第118話

「また来たの?」


 意識が明瞭になる。

 まぶたを見開くと眩い光が視界の中に雪崩れ込んできた。思わず目を閉じ腕で覆う。

 その光源は先ほどまで明滅していた明度の低い蛍光灯ではない。炎暑を思わせるような強い陽光が差しているのだ。

 冬を目前に控えているはずの現実のものではない。

 

「ううん……その質問はおかしいね。時雨を呼んだのは私だもん」


 逆光のなか人影が時雨の上に覆いかぶさっている。同時に香ばしい向日葵の香りが鼻先をかすめた。

 視線だけ横に反らすと軒下の先には小さな太陽ヒマワリたちが無数に並んで時雨を見ていた。各々が真夏の生ぬるい風に煽られその首を揺らす。

 ああ、どうやらまたこの場所に来てしまったようだ。


「……真那」

「久しぶり、でもないか」


 顔を覗き込んでいたどこか少しだけ幼く感じる姿の真那。彼女はどこかおかしそうに時雨を眺めている。


「何だよ」

「ううん、ただ、また来るとは思わなかったって言うかな」

「何だそれ、さっきは自分で呼んだとか言っていただろ」

「確かに時雨を呼んだのは私。でもここに来たのは時雨」

「自分の意志で来た記憶はないんだがな」


 言葉遊びかと彼女の顔を見やる。彼女は意味深な笑顔を浮かべるばかりだ。

 その意味深さは時雨のことを試しているようでもあり、弄んでいるようにも感じられる。


「それで? どうしてここに来たの?」

「さっきも言っただろ、来ようと思ってきたわけじゃない」

「じゃあ来たくなかった?」

「そう言うわけじゃないが」

「それなら、私に会いたかった?」

「それは……どうだろうな」


 誘導尋問もかくやと言う返答の誘導。無理矢理言わされた感はあるが、とはいえまったくの虚言というわけでもない。


「私の別の人格に目移りしてるくせに私にはいい顔する」

「……お前、俺の心見えているのかよ」

「だって、私は時雨が自分で作り出しただけの空想の存在。知っていないわけがないじゃない」

「確かに」


 しかしてこう本人に言われてようやく現実に直面する。脳の中で空想の女性を作り出してしまうような痛々しい頭をしていたらしい。

 しかしまあ妄想の中でその頭の痛さを妄想の産物に指摘されるというのも不思議な気分だ。


「ちょっと今、私が痛々しいものだと思ったでしょ」

「いや痛々しいのは俺の……いや間接的にはそういうことになるのか」

「それはちょっと心外なんだけど……というか時雨の空想って言っても私はあくまでも聖真那の人格なんだよ」


 どっちなんだよ。論が反復横飛びしすぎて理解が追い付かない。

 結局のところ、今目の前に佇むこの真那はただの妄想に過ぎないのだろうか。

 しかし一度頭の中で妄想であると肯定しつつ、目の前の少女を目の当たりにしていると自分のその認識が誤っていると思わずにはいられない。

 そよ風に揺らぐ透き通るような長い髪。陽光を浴びる向日葵を背景にきらびやかに反射するその髪は、幻想的なオレンジの色に染まっていた。

 頬は熱射に当てられているからか僅かに赤らみ、彼女は暑そうに襟元を指でつまんでハタハタとさせている。

 妄想の産物にしてはあまりにも現実感のありすぎる彼女の姿。時雨の想像力(妄想力)が豊富なだけか。

 あるいは脳裏に、昔の聖真那という存在のイメージが撮りたてのポートレイトの様にこれほどまで明瞭に焼き付いているのか。

 もしくは目の前の少女が、妄想の産物でも記憶の残留物でもないのか。


「まあ、そんなことはどうでもいいんだよね」

「自分の存在意義に関わる話だぞ……そんなことで片づけていいのか」

「いいんだよ」

「いやよくないだろ」

「少なくとも、私のことほとんど忘れかけていたような時雨には関係ないでしょ」


 真那は拗ねたようにわずかに頬を膨らませる。柄にもない反応だと思ったがもとより真那の性格はこういうものなのだ。

 別人格と普段から対面していることもあって、そのあたりの認識が曖昧になる。

 そこまで思考してめまいのような感覚に陥る。つい最近まではレジスタンスの真那の挙動に対しておなじ感覚を抱いていたというのに。今はその逆だ。

 しばらくは疎ましそうに睨んでいたが、動揺しているのを見て満足したのか突然破顔する。


「冗談」

「趣味悪いな」

「別に私は、時雨に忘れられてもなんとも思いませんから」

「それはちょっと悲しいな」

「……ここに来てそっちが落ち込まないでよ」


 頬をひくつかせ、まあいいわと彼女はため息をついた。


「私がどう考えようと、時雨には私が必要じゃないみたいだし」

「そんな事……」

「だって時雨、思っちゃったんでしょ? 私はもういらないって」


 それは違う。


「違わないでしょ? 時雨は、私じゃない人格の私を大切と思うようになった。それが恋愛感情なのか、単純に好奇心なのかはわからないけど……でも確かに、時雨は私の人格に対する未練をなくしてしまった」


