第二十九話 マシュー、アルハラをする

其の一

「待てぇぇぇぇ!!そこの狼獣人ワーウルフぅぅぅぅ!!」




 州都繁華街の大通りに、マシューの雄叫びが轟く。平和を引き裂き突如として起こった白昼のひったくり事件。歩くにも一苦労な老婆の背後からいかにもの風体の狼獣人ワーウルフが強襲、彼女を突き飛ばした上で手荷物を奪い逃走したのだ。


 まだ日も落ちず人通りの多い街中での大胆な犯行、しかしそれが逆に犯人にとって有利に働いた。このような衆人環境で犯罪などあり得ない、そんな群集心理の裏を突いたのか、道行く者は皆呆気にとられこの事態に対応できずにいた。ただ一人、多くの修羅場をくぐり「馴れ」を持つ、たまたまそこに居合わせた見回りの州衛士、マシュー・ベルモンドを覗いては。


 こと表仕事においては不真面目な男ではあるが、流石に目の前で犯罪が行われたとなれば動かざるを得ない。何よりもあえて体の弱い年寄りを狙った卑劣な犯行だ、裏も表も無く許せるものではなかった。マシューは、久方ぶりに職務に燃えていた。


 しかしやる気だけで世の中どうにかなるものでもない。単純な身体能力という点では同年代の平均値を下回る男が、見た目通りの狼の瞬脚を持つ獣人に追いつこうなどとは土台無理な話であった。狼獣人ワーウルフの男は鞄を小脇にガッチリ抱えたまま、人込みをすり抜けるようにして逃走、追う州衛士との差はみるみるうちに開いていった。



 がしゃり



 狼獣人ワーウルフの男が大通りをほぼ抜けたあたりだろうか。人込みも減り更に逃げやすくなったその道の先に、重々しい音を立てて何者かが目の前に躍り出た。プレートメイル装備の騎士然とした男、その胸には旧ザカール王国の紋、近衛師団員であることは誰の目にも明白である。こんなところで近衛師団とはついてないことだ、と狼獣人ワーウルフの男は走りながら思った。だからと言って大人しくお縄についてやる殊勝な気になるはずもなく、犯人は他の群衆同様に脇を通り抜けようとさらに加速を始める。その足は文字通り野の狼の如し、常人では反応はおろか目で捉えることも出来まい。


 しかし、この近衛師団員は普通では無かった(まあ、国防のための訓練を積む騎士なのだから普通な筈も無いのだが)。一迅の風と化しすり抜けようとする狼獣人ワーウルフ、その顎に鞘に納めたままのブロードソードをアッパーカット気味に叩きつけたのだ。男の身体は宙に打ち上げられ、後生大事に抱えた盗品を手放し、そして道の真ん中にその身を叩きつけられた。白目を剥き、口角からは泡を吹く狼獣人ワーウルフ。最早逃げようとする意志どころか思考する意識すら飛んでいることだろう。


 老人を狙う卑劣な悪党を一刀のもとに臥した騎士。一瞬の事なれどそのおとぎ話のようなシュチュエーションは大いに人々の興味を惹き、黒山の人だかりができる。ようやく追いついたマシューがこの人込みを掻き分け、中に入る。そこで目にしたものは、先程まで追っていたひったくり犯が大の字に倒れる姿と、近衛師団員。その状況だけで凡そ何があったのか察したマシューは、自分の代わりに犯人を捕まえてくれたこの騎士に礼の言葉を述べた。


「いやぁ、どうもすみません。私の力が及ばないばかりにお手間を取らせて…って、あれ?」






「はいはい、書類もまとまりましたし、これでベルモンドさんのお手柄ということになりましたよっと。」


 気絶した狼獣人ワーウルフを拘束し、留置所に入れ、諸々の手続を提出したマシュー。これでこの事件は一件落着となったわけだが、書類を受け取る上司のベアの表情はすぐれなかった。


「あれ?どうしたんですか隊長。私が久々にお手柄を上げたんですから、もっと喜んでくれてもいいじゃないですか。」

「それが、ベルモンドさんお一人で成し遂げられたのでしたら、いくらでも賛辞を差し上げても構わなかったんですがね。」

「あー…やっぱり知ってましたか…」


 話好きの多い街である。先程の事件の顛末は既に州衛士の屯所にも伝わっていたようだ。しかし彼の本当の実力を知らないとはいえ、不出来な彼では独力で獣人を御せないだろうということはベアも承知している。つまるところこの不機嫌は、単純にマシューが自分一人の手柄にしようとしたことに起因するものでは無かったということだ。


