めつけられ搾取されるだけの弱者に過ぎなかった。

 銃口の先、そこに縮みこまる青年は全身の衣服が破け汚れそして血が付着している。和馬たちの派閥に殺害された仲間の血だろう。


「や、やめてください、おね、お願いします!!」


 涙ながらに男は足に縋りついてきた。そんな男の額から照準を逸らさない。人の命に手をかければきっと。無心でトリガーに指をかける。


「――――ッ!?」


 乾いた銃声が響いた直前何者かに突き飛ばされた。抱え込むように和馬を掴みそのまま和馬を地面に叩きつける。

 背中から湿った地面に落下し拘束を解こうと腕を掴む。おそらくは殺そうとした奴の仲間だろう。

 その手首は異様に細い。引きはがそうとしても剥がれずその人物を蹴り飛ばそうと腰に力を籠める。


「もう、やめてッ!」

「ッッ……⁉」


 胸を拘束していたのは紛れもない優姫の姿で。


「葛城、お前なん」

「もうやめて! こんなこと!」


 必死に縋りつくように身体を腕ごと拘束する彼女。その頬は薄汚れそれでも決して離れようとはしない。


「駄目、そんなことしちゃ……」


 彼女の顔に怒りの感情は浮かんでいない。

 ただ激しい感情に突き動かされるように何かを訴えかけるように。その思いは強く重く和馬の全身に伸し掛かっていた。


「お前には関係ないだろ。ていうかなんでここにいんだよ」


 胸の中に募る不可解な感情に惑わされ自分の中の決意が揺らがぬようドスの利いた声で詰め寄る。

 そんな和馬を見て彼女はさらに必死そうな表情を浮かべた。

 

「……帰ろう和馬くん。こんなところにいちゃダメ、そんなことをしちゃ絶対にダメだよ」


 追及に少しも動じることなく彼女は目を見つめてくる。

 それでも引くわけにはいかない。決めたのだ何もかも。ありのままの自分を受け入れると。


「だからお前には関係ないって言って」

「この街の情勢。何もかも嫌になっちゃうのは解るよ……でもね和馬くん、どんなに辛くても、そんなことしたらダメだよ。お願いだからもうやめてよ。そういう風に自分を嫌いになっちゃダメ。人に嫌われるようなことを、しないで」

「だからお前、いい加減に────」

「私に、和馬くんを嫌いにならせないで……お願いだから」


 突き飛ばそうとした腕は何かに阻まれるように止まった。

 いつの間にか背中から服の胸元を掴む彼女の指。それがひどく震えているのを感じて何も出来なくなってしまったのだ。

 静かに彼女の悲しい感情、様々な命の温もりが頬を伝い落ちていた。

 その言葉は強く心を蝕んだ。どうしようもないほどに胸の深奥に突き刺さる。

 もう決めていたはずなのに。この少女にこんなことを言わせた自分自身が何よりも許せなかった。


「和馬くん、自分は陽の当たらない暗闇の住人だって言ってたよね。私のことを自分には眩しすぎるって。それなら私があなたを照らす光になる。暗闇があなたを閉ざしても、きっと私が和馬くんを照らし出すから。だって言ったじゃない」


 胸元を離し上体を起こした彼女。そのブロンドの髪はネオンに照らされ幻想的な色に染まっていた。


「私が和馬くんの居場所になるからって。和馬くんが、私の居場所になるって」

「だが俺はもう」

「大丈夫、まだ立ち直れる。だってほら」


 彼女の視線の先を辿るとそこにいたはずの男がいない。どうやら銃弾は外れていたらしい。

 