 違う。


「違わない。私はもう、いらない人格なんだよ。時雨はもう私のことなんて忘れたいと思って」

「違うと言っているだろ」


 内心を吐露するように感情を吐き出す彼女。その手首をきつく握りしめる。

 自分が伝えたいことがうまく言葉にできない。それでも彼女の考えていることは間違っていると確信できる。


「確かに、もう一人の真那のことも大切に思っている……かも知れない」

「ほら、やっぱりそうなんだ」

「だがお前のことを忘れたいだなんて思ったことは一度もない」

「っ……」


 真那は面食らったように口を閉じる。何度か瞬きをして時雨の言葉を噛みしめるように表情をしかめた。


「嘘」

「嘘じゃない」

「嘘だよ」

「俺にとって、お前は掛け替えのない存在だ。代用品で替えが効くような消耗品なんかじゃない。何よりも大切な──」

「……記憶、なんでしょ?」


 押し黙る。そればかりは否定のしようがなかった。彼女の手首を掴む手から力が抜けていく。気が付けばもう手の中には何もない。


「あなたにとって私はもう記憶に過ぎないの。記憶の中で廃れていく過去の産物」

「…………」

「時雨がそうじゃないと思っても、そう思おうとしても、当然優先順位は変わってくるんだよ。時雨は私よりももう一つの人格の私を選んだ」

「そうじゃない」

「いいんだよ時雨。だって、これは私が望んだことだもの」


 重たい目線を上げて真那を見る。

 彼女は先ほどまでとは違った悲しげな笑顔を浮かべていた。底なしの悲壮感の漂うような。


「寂しいけど、これは私の描いたシナリオ通りなのよ。これでいいの。全部ね。だから時雨、もう私のことは振り返らないで」

「無理だろそんな事。忘れるだなんて出来るはずがない」

「ううん出来るよ。だって、私がいなくても時雨の人生は色づく。私がいなくても時雨は幸せになれるから」


 その言葉は以前時雨が彼女に言った言葉だった。


「真那はどうなんだ。それでいいのか」

「うん」

「……どうして、そんな笑っていられるんだよ」

「だって、言ったでしょ? 私は時雨が幸せなら、幸せなんだもん」


 彼女はもう一度微笑む。目の端に悲しみをため込みながら……されどそれを流さず。


「最後に聞いて、時雨」

「…………」

「次に会う時、私は多分、私じゃなくなってる」

「は?」

「でもね、それは確かに私だから……だからその時も私のこと、名前で呼んであげてね」


 その言葉が終わる前には彼女の姿は消えていた。

 燦々と照り殺人光線を放つ灼熱の陽光。逆光の中に彼女の姿はない。面影も痕跡も残さぬままに消えていて。

 ただ残されていたのは、香り高い向日葵の芳香だけだった。



 ◇



「当然さ。こっちのことは私たちがやっておく。君たちはとりあえず休息を取るべきだね」

「了解した」


 無線が遮断され、表示されていた棗の顔が消失する。コンソールを軽くタップしながら妃夢路は無線を遮断した。

 一連の会話を脇目に伺いながら船坂は雑務を続ける。


「さて……やらなければいけないことが山積みだね」


 恋華はサングラスを指で持ち上げ電子タバコをふかし始める。そうして電子パネルに対面してため息をついていた。


