第99話
恐慌と怒りのままに風間泉澄の名を形容した時、火薬が爆発する音が轟いた。
暗がりの中マズルフラッシュが迸ったのを確認するまもなく、咄嗟の判断でその場から飛びのいた。
一瞬の後、先ほどまで時雨の胸部があった場所を弾丸が抉り去る。間髪入れずに泉澄は回避した時雨に照準を合わせた。
再度襲い来る弾幕を紙一重でかわし固定型コンテナの陰に身を潜めた。
「僕をその名で呼ぶな……! 僕の名前は、倉嶋泉澄だ!」
そう叫んだ彼女はまるで何か強い衝動に突き動かされているようで。
「くそ……凛音はどうなった」
「待ってください、脳死で飛び出したら撃ち殺されるのが落ちです」
この射程では確実に弾丸を回避できない。
動き出そうとする体を無理やり押さえ込んでアナライザーのグリップをきつく握り締める。そうして薬莢を二つ排出、通常弾を二発分詰め込んだ。
「風間の使ってる短機関銃は?」
「H&K社のMP7A1ですね。片手に一丁ずつ持っているところを見ると、かなり軽量化したモデルのようですが」
泉澄の筋肉量からして通常の短機関銃を二丁も扱えるわけがない。筋肉の裂傷と間接外れが関の山だ。
軽量化していることで精度はかなり下がっているはずだが……。
「詳細を頼む」
「ロングマガジンであるので、40か50発の装弾数ですね。弾幕を回避するのは運が良くなければ不可能です」
「ゴリ押しするのは厳しいか……隙はないのか?」
「あるとしたらリロード時ですね。二丁なので再装填するにも時間を要するかと」
となれば残弾を吐き出させる必要がある。生唾を飲み下し背中をつけたコンテナ脇のクレーンから泉澄の様子をうかがう。彼女は抜け目なくこちらの様子を伺っていた。
「かざ」
「その名で呼ぶなと言っているだろう!」
ほとんど発音するまでもなく銃口が火を噴いた。
「どうしてそこまでして倉嶋禍殃に付き従う。あの男が悪党だということくらい、お前には解ってるだろ」
説得のつもりでそう呼びかけた瞬間、再び弾丸がぶち込まれる。もちろん挑発目的だったが。
「馬鹿にするな、貴様などの言葉に惑わされるほど、僕の忠誠心は半端ではない!」
「馬鹿になんかしていない、それでも、何が間違ってるくらいはわかってるだろ」
挑発もかねていたが心の底からそう訴えた。彼女の中にまだ少しでも良心が眠っていることを信じて。
「リミテッドはもう腐ってしまっている。だから……僕とお父様がリセットするんだ」
彼女はそう言ってMP7A1を掲げあげる。声音ははっきりとしているが、銃を持つのその手は微かに震えていた。
奇襲を掛けてきた時は迷わず脳髄をぶち抜こうとしていたというのに。彼女の中には何か小さな迷いがあるようにも見える。
「僕は、自分が敬う相手のことだけを信じる。そうやって生きてきた。だから烏川時雨、貴様が仇なすと言うのならば……僕は貴様を殺す」
トリガーに指を掛け彼女は両手に握ったMP7A1に力を込める。
時雨を射抜く瞳には前までのような鋭さはない。ただ弱々しく瞬いているだけで。
「気の毒だな」
「なんだと……っ」
そんな彼女を見て、どうしてか怒りや恐怖が湧くよりも先に不憫だと思った。
今こうして自らの意思に関わらず、ただ殺戮という目的のために動いているこの少女。
別の生き方を選ぶことだってできた筈なのだ。ただ倉嶋禍殃という男に拾われたことによって殺戮者として育てられてしまった。
「貴様、僕のことを哀れだと言ったのか!?」
「ああその通りだ、あんな男に拾われて、偏った価値観を植え付けられて、アイツのいいように扱われている……不憫で仕方ない」
「っ、貴様……!」
パァン! と乾いた音が反響する。頬に鋭い痛みが走り抜け、べっとりとした熱い感触が伝い落ちた。
「解っているだろ使われているだけだと。アイツの道具として使われてるだけだと、ホントは気づいているんだろ」
無謀だと思いつつも身を乗り出して訴えかける。ただの挑発に過ぎないはずの呼びかけが、いつの間にか心の声に転換されていた。
「いい加減にしろ!
