其の二

「えっ!?リュキアさんがご病気!?」


 その日、手荷物を抱えた参拝客が驚きと落胆の混じった声で叫んだ。参拝客と言っても、その綺麗に女性好みの包装を施された手荷物を見れば、会いに来たのは神ではなくリュキアであることは明白だろう。そこにきてお目当ての女性が寝込んでいると知れば、こんな声も出すというものだ。


「ええ。お医者様が言うには正体不明の奇病だそうで。しばらくは絶対安静とのことです。」


 庭に箒をかけながら神父が応対する。いつもならこの時間の掃除はシスターに任せるところだというのに、教会の主である彼がわざわざ自分でやっているのだ。病気という彼の言も信憑性を帯びる。


「なら、お見舞いだけはさせていただけませんか?一目お会いしておかないと私も不安で不安で…」

「残念ですがそれもできません。二次感染の恐れもあるとお医者様は仰られていました。暫くは寝室を隔離しておりますので。」

「そ、そうですか…」


 親切心か助平心か、参拝客は見舞いを申し出るが、神父の返答は厳しかった。仕方なく手荷物だけ神父に手渡し一礼すると、彼女は長いスカートを翻しながら回れ右して丘を下って行くのだった。






「というわけで、現在までに来た参拝客は男性6人、女性14人という内訳になります。」

「………そういうこと言わなくていいから。」


 教会内、リュキアの寝室。ひとしきり人払いを終えた神父は笑顔で本日の参拝客の数をリュキアに伝えた。当の部屋の主はというと、ベッドの上で布団を被り不安げな表情を浮かべている。下手をすれば泣き出しそうなぐらいだ。


 普段、ことさら「仕事」においては冷徹にして死すら恐れぬ娘がこのような姿を晒しているのだ。神父が悪戯心で煽る気持ちもわかるというものだろう。そしてそれは、他の「仕事」仲間も同様であった。


「美人シスター様もとうとう年貢の納め時か?まあ仲間のよしみで婚約指輪くらいはタダで作ってやるよ。」


 勝手知ったるなんとやらな様子で椅子に腰かけたギリィがけたけたと笑う。さすがに気に障ったリュキアが睨みつけるが、今の精神状態では何時もの刺すような殺視線にはならない。むしろいっそうからかう甲斐もあるというものだ。


「ケッ。普段から男の純情弄んでっからこういう目に遭うんだよ。天罰だ天罰。」


 一方、同じく部屋に入り込み椅子に座るマシューは、不機嫌そうに干した小魚を噛みながら苛立ち交じりに言い放った。こういう時真っ先に人を小馬鹿にしそうな男がどうしたことかと、神父も不思議に思う。


「おや?ベルモンドさんどうかなされましたか?虫の居所が悪いようですが。」

「………こいつの家の使用人二人が私に惚れたから機嫌が悪いのかと。」

「五月蠅ェそんなんじゃねェよこの自意識過剰が。」


 図星であった。確かに姉や妹に等しい女性が同性に黄色い声を上げる姿は見るに忍びないものだ。




 とはいえ、かような与太話で済ますには奇妙に過ぎる現象であることは明白である。いくら以前より男にモテているからといって、ある日突然女性にもモテだすなどという事象は、神父やリュキアの長い人生においても類を見ないだろう。そしてこういう奇怪な事件にはえてして裏に何者かの陰謀があり、最悪「仕事」に関わる事態もあり得る。


「とは言ってみたものの、実際何がどうなってこうなったのやら…?」

「おいおい神父様。誰が何やってこうなったかは確かにわかんねえけどよ、こういうことをしでかす連中にゃ俺達にも心当たりがあるじゃねえか。」

「ギリィさん?」

曇一家クラウドファミリーの連中だよ。」


 曇一家クラウドファミリー。当世ではご禁制の錬金術を扱う裏ギルド。失われし技巧によって作られた道具や秘薬を売り、人には言えぬ欲求を持つ者を満足させるのがその活動である。しかして実態は、顧客の欲求を肥大化させ惨禍を起こし、ひいては国家騒乱を狙うという反社会団体。そしてその野望の過程で幾人もの不幸と怨恨を生むため、WORKMANとは幾度となく対決するに至っている。成程ギリィがまたその手合いではないかと推論付けるのも当然の話だ。そしてそれは当たっていた。