「貴方が自分の力だけであんな獣人を捕まえられるわけがないとは思ってましたよ。ですがね、誰かの手を借りるにしても、よりによって近衛師団なんかに…」


 書類を所定の場所に仕舞うと、ベアは頭を抱え溜息をついた。先述したように、元貧乏貴族の自警団である州衛士と、元より騎士階級の人間を再編した軍隊である近衛師団では、その出自もありその間には微妙な溝が存在する。往時に比べればその軋轢もさほど深刻でないにしても、それでも一方的に手助けされたとなれば気分の良いことでも無いし、相手にいい口撃材料を与えてしまう。今後の展開を思うと、ベアも胃が痛くなることだろう。


 そして間を置かずして、さらに胃痛が激しくなるような報が、駆け込んで来た州衛士によってもたらされるのだった。


「す、すみません隊長!今、表に近衛師団の方が…」






「こ、これはこれは第一近衛師団のアルティス殿。今日はどのようなご用向きで?」


 賓客の応対に出たベアは精一杯の作り笑顔で鎧装束の若者に挨拶をした。野次馬のように様子を見に来た州衛士たちも緊張の色を隠せない。


 何せ相手はこのザカールの防衛機構で一番の精鋭部隊、第一近衛師団。しかもこのアルティスという男も名の知れた騎士だ。旧ザカール王国時代より仕えるヴェルンティス家の家系であり、二十とそこらの若年にも関わらずその腕前から将来を嘱望されている。そして、聞くとは無しに聞いた噂と照合するに、マシューに代わりひったくり犯を撃退したのは彼と見て間違いない。となれば、何をしにここに現れたのかを考えれば、ネガティブな発想が浮かぶもしょうがない事だ。


「先のひったくりの件でしたら、後日改めてお礼の挨拶に向かおうと思っていたところですが…」

「ああいや、そのことはどうでもいいんですよ。そんなことより…おーい。」


 腹を探るようなベアの問いを受け流し、アルティスは気さくに答える。そして背後に呼び掛けると、鎧装束に隠れた彼の背後から今にも泣き出しそうな少女が顔を出した。


「この子どうやら親御さんとはぐれてしまったみたいでしてね。探してあげて欲しいんですよ。」


 どんな嫌味や説教をしてくるのかと思えば、迷子を連れて来ただけであった。あまりにもあまりな顛末に、警戒していた州衛士たちは肩透かしを食らい膝を崩す。


「え?それだけですか?」

「ええ。なんなら私が探してあげても良かったんですが、なにぶん今から大事な会合がありまして。」


 よくよく考えれば彼が今プレートメイルを着こんでいるということは、この日はオフではないということだ。これから大切な会合があるというのも頷ける。しかしだ、それだけ急ぎというのならひったくり犯を捕らえるのはともかく、迷子の案内などをしている場合であろうか。当然の疑問が州衛士たちに湧き上がる。


「あの…それほどに急がれているのなら、迷子など相手にしている場合ではないのでは?」

「何を仰いますか!州の防衛を預かる者として、たとえ幼子でも困っている市民を見過ごすことなんてできません!」


 アルティスはその精悍な瞳を輝かせながら言い切った。そしてその言葉に何かしらかの含みも無いことは、嫌味の名人であるベアが一番理解していた。整った顔と体でこのような台詞を臆面も無く言ってのけるのだ、好青年が過ぎて返す言葉も無いとはこのことだ。


 しかし何か一つ言い返してやろうとやって来たベアからすれば、何も言い返せないというものまた癪な話。かといってつけ入る隙もない。進退窮まったベアは、今しがた遅れてこの場にやって来た出来損ないの部下にその矛先を向けるのだった。


「いや素晴らしい!その若さにしてその高潔な精神!まったく、齢も近いというのにまるで勤務態度のなっていない何処の誰かさんに爪の垢でも煎じて―――」


「アルティス兄さん!」

「おおマシュー。また会ったな。」


「…え?」


 行き場のない感情の捌け口にしようとした男の口から、意外過ぎる言葉が飛び出した。あまりの予想外に固まるベアをよそに、マシューは「兄さん」と仲睦まじげに話しかける。


「先程は本当にすみませんでした。私が至らないばかりにお手間かけさせてしまって。しかも手柄まで…」

「いや、あれは近衛師団としては越権行為だ。私の手柄にするのも逆に不味い。そもそも、お前があそこまで粘って追いかけたからこそ私も犯人に気が付いたんだ。そういう意味ではお前の手柄だと誇っていい。」