「……撃ってみろよ」
隠れていた場所から乗り出しアナライザーを自分の足元に落とす。
惑ったように言葉を濁した彼女はどこまでも痛々しい。彼に使われている、その事実に気がついていたのかどうかは定かではない。様々な疑念は存在していたのだろう。
今の言葉に彼女の心が揺らぎ、弱々しくそのガラス細工のような精神が砕け散ろうとしている。
「な、何を考えて……」
「人を殺すことが、怖いんだろ」
「っ!」
その瞳が大きく開かれる。驚愕したように時雨を凝視し僅かにだが銃口が下がった。
「監獄で看守が目の前で殺された時のお前の反応を見て直ぐに分かった。デルタボルトの廃墟でもだ。訓練は受けていても人を殺すことに慣れていない奴の反応だ。滴る血の色、熾烈な鉄臭。知ってるか? 人間の血って案外黒いんだ。初めて人の死に直面した人間は、その凄惨さに強烈なトラウマを抱く──アンタの反応はまさにそうだった。違うか?」
「ち、ちが」
「違わない。お前は初めて人を殺したんだ。あの日女子寮で……
その名前を聞いただけで、彼女の身が竦みあがったのが解る。
「しかもそれは故意じゃなかった。葛葉美鈴が抵抗したんだろ? スタビライザーで拘束しようとして」
「あの状況から鑑みて、すでに眠らせた状態で、あなたは葛葉美鈴の自室まで彼女を連れて行ったはずです。本当は殺すつもりはなかったのではないでしょうか」
ただの睡眠作用しかないベンゾジアゼピン系の副作用のあるあの薬物は、意志力の強い人物には効き目が悪い。
さらに葛葉美鈴は防衛省の人間だ。薬物による尋問対策として、薬物中毒へのある程度の耐性もつけていたはずだ。
「葛葉美鈴は、スタビライザーの拘束に抵抗したんだ。その結果、風間、お前は殺されそうになった。それで反射的に手に持っていたインジェクターで葛葉を突き刺した。違うか?」
「そ、それは……」
彼女の肩は確かに震えている。恐怖におののき
「刺した場所が悪かったのでしょう。致死量の血液が勢い良く噴出し、あなたは何も考えられなくなった。恐怖、戦慄、そう言った感情にのみ支配されたあなたは、どうしようもならなくなり、インジェクターで何度も彼女を突き刺した。死体には無残な刺殺痕がいくつも残っていましたよ。盛大に突き刺しまくったんでしょうねえ。さぞかし痛かったことでしょう」
「っ、……」
今にも吐きそうな顔で泉澄は目を大きく見開く。ネイの発言はあまりにも残酷だった。だが今の泉澄に必要なのは甘言ではない。劇薬なのだ。
葛葉美鈴の部屋の隠し空間。そこで生き絶えていた葛葉の亡骸を脳裏に思い返す。腐敗が進行し顔面は潰されていた。
そのために特定に時間がかかったわけであるが……この様子では泉澄が処理したとは考えにくい。大方禍殃の仕業だろう。
だが、
「そしてお前は殺した。その銃で」
「ち……ちがっ……っ」
「それがトラウマになっているんだろ。人を殺めた感触。命を奪う恐怖。それが脳裏に張り付いて剥がれない。葛葉の返り血がまだどこかに付着しているようで、忘れられない。ああそうだな、人を散々殺めてきた俺の目にも、しっかりと視認できる。お前の身にべっとりとしみ込んだ返り血が」
「ち、ちがう! ぼ、僕は、人を殺めることに恐怖など……!」
「なら撃て、俺を殺せばいい」
短機関銃を握る彼女は既にもうトリガーを引けるような状態にはなかった。全身がガタガタと震え目の焦点が定まっていない。
今にもくずおれてしまいそうな彼女の指先がトリガーから外れた。その隙を逃さず、足元に転がっていたアナライザーを力任せに蹴り飛ばす。
「っ……!」
飛来したマグナムが右手の短機関銃に着弾しその手から跳ね飛ばした。
驚いて左手の銃口を時雨に向けようとした彼女であったが、接近されていたことに気がついていなかったのか呆気なくその手首を掴める。手首を捻りその手からも武器を落とさせる。