「先ほど、皇に防衛省の航空警備が強化されたと言っていたが……俺はそこまで、顕著に索敵班の姿を確認できなかったぞ」

「それは義弘が地下運搬経路を通ってきたからだろう?」


 船坂のその言葉に妃夢路は明確な返事を返す。

 確かにその通りか。地下を通ってきたのだから索敵チームを見つけられなくて当然である。

 しかし船坂は胸中に言い知れない不安感を抱いていた。


「……俺たちが任務に出ている間、何かおかしなことはなかったか」

「おかしなことというのは具体的に何なんだい?」

「敵襲を受けただとか、敵の偵察部隊がこの拠点に感づいた、だとかだ」

「もしそうなら、私たちは今、ここで呑気に雑談なんてできていなかったろうねえ」


 妃夢路は船坂の目を見ようとはしなかった。そんな彼女の態度に船坂は違和感を禁じ得ない。何かがおかしいと直感する。


「……そもそも、皇たちを待機させる必要はあったのか?」

「さっきも言った通りさ、索敵部隊がこの区画を巡回してる。敵に見つかっては元も子もないからね。暗闇に乗じてここまで来るのが一番いいのさ」

「そうはいってもだ。俺は実際、敵に遭遇することなくここにまで来れた。それはお前の言うとおり地下運搬経路を経由してきたからだ」

「念には念をさ。地下運搬経路とは言っても、入るためには一度地上に出ないといけないしね」


 それは先ほど無線で棗に言ったのは聞いている。しかして本当に理由はそれだけなのだろうか。


「とはいえ今回の作戦において遊撃部隊もいくらかの損害を被った。彼らの指揮のことを考えても、早急にジオフロントで休息を取らせるべきではないのか?」


 そうさねえ、と電子タバコを指先で玩びながら感慨あぐねる様子を見せる妃夢路。


「それは確かにあるけどね。でも彼らの疲労度よりも、いま大事なのは全体のリスクの比較さ。今回のことで防衛省に本拠点の位置を特定でもされたら元も子もないだろう?」


 それはそうである。それでも船坂は頬路の奥底から湧き上がってくる激しい衝動を抑えられない。

 彼女の言動一つ一つが船坂に思い知らせるのだ。自分の中にあるあの仮定はただの仮定には留まらないのかもしれないと。

 そう考えるだけで彼は胸を引き裂かれるような痛みを感じた。

 そうであっては欲しくないと。そんなことはありえてはならないと。そう思いつつも頭の中ではもう結論が出ているのだ。


「妃夢路……話がある」



 ◇



「ねえ、起きてってば」


 肩を軽くゆすぶられ目覚める。ゆすられるたびに揺れる眼球が捕えたものは肩に手をかけた唯奈の姿だった。


「何だ柊か」

「何だとは失礼ね。悪かったわね、聖真那じゃなくて」


 誰も真那の名前は出していないんだが。何か用かと睡魔と奮闘しつつ面倒臭げな視線を送ると、彼女は改まったような真剣な面持ちで言葉を選ぶ仕草をする。


「ええ、まあちょっと話が」

「夜這いです」

「違うに決まってんでしょ」

「ちっ……」


 舌打ちするな。


「……とにかく、ちょっと話があるのよ」

「話? なんだ?」

「ここでは話しにくいというか」


 何か大事な話でもあるのかと要件を問うが唯奈は眉根を寄せてそう応じた。

 そうして視線だけ動かして他のスタッフを見やる。つられて周囲を見渡すと各々寝る前までと同じ状態で熟睡している。