「だから、ね和馬くん。私のところに戻ってきて」

「なんでそこまで……」


 延ばされた手のひらを見つめる。それはすぐ近くに見えるのにどうしてかとてつもなく遠く感じた。手を伸ばして掴もうとしても触れることすらできないほどに。

 それを掴むのは大きな賭けだ。ここで彼女の手を掴めばそれはつまりチンピラたちの派閥に牙を剥くことを意味するのだから。そんなことをすれば。 

 そんな躊躇いのある手を彼女が掴んだ。


「当然じゃない。だって和馬くんは私のことを掴んでくれた。受け止めてくれた。こんな取り留めのない私のことをね」

「葛城……」

「それに……きゃ……っ!?」

「おい和馬、何だこの女?」


 不意に視界から優姫の姿が遠のく。

 はっとして視線を上げるとチンピラが優姫の手首を掴み腕を引っ張り上げていた。

 比較的背の低い優姫は半分吊り上げられるようにして、チンピラに遠慮のない目線で顔を品定めするように見られている。


「は、離してっ!」

「なかなか上玉じゃねぇか。見た感じ一匹狼って感じでもねぇが……おい和馬、コイツお前の女か?」

「いや、そういうわけじゃ……」

「そうか、おし、こいつヤっちまおうぜ」


 返答を聞くなりこちらから興味を失ったように周りの男たちにそう呼びかけた。

 男は優姫の黒いコートに手をかけ躊躇なくそれを引き剥がすと、今度は白いタートルネックの首元を鷲掴む。

 すぐに彼女の首筋の白い素肌が見え胸元の下着が微かに露出する。

 一瞬唖然とし直ぐに煮え滾らない感情が芽生えてくる。これまでどの様な犯罪行為に及んでもなお一切この男たちに対して覚えることのなかった怒り。


「ぃ、いやっ! やめてよっ」

「威勢のいい奴だな。でもこんなところに来たおめぇが悪いんだよ。せいぜい楽しませてくグぁ……ッ!?」


 下卑な手つきで彼女の服を脱がそうとしていた男の声は硬いものが弾けるような音とともに遮られた。

 同時に拳に鋭い痛みが走り抜け、すぐに自分がチンピラを殴り飛ばしたのだということに気が付く。


「てめぇ、和馬ァ! ッ、がっ!!」


 後頭部を抑えながら立ち上がったチンピラの顎下に力任せにつま先を叩き込む。

 男が後ろにつんのめった隙に衣服の乱れた優姫の手首を掴んだ。


「逃げるぞ!」

「えあ、和馬、くん……?」


 困惑と戸惑いの色を混ぜた声を漏らした彼女の顔には、明確な恐怖の色が滲んでいた。

 目頭には水滴が溜まりどれほどの恐怖と屈辱を味合わされそうになっていたのかが伺える。

 彼女にこんな思いをさせた自分をひどく叱責し、それよりもまずはここから逃げ出す必要があった。


「おい待てやクソガキッ!」


 蹴り飛ばし失神した男を惚けたように見ていた男達だったが、数秒と経たずに怒声を放っていた。数人の男たちが拳銃や血のついた錆びた鉄パイプを握り締める。

 路地裏から出ると無数の高層建築物がチンピラを阻む壁となっていた。

 それでも優姫の冷えきった手首を掴んだままがむしゃらに走り続ける。

 もう絶対にあの男たちに優姫を会わせたくない。これ以上彼女を傷つけたくない。肉体的にも精神的にも。


「和馬くんっ、も、もう追って来て、ないよ」


 しばらく走り続け一キロほどは離れたと思った頃に優姫が息を切らしたようにそう言う。はっとして足を止めると運動慣れしていないのか優姫は酷く息が辛そうに肩を震わせていた。

 周囲を見渡しチンピラたちの姿がないことを確認し物陰まで進んで掴んでいた彼女の手を離す。

 俯き荒い息をしている彼女をどうしたものかと見つめている内に、彼女の肩の震えが一向に止まないことに気がつく。もしや思いそっと華奢な肩に触れると予想もつかないほどに彼女の全身は震えていた。


「お前、怖かったのか」

「あたり、前じゃない……っ、怖くないわけなんかないでしょ」


 下唇をきつく噛み締めた彼女はどこか怒ったような目で睨んでくる。

 優姫がそのような顔をするとは思っていなかったため言葉を返すことが出来ず、情けなく目をそらす。


「怖いならなんであんな所に」

「和馬くんが心配だったからに決まってるでしょ……」


 答えの解り切っている質問。

 優姫は和馬の胸元をきつく握り締め額をそこに押し付けた。未だに震えている彼女にすがり付かれ、それでも行動に移すことができない。

 自分の中で葛藤と共に渦を巻いている得体の知れない感情。それに名前をつけることができない以上何をしていいのか解らなかったのだ。


「ばか……抱き締めてよ」


 胸に顔を埋めたままの彼女がそう言うのを聞いて、先までの躊躇が嘘のように呆気なく背中に手を回していた。

 最初は彼女を壊さないように弱く、自分の中に芽生えた感情に従順になるにつれきつく。抱きすくめた彼女の肢体は驚くほどに繊細で。

 そしてようやく自分の中にある感情に名前を付けることができた。彼女に抱いていたものは同じ境遇の人間に対する同族意識やそれによる好奇心、寄る辺としての執着などではない。

 ああ全くどうしてこんな単純なことに気がつかなかったのか。いや違う。闇に沈む街の中、電工機に煌めくモニュメント。そこに腰掛ける彼女の姿を見た瞬間から本当はその正体に気が付いていたのだ。

 気がついていないふりをしていただけだ。それを認めることで何かが変わってしまうのではないかと恐れて。

 それは閉ざされた監獄に不満を垂らしながらも変えようとしなかった臆病さの表れだったのかもしれない。


「あ……」


 不意に彼女の背に回した手の甲になにか冷たい感触が伝わる。水滴が滴るものの雨は降っていない。


「……ゆき」

「え?」

「雪、降ってる」

「……あ」


 空を仰いだ。

 宵闇に飲み込まれた暗黒の世界からはしなやかな純白のベールが降りてきている。本年度初の遅すぎる初雪の到来。

 その光景はあたかも暗い灰色に染まっていたキャンパスに白い光が差し込んでいるようで。

 

「この街も、この世界も……そして私たちも変わっていくのかな」


 優姫は和馬の目を直視した。

 瞳は僅かに震え肌寒さなのかもしくは別の理由なのか。彼女の頬は微かに赤らみ熱を持っている。

 胸中にこみ上げるその感情の答えはもう出ていた。

 そうして、この人生に強烈な変革をもたらす淡く儚い『ユキ』の語る物語が幕を開けた。

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