「は、離せっ……っ」
痛みに呻く彼女の手首を掴んだまま背中側に回り込む。そうして落下してきたアナライザーを鷲掴み銃口をその背中に押し付けた。
「そんな簡単に揺らいでいるようじゃすぐに壊れちまうぞ。人殺しなんてしてたらな」
「っ……!」
ビクっと肩が震え、時雨の手を突き放そうとする彼女の力も失われる。念のため、足元に転がったサブマシンガンを彼女の手の届かない場所へと蹴り飛ばす。
そうしてしばらくその体勢のまま留まっていた。彼女の華奢な肢体に込められていた力も、双眸に宿っていた殺意も今はない。
左手首を掴んでいた手を離した。手を離しても襲いかかってくることはない。全身を支える力を失ってしまったかのようにその場に力なく崩れ落ちる。
銃口を彼女の背に向けたままできるだけ声を抑えて呼びかけた。
「お前の忠義を愚弄する気はない。アイドレーターのやっていることは確実に間違っている。だが風間のその精神は立派なものだと思う」
「…………」
「お前の言うとおりリミテッドは腐っている。だが倉嶋禍殃は間違ったことをしているんだ。非道を行っている。お前まであの男の罪をかぶる必要なんてないはずだ」
もう一度華奢な肩が震えた。もはや彼女には戦う意思すら存在していない。
かに思えたが、彼女の中にはどうやらまだ強い意思が残っていたようで。
「僕は……っ、僕はお父様に忠誠を誓った身だ……烏川、時雨、たとえ貴様がどんなに正論を並べようと、僕はお父様を裏切るわけにはいかないっ。だってそれは、僕のこれまでの忠義すべてが虚無だったと、そう言うことになるのだから……!」
だから……! とそう言い残し、彼女は自分の跪いた足元の遺体の胸部に手を突き入れる。
ほとんどむくろと化している死体から力任せに肋骨を一本へし折った。そうしてその鋭利な断面を自分の首元に突き付ける。
「やめろッ」
アナライザーを手放し少女の手を背中側から拘束した。
抵抗する彼女をそれでも押さえつける。反射的に掴んでいた彼女の手首を一筋の赤い液体が伝った。骨が僅かに食い込んだ喉元から血が滴り落ちているのだ。
「どうして止める……っ! 死なせて、ください!」
「前も言っただろ、そんな顔で死のうとするんじゃねぇッ」
「そんなこと、あなたに言われる筋合いは……」
「ごちゃごちゃ言ってんじゃねぇッ! 筋合もクソもねぇ、胸糞悪いんだよてめえ」
反対の手で折れた凶器を彼女の手から奪い手の届かない場所へと放擲した。
新たな凶器を彼女が手にせぬよう両の手を拘束し続ける。
抗おうとする彼女も次第に脱力したように動かなくなった。それに相まって彼女の全身の震えが増し、微かに嗚咽が聞こえ始める。
「敵にほだされ、誇りも失い……僕はどうすればいいのですか」
「その忠義を愚弄するつもりはないと言った。だがそれを自分の命よりも先決してたら駄目だ。俺の友人も言っていた。命は天秤にすらかけていけないものだと。そもそも、命は単純な数値で測ることはできない」
しばらくの間、微かな嗚咽だけが響いていた。震える彼女の手首を離し立ち上がる。もう彼女は銃口を向けることも、自分の喉元に鋭利な刃物を突き立てる気力も残っていないことだろう。
彼女に背を向け凛音の元へと歩み寄ろうとした。
「涙は自身のギルティを肯定することと同義だぞ、我が娘よ」
静寂を打ち破るように放たれた言葉。言下に銃口を声が聞こえた方向へと向けた。
トリガーを振り絞る前に数発の乾いた銃声が響く。両脚と左上腕に激痛が走り抜けた。
「ぐ……っ」
思わずその場に膝をつき見上げる。最初に泉澄が隠れ潜んでいた数メートル上部の通路に白衣が翻る。
不気味に光る片眼鏡、狂気に歪む不吉な笑み。倉嶋禍殃がヒステリックに笑っていた。
「ちく、しょう……っ」
手足から飛沫を噴出させながら思わず膝を付いていた。体内に異物が混入している激痛に苛まされながら。
