其の四

「あーつまんねえ。」


 残り火を投げる手を止め、ゼルが呟いた。目の前には憔悴しきり、這いずる事さえできなくなった狼獣人の娘。彼は、捕まえた虫を嬲る猫の如く、反応の無くなった玩具への興味を無くしていた。


「八時まであと何分だ?」

「三十分ほどですかね。」

「頭領が戻って来そうな様子は?」

「無えです。それどころか第六近衛師団にも州衛士にも目立った動きは。」


 外を見張る手下の返答を聞き、ゼルは顎に手を当て考える。頭領の奪還は成りそうにもない。しかしこれは織り込み済みだ。第六近衛師団とて、昨日の今日でそう易々と宿敵を釈放する気など無いだろう。今回の行動はむしろ牽制、そしてゴーガン海賊団未だ健在というアピールである。これからもこのようなゲリラ行動を起こし、第六近衛師団を真綿の首絞めに追い込んでいく、それこそが当面の狙いなのだ。それに個人的には、頭領がいなければ自分がトップのまま勝手放題できるという打算もあった。


 となれば、楽しめるときに楽しめるだけ楽しんでおくのが得というものだ。どうせ脱出後には全員犯して殺すとはいえ、時間的にもまだ一人甚振って遊ぶ余裕はある。新しいおもちゃを品定めするかのように、ゼルは人質の群れを見回した。


 目についたのは昼に剥いた娘、そしてその傍らで横たわる彼女を励ます大柄な女の姿だった。


「フィラちゃん~…大丈夫よ、きっと主様たちが~…」


「おい姉ちゃん。ひょっとしてこの嬢ちゃんの姉か何かか?」

「ひっ!?……」


 ゼルはフィアナににじり寄り問いかける。目の前で残酷ショーを繰り広げた男、突然話しかけられ悲鳴をあげるが、それからは口をキッとつぐみ毅然とした態度で無視を決め込む。それは下劣な悪党に対するせめてもの抵抗であったのだが、それが逆にゼルの嗜虐心を刺激した。


「答えねえのか。まあ沈黙ってことは正解と同義だろうな。」

「……」

「しかしだな、妹が公衆の面前で裸晒したってのに、姉だけまだってのも不公平と思わないかい?」

「……」

「さてその強気、どこまで持つかな。おいお前ら、この女脱がせろ。」

「!?」


 沈黙と気丈を保ったフィアナではあったが、その言葉には流石に面を食らい反応してしまう。同時に屈強な男たちが三人ほど、彼女を床に貼りつけるかのように抑え込んだ。よしんば後ろ手が解けたとて、これに抗うことは能わないだろう。


「脱がせろっつっても普通に脱がせちゃ面白くねえよなぁ。」

「妹は上から剥いたんだ。姉は下から剥いてやろうぜ。」

「ぎゃはは!いいなそれ!姉妹でお似合いってか!」


 下卑た言葉がフィアナの耳に入った。将来現れるであろう運命の男性にしか見せぬであろう箇所を、こともあろうにこんな連中に見られる。絶望と恐怖がこみ上げ、頭がどうにかなりそうになる。言うが早いか、男たちはスカートに手をかけた。


 しかし、フィアナは目と口を強く閉じ耐えた。州衛士ベルモンド家の従者として、辱められたフィアラの姉として、そしてなにより主人マシューの姉代わりとして、悪党に屈することを拒んだ。もし自分が泣き叫べば連中は喜ぶ、ならば思い通りにしてなるものかという最後の抵抗。ただ、下半身に触れる嫌な感覚だけは拒みようは無かったが。




「そのまま目ェ瞑っておきな。これからも見てても面白ェ景色じゃねェからよォ。」




  突然、永遠にすら感じられる忍苦の時間、その終わりを告げる声が聞こえた。



(えっ!?この声まさか~――でも違う~―――?)



 それは、フィアナには聞き覚えのある声。しかして絶対的にあり得ないと思う声。その声の持ち主が自分の思う通りの人間ならば、かようにドスの利いた殺気含みの声など出せるはずが無い。その人間は、ドジで抜けてて怠け者だけど、底抜けに優しい人なのだから。


 などと考えていると、下半身に触れていた手の感覚が変わって行った。まるで動きを見せず、それどころか徐々に温もりが失せていっている。つまりは「見てても面白くない景色」とはそういうことだと察した。やはりあの人ならばこんなことできる筈も無い、と思いながらも、自分としても見たいものでは無いのでこれまで以上に目を強く瞑った。


 尤も、目を開けたとてその声の主を確認できたかと言えば微妙なところだろう。部屋灯りの蝋燭の頭はリュキアの黒糸によって断ち切られ、店内も既に夜の闇に包まれていたからだ。


「何だテメエ!どこから入った!?」

「ギュールたちを殺りやがって!誰の差し金だ!?」


 星の明かりを頼りに夜の海を進む男達である、海賊たちは夜目が利きこの暗闇の中でも侵入者の姿はおぼろげだが確認できていた。灯りが突然消えるなり入り込んで来たこの人影は人質を押し倒す三人を手にした剣で瞬殺、そしてこちらに向かって来ていた。


 海賊たちは慌てて武器を取り、迫る影に振るう。ほとんどが大鉈や斧の類、当たればデカいのであえて急所を狙うことも無い。凡そ人の形は見えているのだから、そこの何処かに当てれば終わりの簡単な仕事、の筈だった。


