第87話

 がたがたと車体が揺れる。巨大な輸送車両の荷台の上で時雨は息を潜めていた。


「もうそろそろ、レッドシェルターの検問につくよ」


 インカムから紲の声が響く。いったんレジスタンスの宿舎に戻ってもらい、その個室から連絡をさせているのだ。

 彼女はおそらく今、部屋に備え付けの据え置き型ホログラム投射装置にビジュアライザーを接続しているはずだ。

 別れる前に転送したソリッドグラフィのデータ。それを目視で確認し時雨に情報を流している。


「検問に到着したみたい。やっぱり正面ゲートに進む場合、A.A.とセントリーガンの迎撃セキュリティは作動しないみたいだね」


 狭い視界の中、周囲の様子をうかがう。確かに紲の言うとおり定間隔で並んでいる巨大なマシンとセントリーガンは鳴りを潜め微動だにしていない。

 レッドシェルターに入るにしてもA.A.などに感づかれずに通過することは不可能だ。ならばそれらを難なく越えるためには正攻法しかないのである。

 生体認証が行われるのはA.A.やセントリーガンの後方にある検問だ。つまり無理矢理到達しようとでもしない限りA.A.などは攻撃をしてこない。

 とはいえ最難関の検問が待ち構えている事実は変わらない。


「通行証を提示せよ」


 インカム越しに外での会話が聞こえてきた。それに対し元織寧重工職員兼警備員であった佐野が応答する。


「通行証はないんですよ」

「ならばここは通せぬ。レッドシェルターに入場できるのは居住権を有するものと通行許可が下りているものだけだ」


 案の定かたくなに通行拒否をされる。これは想定の範囲内だ。むしろ問答無用で銃殺される可能性も考慮していたため、安堵に胸をなでおろす。


「ああいえね、通行証はないのですがこの誓約書がありましてね」

「誓約書だと?」

「私は織寧重工からの遣いの者です。防衛省からのくだんの新型軍用機への先行投資に関する誓約書なんですが……」

「確認する。誓約書のデータを転送しろ」


 佐野は言われた通りデータを転送したようだ。それは先ほどネイが織寧重工のサーバーにハッキングして取得した誓約書である。


「ふむ。確かにこれはレッドシェルター金融コードと一致している。偽物の誓約書ではないな」

「当然じゃないですか。そんな意味のないことはしませんよ」

「だが、かといってこの検問を通す理由にはならない」

「いやね、そこに不祥事、不測の事態が確認された場合の制約が書かれてましてね。試作機の転送を今月末までにしなきゃいけなかったみたいなんですよ」

「……確かに記されているな。少し待て、鑑識に確認する」


 状況はどうやら難航している様子もない。ここで通行許可が下りなければすべてが水の泡だが。


「……鑑識から通行の許可が下りた」

「それは助かります」

「だが原則としてレッドシェルター居住権を有しない者を通過させるわけにはいかない。あなたにはこの場所で待機していただく」

「ああ、そういうことでしたら構いませんよ。そう指示されてきましたので」


 もちろん指示を出したのは時雨である。正確には佐野には何も感づかれぬよう紲に頼んでやってもらったのだが。

 佐野が降り代わりに隊員が運転席に乗り込む。


「荷台には何が乗っている」

「誓約書の試作機です」

「他に危険物などは持ち込んでいないか?」

「多分ないと思います。試作機用の弾薬くらいならあるかもしれませんが」

「それは構わない。セキュリティによる識別を行うが問題ないな?」

「ええ、もちろん」


 識別とはつまり生体識別、兵器識別と呼ばれるものだ。

 レッドシェルター内部に入る際にその権利があるものであるかどうかを判別するための手段が生体識別。

 時限式だったり遠隔で起爆できるような大量虐殺兵器などが搭載されていないかを判別するのが兵器識別。

 輸送車両は試作機を積んだまま正面ゲートの近くにまで移動する。そうして識別センサーを作動させた。


「さて、ここが正念場ですね……」


 息を潜め成り行きに身を任せる。

 A.A.を乗せた輸送車両ですら余剰ができるほどの敷地の識別セキュリテイ。その一番末端から輸送車両の方向に識別用のセンサーが迫ってくる。

 