自分の後ろにくずおれているはずの泉澄に着弾していないかを確認した。彼女は突然の出来事に困惑し目を大きく見開いている。
「堕ちたか……我が娘よ」
数メートルほど上方にある通路に佇む白衣。時雨の右足と左手首を撃ち抜いた彼は拳銃を指で回転させホルスターに収める。
そうして鉢の中の金魚を俯瞰するような目でこちらを見下ろしてきた。
「何をしている、ギルティを拘束するのだ」
「お、お父様……っ!」
冷たい目線を注がれ臆したように言葉を震わせた泉澄。たじろぐ彼女の足元で何かが弾けた。遺体の骨粉と血潮、腐敗物が弾け飛び彼女の頬に付着する。
泉澄は頬を伝い落ちた赤い液体を、ゆっくりと持ち上げた指先ですくった。それを目にし戦慄するように全身を震えさす。瞳孔が広がった。
「口答えするなら、次は眉間に鉛玉を打ち込む。貴様もそこのギルティと同じになりたくないならば……」
「貴様……っ、これ以上風間を好き勝手し」
乾いた筒音が轟き左肩に鋭い激痛が走り抜けた。持ち直していたアナライザーが手から吹き飛び転がっていく。
更なる銃撃に備えようとし背中に強い衝撃を受けて前屈みにつんのめった。
「覚悟……!」
「!? 風間ッ……お前」
次いで片手で両の手を拘束され背中に冷たい感触が押し付けられる。アナライザーを押し付けているのだ。
時雨を後ろから拘束した泉澄は、遺体から引きはがしたのかベルトを使って両手を拘束してきた。
背を向けた後も襲いかかってこなかったのは、戦意を喪失したからではなくタイミングを伺っていたからなのか。
少しでも彼女が改心したのかと心許してしまった自分の迂闊さを呪う。バカだった。敵に情けなんてかけても自らの寿命を縮めるだけだったのに。
「……っ」
グラグラと揺れる頭を振り向かせて彼女を見やる。後頭部の髪を鷲掴んだ彼女は、血と灰で汚れた顔に冷たい感情を貼り付けていた。
「それでいい、愚娘よ」
不気味な笑みを顔面に張り付けた片眼鏡の男。彼は割れたガラス越しに通路を数歩歩み、壁に併設されていると思われる何かに手を触れさす。
電子音が聞こえてくることからおそらくは電子パネルだろうそれを彼は数秒ほど操作していた。
何をしているのか推測すらつけられないままじっと睨み見上げているうちに、微かな蒸し暑さを感じ始める。
弾丸をぶち込まれ寒気すら感じていたのに。これは体内からの熱ではなく外部からの発熱だ。
「っ、時雨様! 室内の温度が急激に上昇しています!」
「……!?」
はっとして足元を見下ろす。何やら床には一定間隔で小さな穴がいくつも空けられていた。
そこから何か蒸気のようなものが大量に噴出しており、腐臭とは別種の吐き気を催す臭いが充満した。
「ガス……!?」
「トラップです!」
どくんどくんと鼓動がはやまる。ガスの匂いは徐々に増していく。この広大な部屋がガスで満たされるまでは時間を要しそうだが……いずれ窒息死するだろう。
「まさか娘ごと俺たちを窒息させるつもりか……?」
「泉澄よ、そのギルティが絶命するまで決して手を離すな。私はここで断罪が成就されるのを俯瞰しているとしよう」
「クソ外道が……!」
思わず通路にいる禍殃に向けて声を荒らげるも、彼は澄ました表情でこちらを見下ろしている。
娘だけ奇襲させたのを鑑みても、間違いなく泉澄を犠牲にして時雨を仕留めるつもりで。
しかし部屋全体の温度が上昇しているこの場所と、彼のいる場所との間には物理的な隔たりがない。時雨がガスで窒息死するとすればそれは彼も同じ状況であるはずだが。
「……っ」
既に数十度ほども上がった温度に耐えかねたように、泉澄が苦痛の声を漏らす。時雨もまた全身から汗を噴出させながら半ば訴えかけるように彼女に叫びかける。
「それでいいのか⁉︎」
「…………」
「アイツにいいように使われて、それでいいのかよッ」
