其の三
急患として担ぎ込まれたカムカは、両親のたっての希望により魔導治療を受けることになった。
ここ大ラグナント王国において魔法の使用は制限されているとは繰り返し説明した通りだが、その今の世でも息づくものの中で最も耳馴染みのある魔法といえば「回復魔法」であろう。魔物の攻勢により常に死と隣り合わせの輝世暦前で、多くの冒険者の命を救った神と精霊の御業。その奇跡の力は、ザカール州の先進医療技術を以ってしてもいまだに追いつけぬ領域であり、怪我や疾病に対する最後の手段でもある。
反面、国家の厳重な管理下にあるために、その治療を受けるためにかかる費用も相応なことは無視できぬ問題だ。それこそ、老舗小麦問屋のバフェーノ商会ぐらいの格でもなければおいそれと治療を受けられぬほどには。施術は夜通し続き、その甲斐もありカムカは一命を取り留めた。
しかし、肩から分断された右腕が癒着することは二度となかった。
そして、誰とも知らぬ通り魔によって「孫の顔を見せぬ事以外は孝行息子」をこのような目に遭わされた親の無念たるや推して知るべしだろう。州衛士の捜査を尻目に、教会の懺悔室に駆け込んだことを誰が責められようか。カムカの両親は、金150万ギャラッドと共に己の恨みをそこに置いていくのだった。
「さて、どうしたものでしょうかね…」
「仕事」の依頼を受けその日の夜のうちにWORKMANたちが召集されたが、だからと言って神父はこの「仕事」を受理したわけではない。未だに迷い、むしろ意見を仰ぐために彼らを呼んだという側面もあった。
WORKMANは何者かの尽きせぬ恨みが無くばその力を振るうことができない。それは、不俱戴天の仇である
それは、裏稼業同士の抗争というケース。
「いいじゃねえか。勿体無ェし貰えるもんは貰っちまえばよォ。」
金に汚いマシュー・ベルモンドは金銭欲からこう答えた。
「野郎共に裏稼業の抗争なんて恰好のつく死に様させるかよ。誰かの恨みを買った外道として葬るのが分相応だ。」
「………私も『仕事』ということにしてほしい。」
そしてリュキアもまた、この「仕事」を受けることに賛同した。女性の恨みというわけでもないのに積極的に「仕事」への意欲を見せる彼女の姿に、仲間たちも意外そうな顔をする。
そんなリュキアの心中にあったのは、カムカへの恩義。危ういところを、体を張って助けてもらった。しかしその結果彼は右腕を失った。これに対しリュキアは償う術を知らない。恋に報いる感情は持ちえぬ彼女だが、恩に報いる義侠心はある。せめて自分に出来ることはと言えば、同じく彼の傷を悲しむ者の想いを背負いてその恨みを晴らすことだけなのだ。
「三人が賛成ですか。ならば仮に私とカーヤさんが反対しても無駄のようですね。」
5人のうちの過半数が「仕事」を受けると公言したことで、神父もそれを受諾する。本音を言えば、マシューのせこさやギリィの個人的な復讐心を肯定したくは無かったのだが、リュキアの気概に免じあえて自分から反対を口にすることを止めた。
「そうか、受けるのか。なれば急がねばならんぞ。連中、その若旦那の命も狙っておるようじゃでのう。」
「仕事」と決まると、これまで特に意思を示さなかった(まあ、彼女の性格からすれば賛成だろうが)カーヤが口を挟んだ。「仕事」になるならないに関わらず仇敵が相手、連中の居場所や動向を探るべく彼女は先だってイエネズミたちに見張らせていた。その結果得た情報は、連中が証拠隠滅のためカムカも消さんと企てていること。薬を誤用した第三者のリュキアをも殺そうとしたのだ、なるほど半ば裏切った形の顧客ならなおさら始末の対象だ。
「そうですか。では今すぐにでも参りましょうか。」
「ああ。若旦那は国立病院に入院している。そこを張っておけば奴さんらも引っかかるだろうよ。」
急に決まった「仕事」は、これまた急な出発を要求した。それぞれの思いを胸に配分された金を掴み、霊安室を後にする。最後まで残った神父は燭台の火を吹き消し、「仕事」の完遂と仲間の無事を祈りながら扉に鍵をかけるのだった。