「私の予想通りであるならばここで時雨様の生体識別は行われないはずです。ですがもし、識別が行われれば……」

「蜂の巣だな」


 さりげなく後方に待機するA.A.群を見やる。セントリーガンは射角が狭いため後方までは銃撃できない。移動型二足歩行兵器であるA.A.からしてみればそんなことは関係ないわけだ。

 徐々にだが着実にセンサーは接近してくる。生唾を飲み下しただ固唾をのんで待ち構えた。


「識別でおかしなものは観測されなかった。問題ない、通行許可を出す」

「寛大な対応、助かります」

「そこで待機していろ。私が内部に運ぶ」

「あ、ちなみにどこに運ばれる感じですか?」

「どうしてそんなことを聞く」


 不審げな関門の問いに佐野はああいえそれがですねと陽気に応じた。


「織寧重工本社の方から確認するよう指示を出されていましてね。担保故、引き渡し後は防衛省の方々に利用用途は移譲するみたいではあるんですが」

「ふむ、まあいいだろう。鑑識からはこのまま大型兵器保管庫に格納するように指示を出されている」

「佐野さん、それだけ聞ければもういいよ」

「了解しました。そう伝えておきます」


 佐野はそれ以上問いただすことをしない。時雨の用いているものとは別の無線周波数を用いて、紲が指示を出したからだ。

 それらはすべて紲にそう指示していたことでもある。


「通過する。相川、君は検問のセキュリティ審査を継続してくれ」

「予定通りですね。正面ゲートを通過できそうです」

「輸送車両はレッドシェルターの内部に入ったよ……そのままどこかに向かうみたい」

「先ほどの局員の発言から鑑みますに、目的地はレッドシェルター南東部重機保管所ですね」

「具体的にはどこにあるんだ?」

「帝城の直ぐ傍です。限りなくレッドシェルターの中心地に近いと言えるでしょう」


 視界情報が制限されるためソリッドグラフィは展開させていない。もしあのホログラム地図が展開されていたのなら、自分たちのマーカーは中心地に向かっているのが見えているわけだ。