「あ、あの…すいませんベルモンドさん。『兄さん』とは一体どういうことで?」


 「兄」に褒められて柄にもなく照れるマシューの袖を軽く引っ張りながら、ベアは小声で尋ねた。先代のベルモンド家当主とは面識があるが、子は一人しか授かっていないと聞いている。ならば隠し子か何かか?それ以上に「兄」がエリート中のエリートである第一近衛師団とはどういうことか?今までいいようにマシューをいびっていた身としては気が気でなくなるのも仕方ない。


「ああ、別に実の兄ってわけじゃないですよ。うちの祖母がヴェルンティス家の血統で、所謂はとこ・・・同士って事です。」

「何で今まで黙ってたんですか!?そういうことはちゃんと言ってもらわないと!」

「いや、別にそんな遠戚の名前出してもしょうがないじゃないですか…」


「おいおいマシュー、つれないこと言ってくれるなよ。一番の学友に向かって。」

「いやそういう意味じゃないですよ兄さん!学生時代にお世話になったことは感謝してもしきれないぐらいですけど、それと今の仕事は…」


 アルティスはマシューを引き寄せ馴れ馴れしく肩を組む。マシューもまた困り顔ではあるが、さして嫌がっているという雰囲気でもない。むしろ付き合いの深さを感じさせる光景であった。


 そしてそれを目の当たりにしたベアは、楽し気な二人とは対照的に凍り付いている。生来の性分か立場上のさがかは知らぬが、上に弱く下に強い男である。そして今まで下だと思っていた男に、上とこれ程までの強いつながりがあったという事実に血の気の引く思いをしていることだろう。たとえその下の人間に意趣返しする気は無くとも、である。


「そうだマシュー、こうやって久々に、しかも二度も顔を合わせたのも何かの縁だ。今晩は共に飯でも食べようじゃないか。」

「え、でもうちも使用人が飯を作って待っているでしょうし…」

「なに、フィアナたちにはこっちから遣いをやって話はつけておくさ。では港の大橋に19時な。行きつけの美味い店に連れていってやるよ。」


 そう言い残すと、アルティスは迷子を預け早足で帰って行った。半ば一方的な言い分に飽きれながらも、マシューは憎からぬ「兄」を姿が見えなくなるまで見送った。そして振り返ると、石像のようにぴくりともしない上司に向かい、恐る恐る伺いを立てた。


「あの、そういうわけなんですが、今晩は残業無しで上がってもいいですかね…?」


 ベアは首を縦に振る以外の行動が出来なかった。






 午後19時過ぎ、約束の通りに港の大橋で待ち合わせをしたマシューは、アルティスに連れられとあるレストランへと入って行った。


「さあマシュー、遠慮なく食ってくれ。」

「で、ではお言葉に甘えて。」


 目の前のテーブルに広げられたのはステーキにローストビーフに串焼き。まさに肉尽くしであった。体が資本の騎士稼業にあってタンパク質は欠かせぬもの。この肉料理が自慢のレストランはそんな騎士たちの行きつけの店なのだ。尤も、値段の都合相応の地位の騎士、つまり第一近衛師団員ぐらいしか手の出せぬ店でもあるのだが。


 他方、万年貧乏州衛士マシューの場合、食卓に並ぶタンパク源といえば小魚、よくて鶏肉ぐらいなものである。久しく口にしていなかった獣肉に思わず感嘆の声を上げてしまう。


「くううっ!美味い!」

「相変わらず嬉しそうに食ってくれるな。こっちも奢り甲斐があるってもんだ。」

「思えばあの頃も奢られっぱなしでしたね。ホント兄さんには頭が上がりませんよ。」


 大ラグナント王国において国民は5歳から6年間の義務教育を受ける必要があるとは以前に書いた通りであるが、希望と家名と資金さえあればより高等な教育を受けられる私塾も存在している。旧王国時代より続く騎士の家系であるアルティスも当初はそちらに通っていたのだが、父親からの「守るべき民草の生活に触れておく」という意向で11歳・最後の一年を公立の学校で過ごした。そして当時10歳のはとこ・・・に偶々出会い、意気投合し兄弟同然の中となったのだった。事実上一年にも満たぬ付き合いであったが、その深さは今この場での再会の喜びようを見ればわかることだろう。