「まさか好いた女の盾になって右腕捥ぐとはねぇ!いやぁいい男だよまったく!さすがキャニさん、見る目があるよ!」
深夜の宿屋。他の宿泊客はもう寝入っているような時間に、けたたましい女の笑い声が響く。それはキャニを嗤うエレヌの声だった。見る目があるなどと褒めそやしているが無論、皮肉である。世界を混迷に導くことを目標とする
「ひ、一目見ただけでその人間の本質などわかるわけもないですぞ!そもそもお前ら薄汚い
「おっとそんな口を利いていいいのかい?アタイらは多分、この仕事が終わり次第アンタよりも上の立場になるだろうさ。未来の上役に逆らうのは得策じゃないよ?」
耐え兼ねたキャニが口を挟んだ。本質的には
にも関わらず、どういうわけかエレヌは自身の出世をちらつかせ牽制した。
「ど、どういうことですぞ…?」
「アタイらの標的であるあのリュキアって修道女、明らかに堅気じゃなかった。じゃあ今日び裏稼業であれだけの腕を持っているとなると、あれが噂のWORKMANってやつだね。」
「
実際に手合わせをしたエレヌの慧眼は、リュキアの正体を見抜いていた。世界に悪徳を撒き散らす「仕事」と、それによって泣かされた者の仇を討つ「仕事」。決して相容れることのないふたつの裏稼業はここザカールにて幾度となくぶつかり、
「お、お前たち!私を出し抜こうという気ですぞ!?」
「人聞き悪い言い方するねぇ。曇の存在に気付きそうな修道女と裏切ったクライアントの抹殺。アタイらはただ言われた始末をするのみさ。結果アンタより昇進しちゃうかもしれないってだけで、ね。」
エレヌはそう言い残すと、傍らでずっと黙して立っていたギャガーと共に姿を消した。窓も扉も開くことなく部屋から出るいかにもな裏稼業の技。おそらくそのままカムカの始末に向かったのだろう。部屋にはキャニひとり、またしても後進に追い抜かれるのかとの不安を抱き、歯噛みをしているだけであった。
「そう…この始末さえ成功させれば、安定した生活が手に入るんだよ。アンタ…」
ただ月明りだけが辺りを照らす、国立病院へと抜ける林道。その道中で、エレヌとギャガーは愛し合っていた。エレヌは愛の言葉と未来の希望を囁き、表情を表に出すことの無いギャガーも彼女の愛の言葉に耳を傾け抱きしめる。人を何人か始末する前だというのに随分と酔狂な事だ。しかしこの行為も彼女たちの余裕の表れであると同時に、この始末を終えた後に見えるであろう立身への期待を反芻するものであった。
先だって言った通り、彼女たちは輝世暦前の戦乱期を生きた冒険者だった。そして、魔物との闘いの日々という極限状況で、男女の間に情愛が生まれるのにもそうそう時間はかからなかった。やがて魔王バルザーグは勇者アランに討伐され、彼女たちも愛する者が明日死ぬかもしれぬ恐怖から解放、平和の中残りの時間を共に生きることとなる。
しかし、現実は甘くは無かった。後ろ盾のないかつての冒険者の行く末は三つ、武功を取り立ててもらい近衛師団に入るか、手に職を持ち市井に生きるか、裏稼業に身を落とすか、である。そしてコネも無く、また無口なギャガーに商売事などできるはずもなく、彼女たちの選択肢は最後の一つしかなかった。結局のところ輝世暦前と変わらぬ血生臭い日々。明日の食事も命も保証できぬ生活。加えて、魔物を打つべく鍛えた技を同族含む五民に向けるのも心苦しいものがあった。
しかし、それも今日までだ―――今はまだいいように使われる
情事を終え、エレヌたちは再び歩き出す。疲れは無い。あったところで容易い始末。むしろ気力は充満している。眼前に見える国立病院、その一室に控えている標的へと一歩一歩近づいていく。
瞬間、その足がはたと止まる。道脇の林からのそりと現れた人影ふたつ。月明りだけの暗がりにあっても、
「なんだい。メインディッシュのほうから先に出てきちまったかい。アタイとしちゃ楽な方から終わらせたかったんだけどねぇ。」
「………」
