第73話
「まずい掴まれ!」
循環制御器から枷が外れたように一斉に噴出を始めた水を全身に叩きつけられては幼いクレアの体ではひとたまりもない。
反射的にクレアの体を抱え屋上のフェンスにしがみつく。真那と紲もまた押し寄せる水流に必死に耐えているのが見えた。
大量の水は一斉に地上へと吸い込まれていく。土砂降りのように否もはや雪崩のような光景に。
皆が呆然としてその場に立ち尽くしていた。しかしすぐに悄然は絶叫へと変貌する。そんな彼らを悄然ごと濁流は呑みこみ洗い流す。
「時雨様! 急いで制御機を修繕してください!」
「無理言うな!」
水圧に吹き飛ばされそうになりながら叫ぶ。木端微塵に爆破された制御機を直すことなどできるはずがない。
「ではサイバーダクトで水道ラインを調整します!」
そういったネイが何やらセキュリティウィンドウを展開するのを確認することもなく。クレアの襟首をしっかり掴んでことを確かめ、そうして真那たちの元へと水をかき分け接近する。
「紲、大丈夫か?」
「大丈夫だよ。でもこの水……一体何が目的なの?」
殺人的な最初の勢いを失せて大分精力を失っている水の噴出。大量の水が依然として溢れているものの今や立っていられないほどではない。
水位は膝下にまで下がりそれらの殆どが屋上から地上に雪崩落ちている。
「真那もいるな?」
「ええ。無事よ」
真那はフェンスを伝いながら近寄ってくる。彼女が時雨の手首を掴むころには、すでに水の高さは足首あたりにまで下がっていた。
「水道システムへのアクセスを完了。電子バルブ機能をオンに切り替えました」
「水の放出を食い止めたのか?」
「あくまでも応急的な処置ではありますが。現状打開する程度の時間は稼げるはずです」
「現状打開と言っても。この水害、ある意味これ自体が打開策だったんじゃないかしら」
雪崩れた水は地上を覆い隠しすぐに海流に呑まれてその水位を失った。あとに残されたのは干ばつした地上の凄惨な光景ばかり。
地面に積み重なっていた遺体の山や、アスファルトにしみ込んだどす黒い色も。すべてが洗い流され何もない。
ただそこに留まっている者は数百名の生者たちばかりだ。幸正たちが状況を立て直そうと立ち回っているのが見える。荒だたしい無線も飛び交っていた。
「ノヴァが、いない」
そこには確かに金属生命体が存在しない。先ほどまで人間を食らいつくそうと躍起になっていた化け物たちが。その姿が一切見当たらないのだ。
「さっきの爆流で、すべて流されてしまったのよ」
「だが人間たちはあの水流に耐えられたんだ。ノヴァは全部流されたというのか?」
「それは……」
真那自身、納得はいっていないようである。
重量的にも総合的な力の個体値的にも人間を圧倒的にノヴァは凌駕している。そのノヴァが人間が絶えられた爆流に耐えられなかったというのか。
悪寒が頭から心臓まで粘ついた汚水のようにゆっくりと伝っていた。
「そうではありません」
悪寒を確証つけるようにネイが否定の意を示す。
「ノヴァはただ流されたわけではありません。そうあるべくして水に呑まれた」
「どういうことだよ」
「このシチュエーションは水害を引き起こした人物のシナリオ通りなのです」
「風間の、か?」
「アイドレーターそのものの……いえこの場合は倉嶋禍殃のといったほうが的確かもしれませんね」
ネイの言わんとしている真意を読み取れず眉根を寄せる。そんな疑念を晴らすようにネイは端的に答える。
「アイドレーターの目的。それは単にノヴァをイモーバブルゲートの内側に出現させること、ではありません」
「それなら」
「いえあながち間違ってはいませんが。ですが正確に言えばそれは間違っているのです。何故なら……倉嶋禍殃が出現させようとしているのは、神の遣いなどではないからです」
「神の遣いじゃないって……つまり、アイドレーターでいうフォルストではないということ?」
「いえ、そういうわけではありません。倉嶋禍殃にとってノヴァによる人類の殲滅はあくまでも自然の摂理。フォルストと称したたえる偶像崇拝者ですから。それ故に彼はそれ以上の存在を求める」
それ以上の存在。その言葉に無意識的に胸騒ぎを覚えた。
「倉嶋禍殃の目的。それは――――神そのものの降臨です」
「神……だと?」
「そう。自然界には、弱肉強食が存在します。強き者が弱者を蹂躙し、ですがその強き者をも蹂躙する者がいる。それこそが自然界の摂理。時雨様たち人間はその生態系の頂点に君臨している気でいますが、現在進行形で人類は弱者です」
生態系のトップに君臨しているのは紛れもなくノヴァのなのですからとネイは淡々と続ける。
「化学の反乱ね。人類の手によって生み出された化学によって今人類は絶滅の危機にさらされているのだから」
「皮肉な話ですが、ね」
「ネイ、そんな御託はどうでもいい。神というのはどういうことだ」