その叫びに対し彼女は無言だった。苦痛に歪んだ顔面にはうまく読み取れない様々な感情が渦を巻く。後頭部を掴む手にかかる力が弱まる気配はない。
あの時の嗚咽や脱力も全て、時雨を油断させるための彼女の策略のうちであったのだ。その策略にまんまと引っかかりこうして死への道のりを着実に歩んでしまっている。
せめてもの打開案はと押し付けられているアナライザーを一瞥する。
装填されている弾丸は――通常弾。マイクロ特殊弾ならば時雨にしか撃つことが出来なかったのだが。万事休すだった。
「なんだか嫌な予感がしますね……」
「すでに嫌な予感しかしないこの状況で、更にどんな苦難を突き付けようというんだ」
「ただガスを放出するだけなら、そもそも室内の温度は上がらないはずです。だのに……この灼熱。これはおそらく」
ぱしゅんと弾ける音に併せて凄まじい大爆音が響きわたった。
はっとしてそちらを見やる。広々とした空間の中、隅の方で機材が勢い良く宙に吹き飛び真っ黒い炎が舞い上がった。
貯水タンクが爆発し大量の水がばら撒かれるが、それらも一瞬にして蒸発する。炎が噴出されガスに引火したのだ。
「火炎トラップ……!?」
まずい、まずいまずい。これはガス室などではない。
直接炎が噴出されるのはこの地面から。この場所は巨大な焼却施設だ。ダストシュートの真下にあることから予測できたはずなのに。
禍殃があの場所に陣取っている理由がようやく分かった。
「時雨様が爆発に巻き込まれるのも時間の問題です。炎がこちらにまで侵食すれば……確実に助かりません」
あの凄まじい爆風に飲まれ全身が焼き尽くされる状況を想像する。リジェネレート・ドラッグを使うことすらできず、一瞬にして焼失してしまうだろう。
「っ、風間っ、こんなところで死ぬつもりか!」
恐怖のあまりに泉澄に訴えかける。
爆風に煽られショートボブが吹き荒れてもなお、時雨を見つめる彼女の瞳が揺らぐ様子はない。彼女の中にはもはや死を恐る恐怖心すら存在していないのだろう。
倉嶋禍殃という人間の命令のままに動き、彼のためならば自分自身の命すら投げ打つ。そんな機械的な人間に彼女はなってしまっていたのだ。
「そんな
「…………」
「このマリオネット野郎が」
爆発は連鎖的に轟き、配置されている機材全てが爆散する。U.I.F.たちの死体も巻き上げられ空間全体に赤い雨が振り散らされる。
一瞬にしてこの空間は生から死に繋がる場所となった。ガスが爆発を繰り返し空間の半分ほどが既に焼き尽くされている。
一瞬にして灰となり朽ち果てるのも、もはや数十秒と経たないうちのことであろう。
「さあ、早くしろ、泉澄」
こちらを見下ろす禍殃の表情には幾ばくかの疑念とわずかの焦燥が張り付いている。
「早く断罪するのだ。あまり遅くなると、お前もまた地獄の業火に焼き尽くされることになるぞ」
それを耳にし理解する。この男はどうやら自分の娘の安否を気にかけてはいるようである。
焼却システムを作動させたのは、時雨を確実に絶命させるためなどではない。彼女に時雨を殺害させることが目的なのだろう。
隔離監獄施設からの脱獄の際も、デルタボルト跡地で遭遇した時も。彼はあえて泉澄に隊員や看守の死を見せつけた。
あれは泉澄を自分の思い通りになる機械に仕立て上げるために、あえて死と直面させていたのだ。
そして今こうして自身の死に直面させることで、半ば強いるようにして時雨を殺害させようとしている。そうすることで彼女の中にある殺人への躊躇や戸惑いを打ち消そうとしていた。
「わかり、ました」
爆風が吹き散らされる中、泉澄は耳を澄ませていなければ聞き取れないほどに微かに、そう応じた。
距離的には聞き取れない筈であるが泉澄の中に決意の色を見つけたのか、禍殃は不気味な嘲笑を浮かべる。
「そうかよ……お前はそれで、いいんだな」