「柊が監禁されている監獄エリアの位置は?」

「A09地点です。重機保管の格納庫からの距離は直線距離で一キロ弱ですね。紲様、ソリッドグラフィ上、監獄エリアの位置にマーカーを刺しておきます」

「一キロか。結構距離があるな」

「とはいえ輸送車両から途中で降りるのは得策ではないかと。場合によっては捕捉されかねません」

「時間は惜しいが、いったん導かれるがままに格納庫に向かうか」


 ビジュアライザーで時刻確認。タイムリミットは残り五十分を切っていた。

 レッドシェルターは千代田区全域という膨大な敷地を有している。位置情報を取得している以上、時間的猶予はそこまで切迫しているわけではない。

 それは予定通り何の弊害もなければの話だ。もし潜入に感づかれ敵の遊撃部隊でも展開されれば……、


「でもすごい、どうして検問識別に引っかからなかったの?」


 ソリッドグラフィを確認してか紲は感嘆の声を上げていた。その疑問は当然である。

 強行突破しようとして撃退され、他の方法でも一切成功できないとあれだけ実感させられていた内部への潜入。

 それがこんなにも簡単になされているのだから。時雨だって、もし理由を知らされていなかったのならばこの事実に驚愕を隠しえない。


「簡単ですよ。生体識別によって時雨様が特定されてしまうのでしたら、それを回避しうる環境に身を投じればよかったのです」

「どういうこと? だってそれができないのが検問だったんでしょ? だからあんなに苦戦して……」

「ええ、通常ならばそんな環境は存在しません。というよりもそんな環境に直面できません。ですが今回はそうではなかった」

「どういうこと?」


 暗闇の中、ビジュアライザーの投影機に展開されたウィンドウに写る紲の顔が思案に歪む。


「今回は偶然にも、というより奇跡的にその環境が私たちに流れてきたのです。紲様の案によって」

「この試作機を用いたレッドシェルター内部への潜入は、当然試作機を担保とする誓約書がなければ成立しなかった。それを成立させたのは紲が協力してくれたおかげだ」

「よく解らないけど……結局、試作機と時雨くんが識別に引っかからなかった理由はどうつながるの?」

「簡単なことですよ。特定を回避しうる環境すなわちセンサーが識別しえない場所にいるだけです。A.A.の内側ですよ」


 そう、試作機の内部にいるのだ。輸送車両に乗せられた試作機の中から試作機のモニターにて外部の状況を把握している。

 

「試作機の内側って……でもA.A.に乗っていてもセンサーには反応しちゃうんじゃないの?」

「ところがどっこい、そうはならないのです。これは織寧重工の内部情報をクラッキングして知り得た情報ですが。A.A.に用いられている金属はグラナニウムという特殊性質のある金属なのです」

「隔離病棟でA.A.に襲われて、その時初めてネイに教えてもらったんだが……」


 グラナニウムは事実上絶縁金属らしい。だから熱源反応があってもその識別を阻害できる。無論セキュリティセンサーによる透視識別もだ。


「なんだかよく解らないけど……つまり、A.A.の内部は識別されなかったってこと?」

「はい。おそらくあのセンサーには、A.A.内部の構造など何も見えなかったことでしょう。ただの鉄の塊だと判別されたはずです」


 センサーに反応されない方法はそれしかなかった。ただこの車両に隠れていただけならば、速攻で見つかってしまっていたはずだ。

 そう考えれば、これは様々な条件が偶然一致し生まれた環境だと言える。織寧重工が担保に試作機を指定されていなければこんな作戦は使えなかった。


「実際に目視で検査されなくてよかったな」

「いえ、その心配はもとからありません。何故ならば、この新型以前の旧型のほとんどのモデルが操縦者の搭乗機能が非搭載だったからです」

「遠隔操作がメインということか」

「というよりは、従来のアンドロイドやA.A.といった重工業兵器のほとんどが無人機だからです。これまでのA.A.にも搭乗機能付きのモデルもありましたが、ですが到底人が搭乗できるスペースなど確保できていなかったので」