 疲労困憊で眠っている皆を起こしたくないという計らいだろうか。そういうことならば彼女の気遣いを尊重してやらない理由はない。

 会議室から廊下に出る。そのまま少し離れたところで唯奈は足を止めた。


「この辺なら聞こえないわね」

「話って何だ。そもそも寝てたんじゃないのか」

「あれは寝たふりをしただけ。まあ他の皆が寝付くまでは結構時間を要したけど」


 言われてみてビジュアライザーで時刻を確認する。

 確かに眠ってから一時間半ほどが経過していた。もう十数分で日付が更新しそうな時間帯である。


「まあ眠りを妨げたのは悪いわね」

「それはいい、あんまりいい夢じゃなかったからな」

「何? 聖真那が筋肉ハゲダルマに寝取られる夢でも見た?」

「どうして進んでそんな夢見なきゃいけないんだ」


 確かに気分は最高潮にまで害されるだろうけども。


「まあアンタの夢なんかには興味ないわ」

「……で?」

「急かすなって言いたいところだけど、時間は限られているし簡潔にまとめるわ」


 そうしてくれると助かる。もうしばらくすれば皆起きだしてくるころだろう。


「……正直、これを聞いたらアンタはその悪い夢を見ていた方がまだましだったんじゃないかって思うかもしんないわ」

「何ですが唯奈様、妊娠でもしたのですか? 逆にめでたいじゃないですか」

「してるわけないでしょ」

「とはいえ出産の立会人は時雨様には務まりません。今すぐにでも産婦人科に向かい、適切な環境で流産した方がよろしいかと」

「だから違うって言って……しかも流産してるし」

「ネイ、茶々を入れるな、脱線する」


 何故このAIは、自称ハイスペックのくせにたびたび話の腰を折って来るのか。演算能力がスパコン並みでも空気は読めないのか。


「とにかく、かなり話していい気分にはなれない話だから」

「ああ」

「じゃあ担当突入に言うけど……レジスタンスに諜報員がいるかもしれない」


 突拍子もない言葉に耳を疑う。意外性のあまりに唯奈の顔を凝視するが冗談というわけではなさそうだ。


「諜報員は元からいるだろ」

「それは妃夢路恋華のことでしょ? 防衛省に諜報員として潜入しているって意味で」

「そうじゃないってことは、つまり」

「そ。レジスタンスに、スパイとして潜入している人間がいるかもしれない、という話」


 そう言葉にされてしまったらもう疑いようもない。脳幹をゆすぶられるような感覚に陥り額を抑える。

 

「どうしてそのような憶測を?」

「これまでの状況から考えてよ。まあ、あくまでも憶測の域は越えないんだけど」

「状況というのは?」

「色々な出来事が当てはまるわね。まずレジスタンス以外では予測不能のはずの出来事が起きたりしたこと」


 具体的な案件を出せと視線で促す。唯奈はそれに小さくうなずいて応えた。


「まず、さっきの作戦に関してもそう。私たちの潜入が速攻でばれた」

「確かにそれは思ったが。だが偶然巡回していた兵に見つかっただけの可能性は?」

「アンタたち、一個分隊に遭遇したでしょ。巡回兵だとしてもそんな多数の敵が一か所に集まると思う? 何より、私たちは地下運搬経路を用いた本隊による潜入を試みた。そんなの防衛省は予測なんてできるはずもなかったはずなのよ」