始末屋ディスポーザーとして口を封じるべき標的にして、
「おやおや、一人じゃ敵わないから今度は彼氏連れかい?」
「冗談はやめろ。勘弁してくれこんな辛気臭ェダークエルフなんざよォ。」
からかい気味に声をかけるエレヌに対し、無口なリュキアに代わってマシューが答えた。彼の羽織るマントの下には州衛士の革鎧。つまりは裏稼業の天敵たる公僕の証を着こんでいるわけだが、エレヌに動揺は無い。共に出てきた人物、今のこの状況、そして何より彼から発せられる殺気を見れば、この男が州衛士などではなく同類であることは容易に察知できたからだ。
「俺ァただこいつのリベンジに付き合ってやりに来ただけだ。それに、魔物に振るったっていうアンタらの技ってのにも興味があるしな。」
「アタイらのデーモンワルツが見たいってか?殺し屋の癖に変わってるねぇ。」
「よく言われるぜ。」
相手に必殺の技をいかに出させず、そしていかに自分が必殺の技を繰り出すか、これは勝負の鉄則である。こと殺し屋稼業においてその鉄則はもっとシビアであると、
阿呆か、自分の腕に自信があるか、さもなくば自殺志願者か。エレヌは気味悪さを覚えた。しかしこの男も同じくWORKMANならば始末すべき対象だ、ならばお望みどおりに必殺の技で葬ってやればよい、と気持ちを切り替える。傍らに立つギャガーも無表情なれど同じことを考えているのは長年の付き合いでわかる。エレヌは無言で槍を構える彼の背に隠れ、手鎖を振るった。デーモンワルツの構え。ひゅんひゅん、と鎖が空気を切る音が闇夜に響く。
この必殺の連携を目の前にマシューもサムライソードを抜いた。月明りを受けた白刃が煌めき、音も無く空を裂くかのような威容を湛えている。リュキアはいつの間にか道脇に掃けていた。この二対一の状況が、バトルジャンキーである彼のたっての頼みだったのだろう。
(成程、厄介なもんだ。打ち込めねェ…)
絶え間なく襲い来る槍先と鎖の礫を前に、マシューは反撃の糸口を掴めずにいた。そもそも槍とサムライソードではリーチにいかんともしがたい差がある。距離を保たれれば槍が一方的に有利だ。さりとて意を決し懐に飛び込めばチャンスはあるのだが、その間合いには手鎖が絶え間なく纏わりつき接近を拒む。さしものマシューでも攻めあぐね、確かに必殺のコンビネーションだと納得していた。
しかし、一方的に攻めるギャガーたちもまた、未だ一滴の血も流させていないという事実に歯噛みをしていた。志摩神刀流の独特の歩法、浮木の運び。そののらりくらりとした回避技術を前に、まるで木の枝から垂れた蜘蛛の糸を相手にしているかのような錯覚を覚える。互いに決定打の無いまま、月は徐々に傾いて行った。
(ならば…!!)
しゅっ
鋼の煌めきとともに、遂に鮮血が流れた。
出血したのはギャガーの右上腕。マシューのサムライソード横薙ぎがついに相手を捉えたのだ。「針の穴を通す」ならぬ、乱れ飛ぶ手鎖の間隙を正確に縫う一閃。ただならぬ技量の為せる技である。必殺の陣形、デーモンワルツに絶対の自信を持つ
しかしそれで与えた傷は刃先で軽く皮を裂いた程度の切傷。未だ踏み込むこともままならないのだ、ぎりぎりのリーチからようやく刃を届かせたにすぎない。デーモンワルツの攻略にはまだ程遠い、小さな小さな切傷でしかなかった。
「アンタ、気を持ち直して!こんなの悪あがきさ、こっちの有利は未だ変わらないよ!」
「………!!」
エレヌの激を受け、ギャガーの打突がさらに激しさを増す。彼らの武器はデーモンワルツだけではない。互いを想い、フォローし合う、その長年の信頼関係にこそ二人の強みがあったとも言えるだろう。
しかし、そんな絆を嘲笑うかのように、マシューの天性の剣閃が次々とギャガーの右腕に刻まれていった。無論、踏み込みは浅く表皮を撫でる程度の傷でしかないのだが、こうも鎖の結界を透過してこられれば、さしものエレヌにも気の迷いが生まれる。
(この男、実はもう見切っているのではないのか!?)
(それであえてこっちを嬲るつもりではないか!?)