 無人型が基本であるならば当然内側に搭乗スペースがあるなどとは考えない。

 もしすでにこの新型A.A.がレッドシェルター内の生産ラインに出回っていたのであれば、話は違ってきたかもしれないが。

 織寧重工廃業に伴い新型A.A.は全て廃棄処分される形となったために、試作機に搭乗機能が備わっていることは周知とはされていないのだ。


「さて、あまり会話をしていて運転席の人間に聞かれてしまっては元も子もありませんから」

「それもそうだな。紲、継続して輸送車両周囲の状況伝達を頼む」

「まかせてっ」


 そのまま輸送車両に揺らされること数分。紲からの途切れない伝達によって重機格納庫に到着したことが分かった。


「今、目的地の前で停止してる……なんだか運転していた局員が待機してた局員と会話してるみたい」

「ここからでは会話内容は定かではありませんね……とりあえず、まだ動かずに待機いたしましょう」

「時間がないんだ」

「お気持ちは察しますが。時間的な問題が浮上したとしても敵に見つかるような行動は極力避けるべきです」


 時刻を確認せずにはいられない。午後10時22分。タイムリミットまで四十分弱だ。それと同時に車体が動き始めたのが解る。


「あれ、おかしいな」

「どうしましたか」

「えっと、このレッドシェルター中心近くの大きな施設が格納施設なんだよね? 今、その施設を通り越したみたい」

「通り越した? どういう意味だ」

「言葉通りの意味でしょう。ヤバいですね……」


 たしかに予定通りではないが車両がどこに向かってるのか判断して対処すればいいのではないか。

 ヤバいと表現したネイの意図を読み取れずにそう応じると、ネイはホログラムの指を口元に押し当て思案し唸って返してくる。


「だからその目的地がヤバいんですよ。格納施設を抜ければ中心部にまではもう何も施設がありません。唯一存在するのは帝城です」


 はっとしてモニター越しに車両の向う目的地を見定める。確かに着実に帝城に向かっているのが解った。


「もし帝城よりも奥のどこかに向かうのでしたら、迂回していくのが正規の道順です。わざわざこのルートを通る理由はありません」

「だがなんで帝城なんかに……もしかして気づかれたか?」

「いえ、そういった様子でもありませんでしたが。先ほど合流した局員から何かしらの指示を出されていたようですね。何であれ、注意する必要はありそうです。時雨様、臨戦態勢は整えておいてください」


 ネイの指示を耳にするよりも早くアナライザーに手を掛けた。

 通常弾はまだ余裕があるが指向性マイクロ特殊弾は残り二発。計画的に使わなければなさそうだ。もちろん使わないに越したことはないのだが。


「やっぱり輸送車両、帝城に向かってるみたい」

「くそ……」

「車両のまま、内部に入ったよ」


 紲の言うとおりモニター越しに無機質な無駄に広い通路が見えた。

 昔は毎日のように目にしていた光景である。実質一か月ちょっとしか経過していないわけであるがもう半年以上も昔のことに思える。

 それだけ、レジスタンスでの生活が濃密なものであったというわけだ。

 

「一か月ぶりに戻ってきてみると……元々は普通の光景に思えたのに、今じゃヤバい施設にしか見えないな」

「まあ実際ヤバい施設ですしね」


 車両はそのまま通路をまっすぐ進んでいく。やがてホール状に開いた空間に出た。広さ数百畳ほどの大広間である。

 帝城の中心地点であるのか、広間の円周上にはいくつもの巨大な扉が並び、今出てきた扉もまたその一つであることが分かる。


「なんだ……あれ」


 高さ十メートルほどもあるその広場の中央には円筒状に伸びる何かが支柱のように聳えている。

 目測で半径十メートルほどの、ガラスの筒。内側にもまた支柱のようなものがあり円筒の二重構造になっている。

 幾何学的な模様が表面に浮かび、無数の気泡のようなものが上昇しては循環していた。

 それを見て隔離施設にあった培養槽を脳裏に思い返す。それと同時に何やら胸騒ぎのようなものが沸々と湧き出してきていた。


「この場所には来たことがありませんね」

「俺たちの行動範囲は制限されていたからな……まさか帝城の中心部にこんな部屋があるとは」


 しかして何故こんな場所に試作機は輸送されてきたのか。そもそもこれは一体何なのか。


「運転席から局員が降りたよ」

「…………」


 モニターには車外に降り立ち時刻を確認している様子の局員が伺える。一体何を待っているのかと訝しく思っていた時だった。不意に後方から声が響く。


「やぁ鈴木君、待たせたね」

「っ、山本、一成――――!」


 反射的に息を潜めていた。そもそも拡声機能を起動していなければ、機外の彼に声が聞こえたりはしないのだが。

 

「輸送車両をここに呼び寄せたのは、山本一成様でしたか。しかしいったい……」

「ああ、ご苦労だね、鈴木君。無事ここまで運んでくれて助かったよ」

「山本開発局補佐、僭越ながらここに試作機を運ばされた理由をうかがっても?」

「何、気にしなくていい。ただの知的好奇心さ」


 そう答えて一成はウィンクをして見せる。彼の存在しない前髪を正すしぐさを目の当たりにしながら、言い知れない不安感に駆られていた。

 それも強烈な、これまで感じたことのないような恐怖にもにた焦燥。どうして彼の顔を見ただけでこんなにも心がざわつくのか。


「は、はぁ」

「まあ、気にしなくていいさ」

「それから、先ほど誓約書を拝見いたしましたが、織寧重工が制約を交わしていたのは、レッドシェルター金融コードだったように思いますが。いくら山本一成補佐であっても、担保である試作機に無許可で関与するのは……」