「急かさないでください、循環器よりも早く漏れやすい時雨様。あなたは起爆剤すらなしに爆発してしまう歩く十八禁ですか」
こんな状況下であってもネイは罵倒を忘れない。いっそ清々しいほどのそのスタイルに今は感服している時ではない。
「いいですかニワトリ脳の時雨様。自然界の摂理であるその弱肉強食のピラミッド。その頂点は常に移り変わります。ですがその変質に携わらない絶対的な存在があります。それこそが神、すなわち全生命体の『超越者』です」
「その神の降臨って……何言ってるんだ。神というのはあくまでも象徴的、抽象的な存在だろ」
「はい。従来の考え方で言えば、その通りです。すべての存在の超越者など、あるわけがない。信仰。憎悪。祈願。それら対象として君臨する者が、神です。あくまでもそれは人間が卑屈な世界で生きるために生み出してしまった、仮想の産物でしかありません」
ですがとネイは語調を強める。
「その仮想の産物を現実のものと信じてやまない……いえ現実にしてしまう人間たちがいる。それこそが
「御託はいいと言ったろ」
「いいですか時雨様。神は存在します。あくまでも、アイドレーターの認識する中で。それが私たちの知る神という存在の常識を凌駕しているにせよ。アイドレーターにとってノヴァとは神の遣いであり、かつ神そのものでもあるのです」
本格的に彼女の言葉の意味を理解できない。理解力が乏しいのかと真那たちの顔色をうかがうが、どうやら彼女らの理解できる範疇からも逸脱しているようだ。
「かつ。すべての生命体はある場所から生まれたといわれています。どこだかわかりますか?」
「母の腹の中か、卵か」
「妊婦の相談を受けてるんじゃないんですから。ここは産婦人科ではありませんよ。アブノーマライズフェティシズムの時雨様。そんなリアルティックな返答が聞きたいのではありません」
「……海ね」
何かに感づいたように真那が目を細める。
「その通りです。生命体の起源は海です。すべてはこの広大なる水たまりの中から始まった。それ故にアイドレーターはすべての頂点かつ超越者たる神を、その海の存在と捉えます。海こそが超越的存在」
「だからさっきから何意味不明なこと言ってる。超越だとか何とか……哲学なんて興味ないっていって」
「リヴァイアサン……ね」
真那のその言葉に思わず目を見開く。ここでその名を耳にするとは思ってもみなかった。
「そう。すべての生態系。その頂点に君臨するノヴァ。そして、そのノヴァをも凌駕する存在。それこそが神……それこそがリヴァイアサン」
「あれは……ただのノヴァだろ」
「時雨様方の認識で言えば確かにただのノヴァです。ですがアイドレーターにとってはそれは間違いなく神、超越者です」
「……連中は本当にアレを出現させようというのか?」
ぞわりとした悪寒が確信に変わった瞬間だった。
「あの、リヴァイアサンというのは一体……」
だがその存在について検知を持っていない
知らなくても無理はない。これは時雨や真那がもともと防衛省の人間であるからして持ち合わせている知識だ。
「ノヴァだ」
「でもノヴァは神の遣いって……神ではないのですよね?」
「先ほども申しましたようにあくまでもアイドレーターの認識です。彼らの価値観と、我々のそれとは相違が無限に存在しますからね」
「俺たちが何度も遭遇してきたノヴァ。個体の能力が高い蜘蛛型のアラクネ。群れを成した集団行動に長ける狼のフェンリル。そして、」
「ノヴァは正確には三種確認されているの。私たちが戦ってきた二種以外に、もう一種。アイドレーターが神として崇めるリヴァイアサン。通常地上で遭遇することなんて想定されていなかったけど……」
「どうして?」
「どういう理屈なのかはわからないけど水中にしか生息していないからよ。それも塩分濃度の一定以上の海水だけ。淡水には生息していないの。だからこれまではリミテッド内部でリヴァイアサンに遭遇するというシチュエーション自体、危惧されてなかった」
真那の言うとおりだ。リヴァイアサンがイモーバブルゲートより内側に出現したという話は聞いたためしがない。そもそも、内部でノヴァが出現する事態がイレギュラーなのだが。
「この台場メガフロート含む沿岸部の東京湾も、十キロ圏外でイモーバブルゲートに囲われてるからな」
「でも今回の一件でその状況が変わった。……そういうことなの? ネイ」
「はい。あれをご覧になってください」
ネイが屋上から外を指さす。釣られるようにして地上を見下ろした。そこには幸正たちの誘導あってか、混乱の収束を始めている大勢の人々の姿がある。
制御機を噴出口にあふれ出した地下ダムの水数千万リットル。それらはすでにその殆どが東京湾に流れてしまったようだ。かなりの水ではあったが膨大な広さを誇る海だ。水位が上がったようには見えない。