「しかし懐かしいな。あの頃は私もお前も活力に満ちていて…」

「ちょっと兄さん、私たちも老け込むにはまだ早いですって。」


 ははは、と和やかな笑い。話も飯も和気藹々と進んでいく。しかしこの一席も、始終このような良い雰囲気で終わらなかった。時が経つにつれて、マシューにとって居心地の悪い話へと進展していったのだ。




「我々近衛師団の出動が少ないのは平和の証。故に昨今蔓延する多少の気の緩みは必要悪としても、立場をかさにかけた所業が目立つのはいかんともしがたい。マシュー、お前はどうすればいいと思う?」

「いやぁ…自分は州衛士という立場上、あまり近衛師団の方針に口を出すのも…」

「組織の軋轢は気にせんでいい。忌憚のない意見を聞かせてくれ!」

「は、はぁ…」


 アルティスは常に誠心誠意を心掛ける男である。毎日のように州の平和、民の幸せ、騎士の品格などについての理想に思いを巡らせている。それは幼少の頃より変わらず、彼がマシューを気に入ったのも自分同様の熱き理想を胸に秘めていたからである。


 はて、あの不真面目を絵に描いたような男に理想とは、と思うかもしれない。しかし同時のマシューは10歳、丁度ワノクニの放浪者デスペラード・浪岡間衛門に剣技を学んでいた時期である。身に着けた技術は自信に繋がり、父の言いつけ通りその力をひけらかすことは無かったものの、いつかそれが役に立つ日が来ると信じながら明るき未来への理想に燃えていた年頃なのだ。それこそアルティスが同志と感じるほどに。


 然るに今はどうか。現実に打ちのめされ、いつかと夢見た力を振るう機会は尽きせぬ恨みを晴らす裏稼業の時のみ。今の自分は同志はおろか、悪党を殺す大悪党なのだ。本当ならかように可愛がってもらうには値せぬ身、そのことに気付いてしまうととたんに居心地が悪くなってしまった。


 だからと言って今の自分を打ち明けるほどお人好しでもない。何より目の前のアルティスの笑顔を曇らせたくは無かった。半ば騙していることは悪いとは思うが、彼が自分に向ける信用を自らの手で崩すのもまた心苦しい。この場は何とかつつがなくやり過ごそうと心に決めるマシューではあったが、精神的な圧迫は最早耐え難いところまで来ていた。


「あの、兄さん。お酒頼んでもいいですか?」

「…どうした、急に?いや、まあ、ダメとは言わんが。」


 土壇場のマシューが頼みにしたのは酒であった。嫌なことを忘れるにして最も手っ取り早い手段であることは疑いようが無いものである。思えば肉料理の並ぶこの場に葡萄酒のひとつも置いていないというのも不自然な話であった。マシューの要求にアルティスがやや困惑したような顔で応えると、程なくして給仕がボトルとグラスを持ってくる。来るや否やマシューはそれを蟒蛇うわばみのように飲み干すのだった。




「だァかァらァ~、兄さんも一杯やって下さいって言ってんじゃねェっすかァ~」

「おいおい大丈夫か?なんか古代レブノール訛り出てるけど…」

「らいじょうぶですって!そんなことより兄さんもさァ~」


 酒の力を借り後ろめたさを誤魔化すというマシューの目論見は、一応の成功を見た。しかしいかんせん効力があり過ぎたようだ。相応のプレッシャーをかき消すために要した相応のアルコールは、罪悪感はおろか理性まで吹き飛ばす。アルティスが困惑し心配するのも已む無しであった。


「何すかァ?かわいい弟分の勧める酒が飲めねェってんですかァ~?」

「い、いや、そういうわけではないが…って、うぷっ!!」


 言うが早いか、マシューはアルティスが言葉を紡ぐ前にその口に杯を押し込んだ。先程までの兄貴分への敬意はどこへやら、赤ら顔で悪戯を仕掛ける彼の姿を見れば、どれだけ酔っぱらっているかの想像もつくことだろう。


「どうれすか兄さ~ん、兄弟杯は~?」


 杯を離し、けたけたと笑いながらマシューは尋ねる。その一方で、アルティスからのリアクションは無かった。ただ項垂れたように下を向き、黙りこくっていた。


「…あれ?兄さ~ん?」


 先程まで調子に乗っていたマシューの声が急にか細くなった。酔いの中で僅かに残った理性が異常を察する。流石に怒らせてしまったか、しかし下を向いたままなので正面から表情を窺うことはできない。恐る恐る、席を立ち下からアルティスの顔を覗き込む。