 確かにそれはそうかもしれない。何と言っても彼らはレジスタンスが地下を用いていることすら知らないのだから。

 他にも潜入の手口がある以上、全ての警戒網をあの場所に敷けたとは到底思えない。


「場所もそうだし潜入の時間帯もそうですね。何より気になるのは照らし合わせたように、敵軍が私たちの目的地に気が付いていたことです」

「どういうことだ?」

「いいですか? 棗様率いるβ部隊が向かった場所は総合司令塔でした。本来ロケットの発射指示を出すのは司令塔ですし、そのプログラムを打ち込むのも司令塔です。だのに、それらはすべて違う施設に移動されていました。そして伊集院純一郎や他のスタッフも皆、そちらに移動していた。私たちの計画を熟知していなければ、そんな行動には出なかったはずなのです」


 確かにそのとおりである。そもそも伊集院たちがいたあの施設はもともと司令塔ではなかったはずだ。

 だのにその場所で指示を出していたということは、目的地として司令塔に向かうことを事前に知っていたからに他ならない。

 作戦が知られている、それはすなわち。


「情報が漏洩していた……」

「今回だけじゃないわ。これまでも何度となくそういうことがあった。その度に偶然と考えてきたけど、今回の一件から考えるとこれまでも作戦の情報が漏えいしていた可能性が高い」


 背筋に氷でも流されているような感覚だった。感じていた悪寒はそれだったのかもしれない。

 何か見落としているようでその事案をつかみきれなかった。これはもはや確信的なのではないだろうか。


「スパイって、だが誰が……」


 レジスタンスのスタッフは戦闘員だけでなく作業員や研究者も含めると五百人近い。

 

「有象無象のスタッフの中から諜報員を見つけ出すなどとは……針山の中から干し草を見つけるようなものですね」

「それ逆だぞ」

「あえてです。そうした方が難易度が高いのではないかと思いまして……まあしかし、マゾを極めた時雨様には、針に突き刺されながら干し草を見つけ出す苦行の方が、ある意味難易度が低いかもしれませんが」

「意味不明だ」


 いつからマゾフィストのレッテルを張られたのか。


「違うわ。候補は、有象無象ほどもいない」

「その心は」

「簡単な話よ。だって構成員のほとんどには作戦内容の詳細を伝達していないでしょ。今回のことから考えても防衛省は私たちの目的地まで正確に把握してた。そこから考えても大抵のスタッフは除外できるわけ」

「ああ、確かにそうですね」


 レジスタンスは加入志願者のほとんどをノーテストで受け入れている。

 むろん防衛省の差し金である可能性もあるため生体識別によりその確認はするのだが。つまり皆が皆、軍役経験のある者たちばかりではないのである。

 M&C社の援助もあって今は比率が変動しつつあるが、それでも大半は元一般市民だ。家庭を持つ者もいるだろうしレジスタンスの意向に従わなくなる者もいる。

 そのこともあってスタッフの殆どには作戦決行中ですらその詳細を教えることはない。ただ役割を与えそれを全うさせるだけなのだ。

 