一見、水害も大した影響を及ぼしていないように思われたが、
「そっちじゃありません。海を見てください」
台場メガフロート。東京湾の上に孤立する形で浮かんでいる島。そこにスファナルージュ第三統合学院がある。
それ故にこのキャンパスは海に囲まれていた。そして目の当たりにする。明らかなる変貌を。
隣でクレアが声にならない息を漏らす。それも当然の反応だろう。台場メガフロート周辺の海域すべて。その海が灰色に無機質な色に変質しているのだから。
「何、が……」
「大気中のナノマシン……それがさっきの爆流に呑まれて海水に流れたんだ」
無限に放出され続けるナノマシン。デルタサイトが破壊されたことによって、際限というものを失ったその意志を持たぬ寄生虫は。行き場を失い飽和状態になっていた。
それ故にあれほどまでのノヴァが出現をし続けていたのだ。だのに、それらのナノマシン含む大気中に散らばったナノマシンが一気に海中に流れ込んでしまった。
これが示唆することはいかなる事象か。考えるまでもない。
「海中に雪崩れこんだことで、ナノマシンは新たな変質を成します。それはあたかも、環境や状況に応じて水陸それぞれでの生存手段を獲得してきた生物のように。地上に蔓延る生命の種子たちが……海に還ったのです」
「聞くまでもないが端的に言ってくれ。どうなる?」
「時雨様の考えている通りです。種子は、あるべき場所に還った。すべての起源、自身の存在、その母なる大地へと。神の遣いは……神に自身を生贄として献上した」
「つまりフェンリルやアラクネがリヴァイアサンになるということ……だな」
冷や汗が止まらない。動悸が早鐘のように加速する。
海中に漂う銀色の粒子。それらは徐々に集まり形を成していく。元々のノヴァのサイズからは到底想定できないほどの巨大な姿に。
一般市民たちがその変質に気が付いていく。地上が再び喧騒と混乱に飲み込まれ始めた。恐怖、焦燥、悔恨。無数の負の感情が皆の恐怖心を駆り立てているのだ。
「皆、死んでしまう……」
「早く皆を誘導しないと」
「どこに逃げる気ですか? この台場メガフロートは海の上に浮かぶ要塞のようなもの。リヴァイアサンのテリトリーに囲われているのです。逃げ場所なんてありません。時雨様たちはもうすでに籠の中の鳥なのです。いえ……狼の檻の中に誤って投げ入れられた子豚のように」
狼よりシェパードのほうがいいですかねと言い付け加える。こんな時に冗談かよ。だなんて言っていられる余裕はない。
唯一の逃走経路たる台場につながる高架モノレールのブリッジを確認する。ノヴァの工作かあるいはアイドレーターの仕業か。ブリッジは跡形もなく破壊され海に沈んでいた。
「離脱もできないなんて……っ」
海の中に渦巻くナノマシン。それがなす形状はすでにキャンパスよりも巨大な幅に成り代わっている。
海中さらに未完成ゆえ、その形状はおぼろに霞む。それでもその巨体が持つ破壊的な個体値を時雨は肌でビンビンと感じ取っていた。この高台からでも全容を確認するのに苦労するほどの長い体躯。
これまで遭遇してきたいかなるノヴァも比較対象にすら値しない存在感。
「なんだよあれ……防衛省のデータで見たのより明らかにでかいぞ」
「
「それにしたってでかすぎる。他のノヴァが霞んで見えるぞ」
海の中で完全にその形を成した蛇のような金属体。
地上での幸正たちの統制ももはや意味をなさない。人間たちはその別次元の光景に冷静でいられるはずもなかったのだ。悲鳴ばかりが空間を支配する。
時雨はその重なった悲鳴すらどこか俯瞰的に耳にするばかりだ。視覚も聴覚も嗅覚も。五感すべて未だ感じえぬ第六感すら。目の前でゆっくりと頭をもたげていく怪物に一点集中している。
水面から飛び出していく直径数メートルもある図太いくび。次第に奇怪な突起物がいくつも並んだ頭部が水面から露出した。
「っ……ぁぅ」
その蠱惑的なまでに異形な怪物の姿に、クレアが臆したように真那の背中側に隠れる。
滝のように溢れ落ちる海水の合間からドス赤い妖光が二つばかりギラめく。
その光景はあまりにも凄絶なものだった。この世のものを見ているとは思えない別次元な光景。それを目の当たりにして地上の皆が言葉を失ったように立ちすくんでいる。悲鳴すら一つも上がらない。
そして怪物の全貌が明らかになる。屋上という高台にいてもなお聳え立つその体躯は見下ろす必要がなかった。
「……ああ、本格的に最悪だ」
太陽を覆い隠す巨大なアギト。すべての騒音が失われ世界が静寂に暗黒に呑みこまれる。
怪物リヴァイアサンは。否すべての生態ピラミッドの食物連鎖のその上に君臨せし神は。真っ赤で冷酷無情な双眸で時雨たちを捉える。
「さぁ……神の、顕現です」
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