手鎖の動きに動揺を見たギャガーが無言で発破をかけるが、その愛する者の右腕がいよいよ真っ赤に染まって来たとなってはエレヌも平静ではいられなかった。頭の中には嫌が応にも「死別」の二文字がちらつく。ついぞ先程までいよいよ見えた幸せな生活に思いを馳せていた矢先の絶望を前に、心の震えは止まらない。
すると、突然対手の足が止まった。後方に跳び間合いを空け、手にした剣を真っ向上段に構えたままに。あるいは素人目には隙だらけに見えるその姿からは、ぴりぴりとした剣気が漲る。今度は俺が必殺の技を見せる番だ、と言わんばかりに。そしてそれは、エレヌを委縮させるに十分なものであった。
そんな、愛する者の戦意がみるみる減退していくのを感じたギャガーの胸中に思い浮かんだのは、彼女だけでも生かして帰そうという想いであった。冴えを失った手鎖の結界から身を乗り出し、マシューへと突進する。俺はこのまま斬られるかもしれんが、その隙にお前は逃げろと言わんばかりの特攻。そのような破れかぶれの槍など、マシューには造作も無く躱せる。そして、無慈悲にもサムライソードを振り下ろした。
ざしゅっ
斬音、そして憤血。そのまま左肩から、エレヌの半身は分かたれた。
「!?」
「………!?」
そう、斬られたのはギャガーではなくエレヌであった。自らを犠牲にしても愛する者を生かして帰したいという気持ちは彼女もまた同様であった。ギャガーの特攻を目の前にした彼女は、その一心で身を奮い立たせ跳躍、剣と槍の間に割って入り自らを盾にしたのだ。
「アンタッ、今だよ!!アタイごとこの男を貫くんだ!!」
そしてエレヌは左半身を失いながら、右腕でマシューに纏わりついた。体力そのもので言えば並みより下のこの男に、瀕死とはいえ最期の馬鹿力で組みつくエルフを振りほどくことは難儀であった。あまりのショッキングな光景を目の当たりにし一瞬硬直していたギャガーだったが、彼女の言葉に我を取り戻し、反射的に槍を構える。
しかし、その槍が振り下ろされることは無かった。既に背後へと回っていたリュキアの黒糸が、彼の四肢と首にしっかり巻き付いていたのだ。同族とは思えぬ巨躯の男の自由を糸一本で奪う剛力は、彼女自身の力かはたまた黒糸に宿りし怨念か。一方のギャガーの心中は、目の前に愛する者の命を奪った者がいるにも関わらず、仇を討つどころか触れることすらままならない悔しさで満たされていた。潤む瞳、軋む奥歯、震える筋肉、糸を通じその心に触れたリュキアではあったが、それでも彼らがしたことを想えば容赦などは無い。冷徹なまでに、悔しいと思う心そのものを消すべく、糸を引き絞った。
やがてギャガーの息が止まった。黒糸を解くと、恨めしそうに右手を差し出したまま前のめりに倒れる。同時に、マシューに纏わりついていたエレヌもとうとう事切れた。ずるり、と血をなすりながら半身を大地に投げ出す。奇しくも、ふたつの遺骸から伸びた右手が重なった。まるであの夜でも一緒に居ようと言わんばかりに。
―――実際のところ、マシューにデーモンワルツを確実に破る術は無かった。あるいは彼の持つ秘剣を以てすれば、もろともに斬り伏せることはできたかもしれない。しかし、鎖と槍を断ちながら大男を斬ることはできても、その巨大な背中に隠れる女まで一緒に斬れる確率となれば、自身の見立てでも三割に満たないところだ。そしてその三割を引けねば反撃を受け相討ち。地獄の旅路と隣り合わせの彼とてまだ死ぬ気は無い。
故にマシューは挑発めいた小技に終始した。幸い鎖の間隙を通す技量はある。致命打を与えることを捨て、兎角手傷のみを負わせ不安を煽った。そしてその読みは当たり、今相手は地に臥し躯を晒している。
しかしここまで読みが当たったのも、全てはあの二人が愛し合い、互いを想っていたからこそだ。一方を盾にして自分だけ生き残ろうなどという心根だったのならこうも上手くはいかなかっただろう。エレヌとギャガー、ふたりの絆、それはかつて魔の存在との戦いではこの上ない力を発揮したのかもしれない。しかし自らが闇に堕ち魔の存在となった裏稼業においては、悲しいかなそれは枷にしかならなかったのだ。
「やっぱり、俺らみてェな外道が人様と同じように誰かを愛そうなんざ、烏滸がましいのかもしれねェな…」
「………」