「しかしよォギリィ、コイツを女にモテさせることがどうお国の一大事に繋がるんだよ?そもそも女を女にモテさせてどうしようってんだって話だ。」



 しかしそこに待ったをかけたのはマシューであった。確かに連中のクライアントはこちらの想像を超えた下衆揃いであり、そこから起きた、あるいは起こったであろう惨禍も相応のものだった。翻って今回の件はといえば、よくてリュキア個人に対する嫌がらせが関の山である。そのような小さな悪戯程度に奴らが動くかと言えば確かに疑問符がつくところだ。


 尤も、よもやクライアントが薬の用法を間違えた、などという真実に辿り着けというほうが無理な話ではあるのだが。常人では嗅ぎ取れぬであろう僅かな獣臭を鼻腔に感じながら、神父は頭を抱えるのだった。






 そして、クライアントの大ポカによって泡を食ったのは何もWORKMANだけではない。曇一家クラウドファミリーのメンバー、キャニもまた予想外のアクシデントに頭を抱えていた。


 人の話も聞かず大ポカをこいたカムカからは、もう一度惚れ薬を用意するように頼まれた。一両日中にグランギス州の本部から届くことだろう。無論、代金もその分上乗せして支払ってもらっている。損益で言えばむしろプラス、だというのにキャニの表情はすぐれなかった。


(くそっ!なんであそこまで言われなきゃならんのですぞ…!)


 夜の宿にて、キャニは悔しさを噛み締めていた。このキャニというハーフリング、首領マスターのジューロと同郷出身の古参幹部だとは言ったが、実際のところはそれだけの男である。錬金術の技法に長けるわけでもなく、かといって出来上がったアイテムを売りつける商才があるでもない。開発としても営業としても、ギルドに貢献できているとはお世辞にも言い難い。


 そしてそのような男は古参であっても、いや古参だからこそ組織内でどういう扱いを受けることになるかと言えば、凡そ我々の知る社会と変わりがないものだった。ギルド謹製の魔力を伴なわない通信機にて本部と繋ぎをとった時、必要以上の罵倒と嘲笑を受ければこうも荒れるというものだ。


(大体今回のミスは私のせいではありませんぞ!クライアントがヘマしただけですぞ!)


「くそっ!」


 苛立ちの末に、キャニはテーブルに置いてあった陶製のカップを投げつけた。それは、壁に当たりがしゃんと音を立てながら粉々に砕ける、筈であった。


「おやおや、荒れてるねえキャニさん。でも宿の備品を壊すのはいただけないね。」


 カップの砕ける音の代わりに聞こえたのは女の声。しかしこの部屋には自分一人しかいない筈だ。何事かと思い、キャニは慌てて燭台に火をつける。おぼろげな光の中姿を現したのはエルフの男女。カップを受け止めたのは小柄な女、その傍らには美形が主なエルフ種にあるまじき形相と肉体の大男が立っていた。それぞれの袖口には歯車の紋のワッペン。降って湧いたような闖入者だが、キャニは彼らに覚えがあったのか、聞き慣れぬ言葉を口にした。


「でぃ…始末屋ディスポーザー!?」



―――始末屋ディスポーザー。それは彼らのギルド内に近年作られた新しい部署。そして、社会の裏で暗躍する曇一家クラウドファミリーにとって必要不可欠な存在である。「始末」の名が示す通り、その主だった役目は証拠の隠滅にある。非合法の錬金術を悪用しているのだ、何らかの間違いでそれが明るみに出そうなときにあらゆる手段を以って消去する存在がいかに重要かは言うまでも無いだろう。