「言ったはずです。僕がお仕えするのは敬うべき存在だけであると。お父様はいつも言っています。たとえどんな状況であっても、敵に背を向ける行為は何よりもギルティである、と」
振り向いて視界に収めた彼女の姿。大爆発に伴う眩いほどの閃光をバックに佇む彼女。
髪は吹き乱され、頬は赤く炙り照らされ。それでいて絶望的な程に脆く、だが気丈で歪んだ美しさを持っていた。
首筋に押し付けられた銃口が更に食い込み、彼女の指がトリガーに掛かったのが解った。
「やめてください、もし時雨様を殺害するようなことがあれば、このハイスペック人工知能であるネイ様が地獄よりも悲惨な――」
ネイの叫びが鼓膜を揺らす。それすら時雨の頭には入ってこない。
全てを諦めてしまった時、無意識的にまぶたを閉じていた。
もし違う出会い方をしていたのならば、この少女を絶望の連鎖の中から連れ出してやることができたのではないか。
「これで全部、終わりです……」
きらびやかに破壊を繰り返す爆発の衝撃音に、一瞬の銃声が飲まれて消えた。
爆音が止んだ。
鼓膜を破るのではないかという凄まじい衝撃音に包まれていたはずの世界が、一瞬にして静寂に呑み込まれる。
閃光も炎光もなく、ただただ暗闇に閉ざされた世界。微かな不快臭が鼻腔を掠めていた。
すぐに自分が死んだのだと理解する。
自身の生存のために泉澄は引き金を引いた。撃ち出されたマグナム弾は脳髄をぶち抜き、一瞬にして時雨を絶命させたことだろう。
漆黒に落ちた世界、その場所をさまよい続けながら考える。
思い残したことがいくつもある。
リミテッドの行く先と、残してきてしまった真那たちのこと。
ノヴァが出現した大田区に向かった皆は無事だろうか。
泉澄に全身を撃ち抜かれ瀕死に陥った凛音は。時雨に禍殃たちの意識が向いているうちに無事逃げられただろうか。
それともあの爆風に巻き込まれ死んでしまったのか。流石の彼女とて、あの爆風に巻き込まれて生存するのは無理だろう。
そしてあのタイミングでは、泉澄もまた……。
そんなことを考えているうちに、再び奇妙な不快臭が鼻先を掠めた。火薬の焦げ付くような硝煙と、肉の焼け焦げる吐き気を催すこの臭いは──。
──臭い、だと? 死後の世界に、臭いなんてあるだろうか。
そもそもここはどこだ。それに時雨の肉体はどうなっているのだ。霊体になっているにしては全身に痛みがこびり付き、未だに焼け付くような熱を感じる。
徐々に、麻痺していた撃ち抜かれた手足の感覚が戻り、思わず閉じていたまぶたを見開いた。
「っ」
眼球が焼け付くように熱い。
水分が一瞬にして蒸発してしまったのか、視界は一瞬フラッシュバックしたように所々が黒く変色しノイズがかっている。
それも直ぐに収まり、全身にまとわりつくようなきつい熱も一瞬にして引いていく。
視界の中には灰の舞い上がる焼却エリアが映っていた。
「ぐ……!」
いやというほど耳にした声が巨大な房室中に響き渡る。
静寂を打ち破るように紡ぎ落とされた声の元。それを辿るように見上げると、通路の上には右肩を抑えた禍殃の姿があった。
「泉澄……この、ギルティめ」
先までの悪魔的な嘲笑から一変、苦痛と驚愕に歪んだ男の顔。
抑えた肩からはどくどくと血が噴出し、これまで汚れすらつかなかったはずの白衣がみるみるどす黒い色に侵食されていく。
どんな弾丸を受けてもナノマシンで防御し傷ひとつつかなかったはずの彼の体に、傷が刻み込まれていた。
何が起きているのか分からず、だが直ぐにとある可能性に行き着いた。ゆっくりと視線を右側に振り向かせる。
「風間……!」
「下がっていてください!」
血と灰に濡れた戦闘服、それを纏った泉澄。彼女は上段に抱え上げたアナライザーのトリガーをもう一度振り絞る。
パァン、という鋭い音と同時に銃口が火薬を吹き散らし、禍殃の片眼鏡が弾けとんだ。