「ああ、その点も気にしなくていいよ。上から許可は取ってあるんだ」

「上というのは、鑑識課でしょうか」

「ん~まあそんなところだね。この試作機回収に当たって、僕たち化学開発部は新型A.A.の生産役を受け持っているのさ。知っての通り、織寧重工は陥落してしまったからね」

「な、なるほど」

「これは佐伯局長の方に責任をもって僕の方から渡しておくよ。君はアダムの指示を仰ぎ、行動したと言えばいいよ」

「そうですか、解りました。それでは失礼します。またこの車両は織寧重工の物です。輸送が完了しましたら返送していただくよう、お願いいたします」


 局員はそう応じて車両から降りる。そうして徒歩で来た道を帰って行った。

 その部屋には時雨を除けば一成だけが残され、彼は満足そうな顔で試作機を見上げている。


「そういえば……」


 踵を返そうとした彼はふと何かを思い出したように口を開く。


「この支柱だけど大したものじゃないよ。ただのエレベーターさ」

「ッ!?」


 時雨と一成以外誰もいない空間での発言。当然その矛先は時雨以外に他ならない。いやそれともただの独り言か。


「帝城の中で、地下に行く経路は唯一このエレベーターしかないんだ。帝城中心部から地下にまで一貫して伸びているエレベーター・『ロータスの心臓』……と、無意識的に独り言を言ってしまった。はぁ、僕も年かな」

「…………」

「なんとなく、懐かしい陰湿な蛇の香りがした気がしたんだけど……気のせいだよね、ねえ、イヴ」


 背中を向けたまま一成はひとりごつ。それが本当に独り言であったのかは定かではないが彼は振り返ることはしなかった。


LOTUSロータス……っ」


 どくんどくんと鼓動がはやまっていく。頭に血が一斉に登っていくような感覚まで覚えた。思考がクラッシュし何も考えられなくなっていく。何故だかわからない。

 かつんかつんと足音を立てつつロータスの心臓と呼んだ支柱へと歩んでいく一成の後姿を見て。戦慄が電光のように頭の中を突き刺していた。明確な恐怖が胸の中で激しく蠕動する。

 

「や、やめ……」

「時雨様……?」


 様子がおかしいことに気が付いたのかネイが名前を呼んだ。それに答えている精神的な余裕など今の時雨には存在しない。

 一成の後姿から目を離せない。そしてその先にそびえる不気味な支柱から。


「オープン、セサミー。トゥー……リバティィィイッ!」


 仰け反るポーズで固まりながら発した意味不明な発言。そびえ立つその支柱に変化がもたらされた。

 天井に深く突き立ったそのエレベーターは変わらず不気味な色に発光していて、床に面したその一部がゆっくりと左右に展開し始める。どうやら一成の独り言の通りエレベーターであるようだ。

 彼がこの場所から去ってくれるだと察して無理矢理心を落ち着かせようとする。


「ッ、っ……」


 扉が左右に開いていくにつれて胸騒ぎが悪化していく。胸の内側を掻き毟られるような煽られ続ける不安感。周囲の音や事象すべてが思考から遮断されていくような。

 この感覚、初めてではない。そう最近……織寧重工で感じた――――。


「――――――まって」


 ドクンドクンと。鼓動が早鐘のように爆ぜた。


「あ、あ……っ」


 また、またなのか。

 