エレヌとギャガーの皮肉としか思えぬ死に様は、同じ世界に生きるWORKMANたちに、少なからぬ影を落とすのだった。
その頃、キャニは色町に繰り出し酒をかっくらっていた。外で高い酒を飲むとなると理由は二つ、余程良いことがあったか余程悪いことがあったか、である。そしてこの男はどちらなのかと言うと、無論後者であった。
「くそうっ!どうつもこいつも見下しやがって!!」
同期に差を付けられ、後輩に追い抜かれるまではままあったことだが、遂にはギルドの暗部たる
足元をふらふらさせながら色町を闊歩する。肩を張り大股開き、酔っ払い特有の周囲の迷惑を気にしない歩き方。しかしそんな有様でありながらも、他の誰かとぶつかりそうになった時はしっかりと足並みを整えてそれを避けていた。強面のドワーフや体躯の大きな獣人はもとより、同族の遊女にすら気を遣う。何のことは無い、ぶつかって波風を起こすのが嫌なだけ。酔って気が大きくなった現状にあってもそう考えてしまうくらい、この男は小心者だったのだ。
「あ、キャニさんじゃないか。おーい。」
色町の喧騒の中、そんな彼を呼び止める声がした。はて誰であろうか、とキャニは頭をひねった。ここは北の故郷から遠く離れた南の地、知り合いなど居る筈も無い。だというのに自分を知ったかのようなこの声の男は一体何者なのだろうか。
「いやあ、奇遇だなあ。グランギスを出て随分経つけど、まさかこんな所で同郷の人間に会えるなんて。」
しかしあくまで馴れ馴れしく話しかけてくる男の声を聞いていくうちに、酒に中てられ思考が鈍化したままながらも、遠い記憶の内からその人物の事を思い出した。あれから何年か経ち容姿は随分変わってしまっているが、当時の面影は残っている。そしてキャニは、そんな偶然の出会いを心から喜んだ。
「おお…ああ、お懐かしゅう…」
「いやいや、そんなかしこまらなくていいから。ところでキャニさんはどうしてザカールに?」
「ああ、それはお仕事ででしてね…」
「まあ立ち話も何だし、向こうで話そうか。一人で晩酌するための酒を買って帰るついでだったんだ。折角だから二人で開けよう。」
酒で思考が鈍っているのか、キャニは特に警戒することも無く男の提案にほいほいとついてきた。色町を出て、行き付いた先は人気の無い河原。ここで酒を開け酌み交わしながら、これまでに起きた身の上話を話す。
「あれから大変でしたぞ。ガリエドやニーギスにも馬鹿にされ…いや確かに奴らに比べて私が鈍くさいことは認めますが、おべっかだけでのし上がったジャレッドにまでそう言われる筋合いはありませんぞ!」
「ははは…」
喋るのは主にキャニだけ。酒を片手に、話す内容もかつての失敗とそれを詰られた時のことばかり。思い出話でも何でもない、ただの酒の席の愚痴であった。こういう話は往々にして聞き手にとって面白いものではないのだが、男は特に不機嫌そうな様子を見せることなく相槌を打っている。いや、それどころかその愚痴を真剣に受け止めたのかキャニを励まし出した。
「言ってもアンタを虐めていたそいつら、凡そおっ死んじまったんだろ?世の中悪いことしてるような奴は早死にするようにできてるんだよ、案外。」
「そ、そういうものですかな…?」
「ガリアの神さんも言ってるだろ?『善行を積めばいつかは幸せになれる』ってさ。腐らないで頑張りなよ。」
「そう言ってもらえると、気持ちだけでも救われますぞ…」
キャニが男の激励に気を良くしていると、川のほうからひゅう、と風が吹いた。夏も終わった季節の夜風は、酔いを覚ますに十分な冷気を含む。それによって、酒に中てられていたキャニの頭が再び活性し、いい気分を吹き飛ばすほどの疑問を芽生えさせた。
―――そもそも、この男がこんなことを言うだろうか?
旧知の仲ではあるが、思い出してみればその関係は良好とは言い難いものだった。彼の父の許可があったとはいえ、自分たちは相当に酷い事を彼に押し付けて来た。そんな過去があったのなら、恨まれこそすれ優しい言葉をかけてくるなどということはまずあり得ない。だというのにこの不自然なまで愛想の良さは何なのだろうか。今一度彼の言葉を反芻すると、とんでもないことに気が付いた。
(ジャレッド、ガリエド、ニーギス…ザカール州へ向かった同僚がその地で帰らぬ人となったことを、何故知っているのですぞ!?)