咄嗟に弾丸を回避したのだろうが、飛来した鉛玉は彼の頬を掠めて奥の天井を突貫した。わずかに負傷した頬から赤い液体が伝い落ち、彼は右肩を抑えたままこちらを睨みつけてくる。
「……申し訳ありません、お父様」
泉澄は酷く落ち着いた声を絞り出した。数歩前に歩みだし時雨の前に盾になるように立ちふさがる。
そうしてアナライザーには特殊弾しか残っていないことを理解しているのか、MP7A1を拾い上げた。その銃口を禍殃に向ける。
「お父様、僕はずっと、自分の中にあるものがあなたに対する忠誠心だと思っていました」
再度弾丸が放たれ、それを直前で回避した禍殃は傍の支柱の陰に隠れた。泉澄は撃っても着弾しないと判断したのか僅かに銃口を下げて話を続ける。
「それは確かにあったのかもしれません。ですが、あなたは僕に何も与えてはくれませんでした。与えてくれたものは恐怖と、死に直面する機会と、そして間違った選択だけでした」
「風間……」
「何か、見返りを求めていたわけではないんです。でも、それでも僕は孤独が嫌でした。せめて、せめて……僕の心の寄る辺となる、愛情を注いで欲しかっただけなんです」
震える声で泉澄はそう言い切る。それは明確な禍殃に対する決別の言葉だ。肩を僅かに震わせ、泉澄は銃口を完全に下げることはしない。
自身を縛る呪いを断ち切るために、ここで全て終えようとしている。
「烏川時雨……あなたは、どうして僕を助けてくれたんですか?」
「助けたつもりはない。俺はただ、自ら死のうとするお前の行動に虫酸が走っただけだ」
突然声をかけられ、反射的に立ち上がろうとして力が入らずにその場に膝をつく。
そんな時雨を一瞥するわけでもなく返答を耳にした彼女は、更なる言葉をかけてくる。
「そう返してくると思いました」
「…………」
「あなたは、自分の行動に対価を求めていない。何らかの自尊心があってやっているわけでもない。あなたが、あなたこそが……本当の正義に思えます」
そう言って泉澄は禍殃が隠れている支柱を注意深く睨みながら時雨の後ろに回り込む。手早く手首を抑えているベルトを取り外しにかかった。
腕の拘束が解かれると同時、リジェネレート・ドラッグを取り出して首筋に突き立てる。
すぐに冷たい液体が全身に雪崩れ込み、ぞわぞわとした悪寒に苛まされた。それに併せて全身の傷が癒えていく。
体内に埋まったままの弾丸は排出されていないが、今はそんなことを気にしている余裕すらないのだ。
「あなたに自決を止められたとき、僕をつなぎとめてくれたあなたの手は……とても暖かかった」
彼女は時雨が回復するのを確認し、再度支柱に身を潜める禍殃に向き合う。
「それは僕が求め続けていた温もりでした。愛情とは違うけれど、とても安心するような……そんな」
「そんなつもりは」
「それでも、僕にとってはそれが正しいものだと無条件に思えたのです。今のリミテッドは間違い、腐ってしまっているかもしれない。ですが、あなたは確かな正義の元に動いている。あなたは正しい」
一瞬だけこちらを見つめた彼女の瞳には。失われていたはずの光が宿っているような気がした。
「烏川時雨……いえ、時雨様。僕は、あなたに忠誠を誓います。いつ如何なる時もあなたに仕え、この身を呈して、あなたをお護り致します」
「風間、お前、」
「時雨様、今、このひと時だけは……僕のことを風間とは呼ばないでください。ですが倉嶋とも」
「……泉澄」
「はい」
「一緒に戦ってくれるのか?」
「はい、時雨様のためならば。この身が朽ちようとも」
晴れがましい彼女の笑顔。見たことなどなかったその純朴なる破顔に、今度こそ確信した。彼女は本気で訣別の決意をしたのだ。
「ふは……ははははははっ!」
不意に狂ったような笑い声が反響した。
「全く、エクセレントな娘だ泉澄よ、そうだ、そうでなければ私の娘には相応しくない!」