「なんで、また……ッ」


 エレベータの内部、開き切った扉のその奥には少女が佇んでいた。風もないのになびく黒髪。

 時雨に向けられているかのように伸ばされた手のひら。冷たい瞳で時雨を見つめていた。


「どうして、こんなとこにいるんだよ……真那」


 全身が小刻みに震え始める。


「真那……? 時雨様、まさかまた見ているのですか、その幻覚を」

「本当にそこにいるのか? そこに、その場所に、本当にいるのか?」

「時雨様、落ち着いてください」

「答えてくれ、そこに本当にいるなら、答えてくれッ」


 理性を失ったように叫ぶ。自分が理性を失っていることを客観的に認識できてもいた。

 そんな自分のことを抑えられない。視界の中に確かに真那はいたから。記憶の中の真那が。


「答えてくれ!」

「ですから時雨様……落ち着いてください! あまり叫べば一成様に気付かれてしまいますっ」

「だまれっ、真那がそこにいる!」


 ネイの静止を聞かずA.A.のモニターを殴打する。おそらく耳を澄ませば外からでも聞こえてしまいそうなほど激しく。

 

「返事しろよ、真――」

「――――ダメ」

「っ……!」


 伸ばしていた手を少女はゆっくりと引き戻す。そうして人差し指を唇に重ねた。静かにしろとでもいうかのように。


「なんだか騒がしいね。ドブくさいネズミでもいるのかな。まぁ僕はイヴ以外の匂いには興味がないけど」


 一成は何かに感づいたようだが、振り返ることはせずエレベーターに搭乗しそして試作機の方を見た。

 彼と目があったような錯覚に陥った。ゾクゾクと背筋を撫でられるような気持ちの悪くなる悪寒。

 不敵な笑みを携えこっちを見ていた一成はふと自身の脇を見下ろした。少女が佇むその場所を。


「そうだよね、イヴ」


 彼と時雨とを遮断するように重厚なエレベーターの扉が閉まった。

 彼らがこの空間から消えてもなお、しばらく彼女の消えたその場所から目を離せない。確かに一成は真那に語りかけた。錯覚などではない。幻覚などでも。

 彼女は本当にあの場所に存在していたのだ。


「……時雨様、お気を確かに」

「やっぱり真那はいた、あそこに本当の真那が、ここに……!」

「時雨様、何度も言います。それは幻覚です」

「またそんないい加減なこと」

「いい加減ではありません。何故ならば、私はあの場所に一成様以外の生体反応を感じませんでしたから」


 思わず目をそらしネイを見やる。


「感じなかったって、どういう」

「私の感覚器官すべてを駆使しても、あの場所には一成様しかいませんでした」

「そんなはずはない、山本一成だって真那に話しかけて……っ」

「残念ですが、私の認識では、一成様の瞳孔に拡張・縮小の変化は見られませんでした。おそらくは何も見えていないその場所にイヴの虚像を映し出していただけでしょう。妄想です。エアイヴです」

「そんなわけ、」

「そもそも、一成様は真那ではなくイヴと呼んでいたではありませんか」


 確かに言われてみれば、そうである。


「だが……」

「紲様、一成様がエレベーターに乗り込むまでの間、ソリッドグラフィに反応はありましたか?」

「え、えっと、どの反応がその山本一成って人なのかはわからないけど、一つしか映ってなかったよ」


 戸惑った様子の紲のその一言で、ネイの言うとおりであると納得せざるを得なくなった。

 本当にただの幻覚に過ぎないのか。本当に真那はあの場所にいなかったのか。


「時雨様、前も申しあげましたが、真那様は時雨様の傍にいらっしゃるではないですか。未成年版真那様の妄想を膨らませるのはいいですが、現実は見据えるべきです」

「えっと、あんまり知ったような口はきけないけど……ネイさんの言うとおりだよ。そういうのってあんまりよくないと思う。だって聖さんが可哀そうだもん」


 かたや控えめな物言いではあったが、二人に否定され何も言い返せなくなる。


「何であれ、今はそんなことを気にしている時ではありません。いいですか時雨様、思い出してください。私たちは何のためにこの場所に潜入したのですか」

「! 今何時だ」

「午後9時35分です」

「あと二十五分しかないのか……っ、急がないと」

「幸い今このエレベーターホールは無人です。さっさと離脱しましょう」


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