 ―――そこには、およそ生気というものを感じ取れぬ真白な顔があった。



「うわああああああああああああああああ!!!?」


 マシューは慄き飛び退いた。表仕事でも裏仕事でも死体とは縁の近い生活を送っている男だ。そんな彼の経験から勘が、今のアルティスの顔からそれらと近いものを感じ取っていた。加えて口から垂れ流した真っ赤な葡萄酒が吐血のようにも見え猶更不吉さを煽る。完全にやばいやつだ、マシューは支払いも済ませぬまま店を飛び出し、一目散に医者を呼びに向かうのだった。






「いいですか?くれぐれも失礼のないようにお願いしますね。」

「いくら人間のできているヴェルンティス家の若様でも、流石に二度も無礼を働かれたら、ベルモンド家程度は簡単にとり潰されちゃうでしょうね~。」


「はい、以後気を付けます…」


 翌朝、ベルモンド邸玄関。マシューは険しい顔と物言いのメイドたちから菓子折りを押し付けられるように手渡された。今日は非番だというの朝も早くから何をしているのかと言えば、アルティスの見舞いへと向かうところである。あの晩死んだかのように意識を失っていたアルティスだったが、必死の形相のマシューに背を押された医者の懸命の救護が実を結んだのか、大事には至らなかった。それでも万全を期するために今日一日は入院し安静にするという。となれば事の原因であるマシューがするべきことは一つ、誠心誠意の謝罪のみであろう。


「まったく、大奥様の家系の方を殺しかけるなんてベルモンド家末代までの恥ですよ!」

「許してもらえるまで、うちの敷居は跨がせませんからそのおつもりで~。」


 モリサン姉妹の心からの声援を受け、マシューは西の大病院へと向かって行くのだった。






「申し訳ありませんでしたぁっ!!」


 アルティスの病室に入るや否や、マシューは床に膝を付けて座り頭をそこに擦り付けるかのような勢いで下げた。ワノクニの伝統的な最上級の謝罪のスタイル「ドゲザ」。師より聞き及んでいたものが自然と出てしまったのだが、その異様なまでに低頭な姿は意味を知らぬ者にすら反省の気持ちを感じさせるに十分なものであった。まあ、珍妙な祈祷にも見えなくも無いのだが。


「いやいやマシュー、頭を上げてくれ。別にそこまでするほどのことじゃないんだ。」

「いやしかし!それでは私の気が!」

「気に病むことは無い。ここだけの話だが、こうなるのももう何度目かなんだ。」


 アルティスの言葉に何か引っかかるものがあったのか、マシューは思わず頭を上げて彼を見やった。その表情には寂しげというか悲しげというか、言い知れぬ自嘲が含まれていた。



「実のところな、私は酒が飲めぬのだ。」



 その独白にマシューは驚いた。


 組織に属する大人ならば、大なり小なりの付き合いというものが存在する。そしてその付き合いが上下だろうが左右だろうが、たいていそこには「酒」というものが介在するのが常道だ。上から注がれた酒を飲み契りを結ぶ、同僚と酌み交わし結束を深める、そういった酒を介したコミュニケーションはよくあること。騎士階級という礼節と面子を重んじる組織ならば猶更だ。


 その中にあって酒が飲めぬというアルティスは、随分と異質なものに見えた。


「調子の悪いときは一口飲んだだけでこの有様だ。飲めるように訓練はしているのだが一向に成果は上がらん。」

「しかし、第一近衛師団という立場で酒が飲めないというのは…」

「まあそのへんはこれまで誤魔化し誤魔化しやってきたさ。お陰でまず出世は見込めんだろうがな。」


 アセトアルデヒド脱水酵素の先天的な欠陥などという概念は影も形も無い時代である。生来より酒が飲めぬ体質の人間がいるなど、そんな発想にもおよびつかない者しかおるまい。酒は飲めて当たり前、勧められた酒が飲めぬのは無礼の極み、そんな考えが支配的な世の中でアルティスの苦労は計り知れないだろう。訓練しても酒も飲めぬ自分が恥ずかしい、彼の表情から伺える自嘲の色は一層濃さを増す。


 その苦悩はマシューの目にも鮮明に映った。気の毒とは思うが、自分からは何もしてやれない歯がゆさをしきりに感じる。しかし他方で別の感情も湧き上がった。文武両道、品方向性、誠心誠意、人として男として騎士として完璧に過ぎるはとこ・・・の意外な弱点。およそ隙が無いと思われた男の意外な欠点は、笑い事ではないのだが、マシューの心に一つの安堵をもたらした。