「…………」
「裏切り、寝返る。それ程のギルティが他にあるだろうか。否! 存在しないと言っても過言ではない。私が研究してきた如何なる方法でも、お前は完全に飼い慣らすことのできないギルティだったようだ」
禍殃は半狂乱になったように笑っている。
肩から噴出するどす黒い血はその勢いを抑え始めたのか今は手を離し、両の手を腰脇に抱えあげる。
「娘であろうと、ギルティはギルティだ。私は断罪者として、泉澄、貴様に相応の罰を与えよう」
彼は不敵な嘲笑を浮かべたまま、その手を振り下ろそうとした。
「ぐぁ……!?」
禍殃は突然上半身を全面につんのめさせた。凄まじい衝撃音と骨が数本逝ったような鈍い音。そのまま宙に投げ出され顔面から房室の地面に突っ伏す。
はっとして彼がいた場所を見つめると、そこに回転しながら着地する白い姿があった。
「凛音!?」
「無事かシグレ!」
焼け焦げた戦闘衣をたなびかせながらその場から飛び出した凛音。
彼女はその小さな体には不釣り合いな重量をかけて一気に禍殃めがけて落下した。前方回転からの金属尾。禍殃は言下で回避する。
灰と粉塵をまき散らしながら凛音は立ち上がり、間髪入れず回転蹴りを禍殃のガードするためにクロスした腕に叩き込んだ。
「ッ……!」
またもや骨の粉砕する鈍い音ともに彼は後方に吹き飛ぶ。腕から真っ赤な血を噴出させ機材の山に突っ込む。
それを確認することもなく凛音が時雨の元へと駆け寄ってくる。
「お前、無事だったのか?」
「撃たれた痕なのだがな、全部急所が外れていたのだ。イズミ、助かったのだぞ」
時雨を守るように背を向けた彼女。その背中を見ると、確かに弾痕はその小さな肉体の急所を的確に外し貫通していた。
彼女の再生力ならばこれならば時間をかければ治せる。まさか泉澄は最初から彼女を殺す気などなかったのか。
「もしかして、火炎トラップを止めたのも凛音か?」
「なんだかよくわからなかったのだが……カオウとかいうやつが弄っていた機械をぶっ壊してやったのだ」
こちらに視線だけ振り向かせ得意げに親指を突き出した彼女は、自慢げに長く黒い金属の尾を揺らす。
それを禍殃に気が付かれぬよう操作用機械にぶち込み機能を停止させたのか。
正直それでシステムが停止したのは奇跡にも等しいものではあるが。いや、獣化した凛音のその尾はナノマシンの群集したものだ。それが突き刺されば機械であろうと内側から編成され再構築される。
今は彼女が繋いでくれたこの命を、こんな場所で費やすわけにはいかない。
「痛いではないか」
見据えた視線の先で遺骸の山の中から白衣の男が立ち上がった。
ねじ曲がった腕を彼はぐるんと回転させる。力なくぶら下がっていたはずの腕が何事もなかったように動いていた。
空になっているであろうインジェクターを投げ捨てたことからして、リジェネレート・ドラッグを投与したのだろう。
「ギルティどもめ……揃いも揃って私の計画を狂わせるか。いいだろう、ならば私自ら貴様らを断罪してくれようではないか」
そう言って彼は懐の中から真新しい片眼鏡を取り出す。
凄まじい生命力だと武器を構えようとした時、いち早く弾丸が彼の治ったばかりの腕に着弾した。鮮血が噴き散らされ彼はその表情を苦痛に歪めた。
「時雨様、お下がりください」
凛音に並び立つように時雨の前に立った泉澄。彼女の戦闘服がはためき、その隙間から銃口から硝煙を焚きあげるMP7A1が窺える。
「ギルティはあなたです。お父様」
その言葉はもう一切の震えを持ってはいない。トリガーに指をかけ一瞬言い澱んだ後にゆっくりと口を開いた。
「僕は、時雨様の騎士として、お父様……いや、倉嶋禍殃────貴様を殺す!」
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