 そして、それに携わる者がどういった技巧の持ち主であるかは、この部屋に音も無く闖入したこのエルフ二人を見ればわかることだろう。


「エレヌとギャガー…何故お前たちがここにいるんですぞ!?」

「やだねえ、そんなに警戒しないでおくんなよ。別にアンタを消しに来たわけじゃないんだから。年季だけは一丁前のアンタをさ。」


 女エルフのエレヌは嫌味に笑いながら言う。見た目からして輝世暦前の冒険者崩れ、それが食うに困って最近この裏のギルドに流れ着いた、といった雰囲気である。そんな新参者からもこの扱いなのだから、キャニの立場は推して知るべしか。いかつい男エルフのギャガーが黙する中、エレヌは話を続けた。


「今回消すのはその惚れ薬を誤飲しちまったっていう娘さ。そいつがどこまで把握しているかは知らないけど、アタイら曇一家クラウドファミリーの存在を感付かれる可能性だって0じゃあないわけだしね。」

「なっ!?それは困りますぞ!!」


 エレヌの言う今回の標的を聞き、キャニが慌て出した。


「どうしたんだいキャニさんよ。別に今回はアンタの過失でもあるまいに。クライアントのミスなんだろ?評価に響きゃしないよ。」

「そうではありませんぞ!その娘はクライアントの想い人!それを殺しては本末転倒ですぞ!」


 確かにキャニの言い分は尤もである。普通に考えれば、意中の人を落とすために惚れ薬を買ったというのに、証拠を消すためにその女性を手にかけるとなれば無駄金もいいところだ。しかし、曇一家クラウドファミリーは普通のギルドではない。


「おいおい、想い人がひとり死ぬくらいで意気消沈しちまうようなクライアントなのかい?」

「私の見た限りでは、そうなるようにしか…」

「前言撤回。だとしたらやっぱり、アンタの過失だわ。」


 瞬間、エレヌの視線が鋭いものへと変わる。裏事師ならではの殺気。それはそういった感覚に疎い素人のキャニすらも震え上がらせた。


「ど、どういうことですぞ…?」

「女一人に熱を上げる純愛野郎はおよびじゃないって事さ。いいかい?曇一家クラウドファミリーは慈善事業じゃないんだ。この世界に再び騒乱を巻き起こすのが最大の目的なんだ。だとすりゃあ、一途な恋に生きる男よりも、この世の全ての女をモノにしたいって欲深い男のほうがお客に相応しい、何かやらかしてくれる期待も出来ようよ。だってのに、キャニさんアンタねえ…」


 人選が悪かった言わんばかりに、エレヌはため息をつき呆れ返る。一方、キャニは震えていた。単純に目の前の始末屋ディスポーザーの存在が恐いというのもあるが、それ以上に改めて思い知らされたギルドの闇に恐怖していた。今更ながらに、ジューロに付いて来たことを後悔するほどに。


「まあいいさ。こっちはこっちで言われた仕事だけやってとっとと帰るから。アンタはその純愛野郎を口八丁で手懐けてウチの顧客に相応しい人間にするんだよ?」


 そう言い残すと、エレヌとここまで一言も喋らなかったギャガーは忽然と夜の闇に消えていった。キャニは見送ることも出来ぬまま、頭を垂らし未だ恐怖に震えている。



 そして、恐怖に戦慄く者はもう一人いた。



(何の話なんだ…?りゅ…リュキアさんを殺しに来た…?)


 今回の件でどうしてももう一言詫びを入れようとしていたカムカは、迷惑と知りつつもこの夜更けにキャニの駐留する宿を訪れていた。そして戸をノックしようとした瞬間、中から聞こえて来た会話に耳を傾けた。聞き慣れぬ女の声が語るは空恐ろしい陰謀と殺害計画。カムカは、中を訪れることなく踵を返し脱兎の如く逃げ帰って行くのだった。






 それから二日後、リュキアは久々に外に買い物に出ていた。


「あの奇妙な獣臭もだいぶ消えたようですし、恐らくはもう大丈夫だと思いますよ、リュキア。それにそろそろ貴女にも働いてもらわないと、私も疲れがたまってしょうがないですし。」