慌てて彼のほうを振り向くと、男は月に照らされ輝く長針を手に、憎悪と歓喜が同居する顔を見せていた。
「―――まあ、あのクソ親父に付いていった地点で善行を積むなんて無理なんだけどな。」
そしてその男―ギリィ・ジョーは憎き父の組織した
帰り際にギリィは残った酒を彼の袂に添えた。安いとは言い切れぬそれなりの酒、的をおびき寄せるだけに買うにしては勿体無いくらいのものである。自身を貶め母を死に追いやった連中の一人ではあるが、愚鈍で間の悪い小心者だという人物像は良く知っている。今回の「仕事」の的に上がったことも、クライアントのミスから起きた騒動に巻き込まれた形だ。この酒は、そんなとことんツキが無いままあの世に旅立った男に対する、ギリィのわずかながらの同情心だったのかもしれない。
「聞きましたお姉様?バフェーノ商会の若旦那さん、今度結婚されるそうですよ。」
「ええ~、入院されていた看護婦さんを口説き落としたそうですわね~。」
それから一か月後のベルモンド家の食卓。いつものようにメイド姉妹が下世話な世間話に花を咲かせていた。そしてこちらもいつも通りに無視してパンを腹に詰め込むマシューだったが、どうにも無視できぬ名前が聞こえ、つい反応してしまう。
「えっ?バフェーノ商会の若旦那っつったら、あの、太っちょで口下手のあの…?」
「そんな言い方失礼ですよ~。長い入院生活で痩せられたようですし、退院されてから随分と饒舌になられたそうですよ~。」
「いや、私が聞きたいのはそこじゃなくて、あの人もたしか丘の上の狂気のシスターに熱を上げてる一人じゃなかったっけ?って事だよ。それが看護婦と結婚とはどういう風の吹き回しなんだ?って…」
メイドたちには言えない話だが、マシューは知っている。その若旦那が入院する羽目になった事件。その腕一本を引き換えにリュキアを護ったこと。自らの肉体を省みぬほどまでに熱く燃えていた恋を、こうも簡単に忘れられるだろうか。その疑問には、フィアラが答えた。
「何でも、入院中にシスター様が夢枕に現れて『私は誰かしらと結ばれることなどできない存在だから諦めて』と仰ったとかなんとか、らしいですよ。よくわかんないですけど。」
フィアラがどういう理屈だと頭を捻るのに対しマシューは、なるほど、と得心がいった。自分たちが斃したエルフの二人の最期は、裏稼業に生きる者にとって想い、想われることがいかな結果を導くかをまざまざと見せつけるものだった。その皮肉な結末はマシューに暗い影を落としたが、そういう感情とは無縁そうなリュキアもまた同様だったようだ。そして恐らくは、夢の中などではなく実際に病室に潜り込みそう言ったのだろう。彼をこれ以上巻き込まないように。それもカムカが諦めるに足るほどに真剣な態度で。情動に乏しいと思っていた仲間の意外な一面にマシューはほっこりしてしまう。
「で、主様はいつなされるんですか~?ご結婚~。」
そんな彼の耳に、聞きたくない言葉が無慈悲に投げかけられた。
「独身貴族の名をほしいままにしていたバフェーノの若旦那ですらできたというのに、うちの旦那様は未だ独身だなんてねぇ~。」
「いやフィアナ、そうは言ってもだな…」
「覚えてらっしゃいますよね~?30歳までにご結婚できない場合は、私かフィラちゃんのいずれかと所帯を持たなければならないってことは~」
そしてフィアナは、思い出したくもない言葉を平然と口にした。彼女に悪気は無い、悪いのは隠し事をしている自分自身。それだけにマシューの心の奥に、ずっしり重い者がのしかかって来た。
「まあフィラちゃんはそれはそれで望むところのようですけどね~。」
「ななななっ…何を言ってるんですかお姉様!?」
「まあ~赤くなっちゃって~。もしかして図星~?」
「そ、そんな訳無いでしょ!誰が好き好んでこんな甲斐性無しと!それこそ丘の上のシスターにでも熨斗付けて差し上げますってこんなの!」
そして始まる姉妹の口喧嘩。さりげにひどい扱われようではあるが、その喧騒はマシューの耳には届かなかった。30過ぎたらこの二人のいずれかと所帯を持つ、つまりはどちらか一人をあの裏稼業の因果に引き込んでしまうということ。今でさえ薄氷の上の平穏であるというのに、いずれは肉親同様に大切に思っている女性を更なる危機に晒すことになるということ。その齢まで生きられる保障はないが、来るべき決断の時を思うと食事の手も止まる。愉快な食卓とは裏腹に、胃が重くなるマシューであった。
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