 そして、そのような精神的な余裕が生まれたからこそ、彼を励ます言葉もようやく思い浮かぶというものだった。


「元気出してくださいよ兄さん。大体、出世ができないことを気にするようなタマじゃないでしょう貴方。」

「どういうことだ?」

「埃よりも地位よりも、まず第一に民草の平和。それが実現できるならそれ以外の何も構わない。アルティス・ヴェルンティスはそんな男だと、私は認識おりましたがね。」

「・・・ふっ、軽々しく言ってくれるなマシュー。」

「い、いや!そんなつもりじゃ…」

「しかし目が覚めた。確かにその通りだ。まさかお前から己の原点を教わることになるとはな。」


 ははは、とアルティスは笑った。先程までの自嘲では無く、心からの晴れやかな笑顔。整った彼の容貌にどちらの笑顔がさまになっているのかと言われれば、やはりこちらだろう。その様子に安堵したマシューもつられて笑い出す。窓から覗く光景には冬の気配、閑静な病室、そしてそこに響くは絆を紡いだ男たちの笑い声。そんな二人の友情を演出するかのような光景だ、何人もおいそれとこの部屋に踏み込むことはできないだろう。



「またお倒れになられたと聞いたのですが、大丈夫ですかアルティス様!」



 しかし程なくして、そんな空気を読むことなく闖入者が現れた。しかも若い娘である。彼女は未だ床に正座するマシューを蹴倒すかの如く駆け付け、ベッドの上のアルティスに詰め寄った。


「ああ、全然大丈夫だよ。それより、気がはやるのはわかるけど病院内は静かにね。それと足元にも注意して。」

「え?…って、ああ!!すみませんアルティス様が心配で前しか見えてなかったので…」

「いえ、お構いなく…」


 蹴とばされこそしなかったものの体勢を著しく崩したマシューは、自分に向かって平謝りを繰り返す少女をまじまじと眺めた。耳の長さから見て片親がエルフのハーフ種であろうか。加えてその容貌はかなり優れている。種族内で見ても特に美人と呼ばれるダークエルフと日々顔を合わせているマシューにすらそう思わせるのだから、上玉であることは疑いようが無い。


「こちらは私の古くからの学友マシュー・ベルモンドだ。今は州衛士をしている。」

「どうも初めまして、エルガン工房のミリアと申します。ああ、そんなアルティス様の大切なご友人に私ったらなんて無礼を…」

「いやホント気にしないでください。そういうのには慣れてますので。」


 自己嫌悪に頭を抱えるミリアをマシューはなだめる。家や職場での扱いに比べれば、偶然に蹴倒されることなど、悪意が無い分彼にとってはどうということはない。無駄な忍耐力をアピールする一方で、彼女の言った「エルガン工房」なる言葉に思いを巡らせた。


 エルガン工房は鎧装束専門の鍛冶屋としてここザカールで名を馳せている。そして、この平穏な時代に鎧を必要とするのはどのような連中かと言えば、アウトローな連中を除けば今ベッドの上にいる男の同職、つまりは近衛師団だ。こうやって見舞いに来たのもその縁からだろうが、にしてもあの心配のしようは職場の縁というには大げさすぎる。まあ、さすがのマシューも大体の察しはついていたのだが。



「―――で、この女性かたはというと、やはり兄さんの『コレ』ですか?」



 マシューは小指を立てて尋ねた。


「まあ、そういうことになる。」


 アルティスの顔は耳まで真っ赤であった。言葉は素っ気ないが肯定と見て間違いないだろう。


「まあ、そういうことだなんてつれない言い方。もっとはっきり仰ってくださっても罰は当たらないんじゃないですか?」

「ばっ、馬鹿者!人の見ている前でそのような恥ずかしいことが言えるか!しかもよりによって弟分の前でそんな軟派な…なあマシュー、お前からも何か言ってやれ!」

「アルティス様の弟というのなら、ゆくゆくは私にとっても義弟になるお方。ならば猶の事恥ずかしがることなんかないじゃないですか。ですよねベルモンド様?」


「…まあ、ソウデスネ。」


 マシューは死んだ魚の目のまま、棒読みで答えた。文武両道、品方向性、誠心誠意、それに加えて美人の彼女持ちとなれば、酒が飲めぬという欠点ひとつだけで親近感を感じるには足らない。出来過ぎなほどよく出来たはとこ・・・に、最早返す言葉も出ないマシューであった。

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