 この獣臭というのが後の世で言うフェロモンだというのはさておき、この臭いと先日の異常事態との因果関係を推察した神父は、彼女の謹慎を解いたのだ。社交的ではないが家よりも外の方が好きなリュキアのこと、普段通りの硬い表情の中にも久々の外出への喜びの色が見える。


「あっ、リュキアさん!ご病気のほうはもう大丈夫なんですか?」

「………うん、お陰様で。」


 そして、実際神父の判断はどうだったのかと言えば、凡そにおいて間違っていなかった。こうして街中を歩いていても、声をかけてくるのはほとんどが男性。女性も挨拶はしてきたものの、あの時のように本能に駆られたかのように寄って来る者は流石に存在しなかった。


「ど、どうも~シスターさま~、今日もいいお天気で~、あの~…」

「お、お姉様…もっとシャンとなさらないと妙に思われますよ!」


 それどころか、先日体を求めてきたような連中はその記憶がばっちり残っているのか、リュキアの顔を見るなりばつが悪そうに逃げていく有様だ。自分が悪いわけでは無いとはいえそこには多少の申し訳なさも感じるところだが、ともかくリュキアは久々の外出を満喫していた。



―――無論、裏稼業に携わる者として、自分の後を付け回すふたつの気配を警戒しながらではあるが。






 時は夕刻を回った。この時間まで方々に買い物に回り、リュキアの両の手は荷物でいっぱいである。しかしそれでも尚その足が向かうのは街外れの教会ではない。むしろ街の奥の奥、人の入り込まぬ裏路地に進む。そして本通りの喧騒もまるで聞こえなくなった辺りで足を止め、荷を地面に置いた。


「いやはや、まさか始末する対象がこんな奴だったとはねぇ。」


 リュキアの背後から夕陽と、そしてそこから伸びる人影が差す。口調こそ軽いがそこからは言い知れぬ殺意が感じられる声。曇一家クラウドファミリーの始末屋ディスポーザー、エレヌが遂にその姿を現したのだ。


「ダークエルフの修道女ひとり消すなんて楽な仕事と思ってたら、まさか街中で打ち込む隙も無いんだもの。まさかご同業じゃあないよね?」


 リュキアも振り返り対峙する。そこにいたのは自分よりも百数十歳は上と思しきエルフ。まだ衣替えの時期ではないにも関わらずその袖は長く、そこには何度か目にした歯車の紋。同僚ギリィの見立ては正しかったことを思い知り、いっそう警戒を強める。相手の質問にも答えず、ただ強く睨み返した。


「返事は無し、と。まあいいさ。どうせアタイらの敵じゃないんだから――――さっ!!」


 言うが早いか、エレヌの右腕が上がった。そしてその長い袖から飛び出す紐状の何か。ギャリギャリという金属音から察せられるは細目の手鎖。瞬時に相手の得物を読み取ったリュキアは、同じく得物を出し対抗する。


 そして、黒糸と手鎖が絡み合ったまま宙空で張り合った。


(………)

(こいつっ…思った以上に…!)


 リュキアの表情は例によって変わらぬが、エレヌの顔には僅かに焦りが見えだす。必殺の間合いで繰り出した手鎖が止められた。さらに材質がわからぬとはいえ髪の毛ほどの細さの糸で、金属製の鎖に拮抗されたというのは驚愕に値する。加えて単純な腕力なら向こうが上。この引っ張り合いに負け、体勢を崩されたり相手の袂まで引き寄せられたりすれば、躊躇なくがら空きの首にその糸を巻き付け絞め殺しに来ることだろう。


 実際リュキアもそれを狙っていた。地獄の入口に手招きするが如く、いっそう引く手に力を籠める。ずりずりと相手の靴底が擦れる音。今、とばかりに乾坤一擲の力で黒糸を絞った。



 がきぃん



 瞬間、乱入者。手にした槍の石突部分が、黒糸と手鎖の絡まり合う接点を正確に打ち据えた。互いの長得物は衝撃で解け、引く力のままそれぞれの持ち主の手に帰る。


「嫌だねえギャガー。助けに入るならもっと早くにしておくれよ。さしものアタイもさっきはちょっとヤバかったよ。」

「………」


 二者に割って入ったのは、同族とは思えぬほどのいかつい表情と肉体を湛えた槍使いの男。相手の女が気安く話しかけていることを見るに仲間なのだろう。だとすれば随分不味いことになった、と今度はリュキアに焦りが見える。