「待て、ということは……」

「ええ。つまりスパイがいるならそれはレジスタンスの作戦詳細を知っている人物に他ならない」

「それって」

「……スパイは主要格の誰かよ」


 急ブレーキみたいな衝撃に襲われた。主要格、それはすなわち棗をはじめとした幹部級構成員のことだ。

 時雨も当然含まれる。日ごろから関わっている仲間たちの中にスパイがいる。


「そんなの信じられるか」

「信じられないのは分かる。でも、これが現実なのよ」


 動悸が早まる。それでいて心の内側で何かがすとんと落ち付くのを感じて。抱いていた違和感の正体に名前が付けられたからだった。


「誰が」

「それなんだけど、実は少し気になっていることがあって。確証はないんだけど、ロケット打ち上げを阻止した作戦の時に、」

「……だ、誰なのですっ?」


 唯奈の言葉を遮るように第三者の悲鳴にも似た声が響いた。はっとして視線を発声源に向けると薄暗い廊下の先に小柄な少女の姿があった。

 ガスマスクを抱えているクレアはおぞましいものでも見るような目でこちらを凝視している。


「おきたのか」

「っ!! 幽霊が喋っ……!!!」

「は? 幽霊って……」

「ご、ごめんなさいなのですぅっっ! 私は何も見えていないのです! 呪わないでほしいのですぅ!」

「…………」


 寝起きだからなのかあるいは極度の怖がりなのか。どちらなのかは分からないが時雨の声など聞こえていないようである。

 致し方なく傍にまで寄ろうと一歩を踏み出した。


「ぅぇっ……幽霊さんが近づいてくるのです、一巻の終わりなのですッ」

「どうしろというんだ」

「クレアに手出しする奴はリオンおねーさんが許さないのだっ」


 彼女がぼろぼろに泣き崩れそうになっているのを見て硬直していると、何かが会議室から飛び出してきた。

 脱兎のごとく、いな脱狼のごとく突っ込んできた凛音は、呆然と立ちすくむ時雨の腹部に肘を叩き込んでくる。

 回避する間も与えられず彼女の小ぶりな肘は鳩尾に的確に食い込んだ。


「リオン横トルネード! なのだ!」

「ぐふぉぁっ……!」


 渾身のタックルの勢いを殺せず回転しながら突き飛ばされる。そのまま広報センターの硬い内壁に背中から叩きつけられる。


「あ、逝った」

「逝きましたね……肝臓が破裂したようです」

「え……それヤバいんじゃないの」

「時雨様はリジェネレート・ドラッグがある限りゴキブリ並みの生命力なので、大丈夫です」

「ああ、それもそうね、ならいいわ」

「体の心配くらいしてくれ」


 腹部を抑えながら立ち上がる。流石に肝臓破裂は冗談だろうが最近凛音のエルボーは際限というものを知らなくなったような気がする。

 時雨はともかく普通の人間ならば即死レベルである。


「シグレではないか」

「時雨さん……?」

「そんなところにねっ転がって何をやっているのだ? それ楽しいのか?」

「誰かさんの爆裂エルボーでこうなったんだ」

「何を言っているのだ、リオンがエルボーを叩き込んだのは幽霊なのだ」


 だからそれが俺なんだよ。と非難の目を向ける。


「つまりシグレは幽霊なのか?」

「何でそうなるんだ。最初から幽霊なんぞいない」

「きょ、驚愕の事実なのだ」

「驚愕の事実なのです……」


 どうやらどちらも半分睡眠から解放されていない状態であるらしい。ため息をつきつつ凛音の頭頂部にチョップを炸裂させる。


「痛いのだっ」

「いつも言うが俺じゃなかったらどうするんだ。確実に死ぬ。死ななくても後遺症残るレベルだ」

「シグレにしかやらないから問題ないのだ」


 ああそれならいい。よくねえ。


「どうしてよくないのだ? 今週のおすすめ週刊誌に書いていたのだ。男が女を型に嵌めるのは常識だが、かといっても女が男を型に嵌めちゃいけないなんて見識はない、とな」

「その雑誌置いた野郎、覚えてなさいよ」

「落ち着け。型に嵌めるってのはどういう意味だ」


 手のひらに血が馴染みそうなほどにきつく握りこぶしを作る唯奈をなだめる。


「シグレの鳩尾はもう凛音の肘の形になってるだろ? つまりリオンがシグレを型に嵌めたのだ」

「なるほど意味不明だ……が、俺がエルボーを炸裂させられる原因はその雑誌の持ち主なわけか。覚えてろよ」

「他人を制す前に、まず自分を制すべきですね」


 そんな雑談に発展しながらも唯奈の目線を感じた。視線を振り返らせると彼女は目で、話はまた今度と伝えてくる。

 足音が近づいてくるのを耳にして今の騒動で皆が起きだしてきたことが解った。あんな話、皆がいる場所で話せるはずもない。

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