 何しろこれだけの大男であるにも関わらず、リュキアはその存在を察知できていなかったのだ。気配を消す技量は相当のもの。加えて宙から飛び降りながら石突で細い鎖の中央を打ち据える槍術。そしてそれほどの男が、先程までの相手と組むという2対1の状況。ごくりと唾を飲んで覚悟を決める。


「わかってるよ。相手の技量を読み違えたアタイが悪いってことはさ。だからもうお遊びは抜き。本気の本気で行く。アンタもやってくれるよね。」


 リュキア以上に無口なのか、ギャガーという大男はただ黙って頷いた。そしてそのまま対面の標的に向けて槍を構える。同時にエレヌは背後へと移動、ギャガーの巨体に隠れまるでその姿が見えなくなった。得体の知れぬフォーメーション。しかし状況を打開するには攻めるしかない。リュキアは様子見程度に大男の首目掛け黒糸を飛ばす。


 案の定、糸は届かなかった。しかしギャガーは構えのままぴくりとも動いていない。黒糸を打ち払ったのは、背後から飛び出たエレヌの手鎖。そしてそのまま円を描くように、ギャガーの周囲を回り始めた。


 お返しとばかりにギャガーが一足飛びに間合いを詰める。リュキアは再び黒糸を放ち迎撃せんとするが、これもまた不規則に舞うエレヌの手鎖に阻まれた。そして、鎖の奔流の間から槍が光る。ざくっ、と布を裂く音。リュキアは確殺のタイミングで放たれた一撃に対し、忍者の空蝉めいて修道服を囮にすることでなんとか躱すことができた。



「これがアタイらの必勝の陣形、デーモンワルツ。かつて魔王の手勢を幾人も葬ったこの技、アンタに破れるかい?」



 無口な男の背後から勝ち誇った女の声がする。しかしエレヌが得意になるのも当然の技だ。ギャガーを狙う攻撃は全て鎖で弾かれ、本人は一切の防御を気にすることなくその槍の冴えで相手を攻めることができる。なれば後ろで鎖を操るエレヌを先に討とうにも、巨躯を誇る槍の達人の影に隠れていては狙い撃つことも叶わぬだろう。


 同時に、一朝一夕で出来るようなコンビネーションでないのも明白だった。ギャガーがいかに激しく動こうともついていきその周囲を護る手鎖。目の前を目まぐるしく回るエレヌの手鎖の間隙を縫い放たれる槍。一歩間違えば自爆しかねないこの連携を完成させるのに、一体どれだけの時間を費やし、いかに息の合った相棒となったのか。その苦労を思わず偲んでしまうほどに、ふたりのエルフによるデーモンワルツは見事であった。




 などと不要なことを考えているうちに、リュキアは袋小路へと追い詰められていた。背後は壁、槍の間合い、そして手鎖の結界を打破する手段未だ無し。ここまではなんとか紙一重で躱してきたが、その度に負った僅かな裂傷は確実に彼女の体力を削っている。WORKMANリュキアも最早年貢の納め時、と言っても過言ではない状況。そしてその止めとなる槍の一閃が走る。



ぐさり



 ギャガーの手に肉を突いた感触が走る。しかしそれは女の柔肌を突いたそれではなかった。ごりごりとした硬い骨の感触、ぶよぶよとした脂肪の感触。あり得ぬ事態にさしもの鉄面皮ギャガーの首筋に冷や汗が流れた。驚いたのは彼だけではない。ギャガーの槍に絶対の信頼を置くエレヌ、そして死を覚悟したリュキアもどうしたことかと目を丸くし、その原因を見据えた。


―――三人の目の前には、リュキアの盾となり槍をその右肩口に受けたカムカの姿。



「よ…よかった…リュキアさんが…無事で…」


 本来なら失神してしまいそうな痛みの中、カムカはリュキアの無事を知り喜びを見せた。思えばリュキアの跡をつけていた気配はふたつ。ひとつは対手のエレヌとして、もうひとりの対手であるギャガーの気配は察せていなかった。ならばそのもうひとつとは何だったのかと言えば、それがこのカムカだったのだ。昨晩リュキアが暗殺の標的にされていると知った彼は、彼女を護らんとその行動を追い、そして今に至る。とはいえ、本来ならば割って入ることままならぬ達人の間合いに割り込めたことは、まさに恋心から来る火事場のクソ力といったところだろうか。


 そして、その必殺の間合いをズブの素人に阻まれたことは、ギャガーのプライドをいたく傷付けたようだ。鉄面皮を歪め、ザカールに来て初めて口を開き、叫び声と共に槍を引き上げる。


「があああああああああああっ!!」


「いぎゃあああああああああっ!!」


 槍の穂先が天上に向くと同時に、カムカの右腕が肩から千切られ、鮮血を撒きながら宙に舞う。その痛みは流石に常人に耐えられるものでは無い。怒号と悲鳴、二つの叫びが夕焼け空に鳴り響く。そしてそれは、遠く離れた繁華街まで異常を伝えるに十分であった。



「州衛士だ!お前らそこで何をやっている!?」



「不味いっ!アンタ、早くここからずらかるよ!!」


 その叫びを耳にしたのか、すぐさま州衛士が駆け寄る声が聞こえた。始末屋ディスポーザーは裏稼業のそのまた暗部の存在、公僕相手には存在を知られるどころか一目見られることすらも危険だ。いきり立つギャガーをなだめ、エレヌは姿を隠そうと提案する。そして程なくして、州衛士が駆けつけるよりも前に塀を飛び越え夕闇へと消えていった。


 一方その場に残されたリュキアは、肩から先を失い呻くカムカの頭を膝に抱えたまま迷っていた。己の裏稼業を考えれば始末屋ディスポーザーたちと同様に逃げるのが得策なのは火を見るよりも明らか。頭ではそうわかっている。しかし命の恩人をこのまま放って行くこともできない。ズブの素人どころか鈍重そうな肥満体だてらに、自らの腕を犠牲に自分を庇ってくれたこの男の置いて逃げるのは義にもとる。だがこの状況を誤魔化しきれる自信も無い。そうこうしているうちに州衛士の足音はどんどんと近づいてきた。




「やっと見つけたぜリュキア。まったく何やってんだお前ェはよ。」

「………あんた。」


 しかし、リュキアの心配は杞憂であった。この場に駆け付けた州衛士は州衛士でも、裏の顔を持つ州衛士、WORKMANの仲間マシュー・ベルモンドだったのだ。


「まったくよォ、神父様がお前ェの帰りが遅いのを心配してたってんで、外回りついでに探してたら何だよコレ…ってうおっ!?バフェーノさんとこの若旦那じゃねえか!?」


 愚痴めいて事の起こりを話すマシューの鼻腔を、嗅ぎ慣れた血の臭いがかすめる。怪我人か死体か、何かと思い目を移すと右腕を失ったばかりといったていの肥満体の男。彼の事は良く知っている。小麦問屋バフェーノ商会の若旦那カムカ、そしてついぞ先日リュキアにアップルパイをプレゼントした男だ。凡そ争い事とは無縁そうな男がどうしてこんなことになっているのか、マシューは頭を悩ませる。


「………この人に助けられた。早く病院に運んで。お願い、死なせないで。」

「い、いや、お前ェが口下手なのは知ってるけどよ、もう少し噛み砕いて説明してくんねェかな…」


 リュキアの口調に珍しく焦りが見える。裏稼業で鍛えたこの女が「助けられた」とはまた穏やかでない話だ。しかし言葉足らずがいつも通りではわかるものもわからない。マシューがよりいっそう頭を抱える中、今にも消えてしまいそうな絶え絶えの声が聞こえた。


「いや…いいんですよ僕の事なんて…リュキアさんが…無事なら…」


 声の主はカムカであった。出血は止まったとはいえ油断ならぬ状況、喋る力すら惜しい筈だ。だがしかし、思うことがあるのか、あるいは自分はもう永くないと悟ったのか、まるで最後の力を振り絞るかのようにカムカは言葉を紡ぐ。


「た…助けたなんて…そんなカッコいいことじゃないですよ…これはただの…自分のしたことの尻拭い……」

「………どういう事?」

「あなたが…女の人に言い寄られたのも…ここで襲われたのも…全部僕のせいなんです…僕が、惚れ薬を間違って飲ませたから…いや…曇一家クラウドファミリーなんて怪しい連中に頼ったから…」


 曇一家クラウドファミリー。たまさか上がった不俱戴天の敵の名に、マシューの表情が強張る。よもや自分があり得ぬと否定したギリィの予想が正しかったとは。そして表仕事ではめったに使わない頭脳が回転し、おぼろげながら事件の全容を導き出した。



―――他の若い男同様にリュキアに惚れていたカムカは、彼女を自分のものにするべく曇一家クラウドファミリーに惚れ薬を注文した。それは本来自分で飲みあらゆる女性を魅了する芳香を発するものだったのだが、その名前からくるイメージのあやか、惚れさせたい女性に飲ませるものと勘違いしてしまう。そしておそらく先日のアップルパイに混ぜたのだろう。効果は上々、リュキアは街中の女に追い回される羽目となった。


しかし曇一家クラウドファミリーも非道の裏組織、そのような笑い話で済ませる訳も無い。そういう連中ならば、自分たちギルドの存在が明るみに出そうな手掛かりは消すのが常道。惚れ薬の存在をたまさかに知ってしまった恐れのある者を闇に葬るべく、刺客を差し伸べたのだろう。しかもあのリュキアを追い詰めるのだから余程の手練れ、かなり危ういところだった。しかし苔の一念何とやら、責任を感じたカムカが命を張って彼女を助け、今に至ると言ったところか。



 マシューが冷静に状況を整理する中、本来冷徹であるはずのリュキアの心は乱れていた。不当に騒動に巻き込まれたこと、素人に命を救われたこと、そしてその素人の命が今にもこの手から零れ落ちそうなこと、あらゆる状況とそれに付随する感情がないまぜになり、どうしていいのかわからないでいる。彼女の百数年の人生の中でも体験したことの無い感情。その噛み砕けぬ思いが心に溜まり、ついには口に出る。


「………どうして、そんなことをしたの?」


 何故惚れ薬などというものを買ったのか、何故体を張ってまで自分を庇ったのか、言葉足らず故どうとでもとれる質問。しかし、その意味が何れとて、カムカの答えは同じだった。



「あなたが…好きだから……」



「こんな見た目の僕にも…他の女の人が敬遠する容姿の僕にも……他の男たちと変わらず接してくれた…それだけで…僕は……」


 リュキアの男に対する態度が変わらぬのは、等しく興味が無いだけの事である。言ってしまえばカムカの慕情は全くの勘違い。しかし、だからといってその思いの深さに変わりは無い。惚れ薬に頼りたくなるほどに恋に狂い、自分の命を投げ出すほどに人を想う。そしてその情熱の終末は、恋を知らぬリュキアにすら何か暗い影を落とさせる。カムカは、愛する者の手の中で、ゆっくりとその瞳を閉じた―――






「―――いや、まだ息はある。ただ気絶しただけだ。俺ァこの若旦那を病院まで連れていく。お前ェは神父様ん所戻ってこのことを伝えろ。どういう経緯であれ曇の野郎がこっちに直でちょっかいかけてきたんだ、事によっちゃ正面衝突もあるから覚悟決めとけ。」


 マシューはその小さい体で太ったカムカの身体を背負い、街のほうへと戻って行った。リュキアに病院に行かせなかったのは彼女の動揺を慮ったからかどうかはわからない。日はようように暮れ闇が空を侵食していく中、リュキアは今しがた目の前で起きたこと、そして来るべき戦いに対しどういう気構えでいればいいのかわからないままでいた。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る