 しかし彼らの攻撃はその何処かにすら当たらない。逆に影の斬撃が面白いように海賊たちを捉えていた。自分たちの得物とは正反対のか細い剣だが、その切れ味をかの者の技量は、この暗闇であっても一太刀で人命を奪取せしめる。日中、食事客を相手に死体を量産してきた海賊たちは、この夜において自分が死体にされる側になるなどとは今わの際まで思ってもみなかっただろう。



 悲しいかな、夜目に自信を持つ海賊たちであったが、元来闇に生きる暗殺者WORKMAN―――マシュー・ベルモンドのそれとは比べるべくもなかったのである。いくら憎き海賊とはいえ次々と血泡を上げ惨殺されていく景色は陰惨が過ぎ、確かに見ていて面白いものでも無かった。



「ひ、ひぃっ!!」


 つい先ほどまでこの場の支配者の如く振る舞っていた男は情けない声を上げ逃げ惑う。殺戮の影は執拗なまでにゼルを追っていた。それは確実に、昼間公衆の面前で辱めた娘と、今しがた辱めんとしていた娘の復讐という個人的な面が多分に含まれていたのだが。そんなことなど知る由も無いゼルは次々に部下に迎撃を強要する。しかし、一刀のもとに斬り捨てられるのでは壁役はおろか足止めにもならない。数分も経たぬうちに、ゴーガン海賊団立てこもり部隊は、ただ一人を除き全滅した。


 それでも自分だけは助からんと必死に足掻くゼルに、ひとつの案が思い浮かぶ。そうだ、ここには人質が沢山いるのだ。目の前の殺戮者に無駄な殺生を好まぬ人間らしい心があるかは知らぬが、とりあえず盾にはなる。ぐったりと床に横たわる娘を一人拾い上げ、左手に持ったナイフをその喉に突きつけた。余程憔悴しているのか、このような状況でも娘は未だ気を失ったまま動かない。


「うっ…動くな!!こいつがどうなってもいいのか!?」


 その言葉と共に、人影ははたと動きを止めた。効果があったかとゼルはほくそ笑む。



しかし、実際それは最悪の選択であった。彼が数いる人質から盾に取った娘は、エプロンドレスの上着を破られ、上半身を曝け出したツインテールの少女―――そう、フィアラ・モリサンだったのだ。


 瞬間、再びマシューは沸点に達した。しかし昼間のように我を忘れて猛り狂ったりはしない。逆にその頭はすっきりとしていた。そんな研ぎ澄まされた怒りから放たれるは、神速の踏み込みからの鋭い斬り上げ。素人目には人質ごと斬り殺したかのように見えるその一閃は、確実に、ナイフを持ったゼルの左腕のみを綺麗に斬り裂いていた。思わずゼルは人質を手放し、痛みに反応する。



「があ――――ッ!?」



 痛みに対し、叫びのたうち回ることは一種の代謝行動である。そうすることで僅かだが痛みから気を紛らわせることができる。いわんや左腕を両断などという重傷なら、いかに我慢強い男でもそうせざるを得ないだろう。


しかし今のゼルには、その権利すらも無かった。のたうち回ろうにも体の自由が突如奪われ、叫ぼうにも気道が潰れて声も出ない。ただ、腕を失った痛みをダイレクトに味わっていた。瞳は充血し、口角からは泡が噴き出る苦悶の表情。情状酌量の余地のない悪党とはいえ、多少気の毒に見える姿だった。


 ゼルを金縛りにしたのは闇夜に紛れ放たれたリュキアの黒糸。「仕事」に対しては一切の非情を以て必殺を心がける彼女らしからぬ、寸止めの緊縛。やはり彼女も昼間の一件に相応の怒りをため込んでいたようだ。甚振られた女たちの恨みを混め、その首魁を意趣返しの生き地獄に落とす。



「死ぬまでこのまま縛り付けておくってのも乙かもしれねェが、残念ながら時間も無ェ。俺がすっぱり散らせてやるよ。」



 やがてマシューが身動きの取れぬゼルに近付き言った。そして放たれる右袈裟切り。その身体はマシューの宣言通り、「すっぱり」と左肩から腰にかけてを斜めに両断された。同時にリュキアも黒糸を回収、かつて一つだった二つの肉の塊がどちゃりと音を立てて崩れ落ちる。そしてゼルは、生き地獄から本当の地獄へと旅立っていった。






 時計は八時五分前。約束の期限までギリギリであった。このまま時が過ぎ動きが無ければ州衛士隊と第六近衛師団が突入、この惨状を目撃するとともに人質も救出されることだろう。結果的に人質を救った英雄かもしれないが、本質は悪党を殺す悪党、公僕と面と合わせることなどできるわけもない。となれば長居は無用だ。ふたりのWORKMANは裏手から建物を出て、誰も通りそうにない狭い裏道を通りこの場を後にする。




『あーあ、結局フィアナ達のこと助けちまったか。』


 道すがら、マシューの胸中に再び「自分」の声がした。


『何度も言ったがこんな都合のいい「仕事」、二度と来ねェだろうよ。』

『今日はあの二人を助けられたかもしれねェ。だが、次また同じようなことが起きればどうなるかは火を見るよりも明らかだ。』

『明日から、いつか来るその日にビクビク怯えながら毎日を過ごすことになるだろうよ。』

『それなら今日この場であいつらを諦めたほうが苦しむ時間もだいぶ短い。』

『生き地獄みてェな日常を送るくれェなら、俺の声に従って人斬りの道に堕ちたほうがなんぼか気が楽だったんじゃねェのかね?』




―――「自分で選んだ地獄だ。文句は無ェ。」




「………なんか言った?」

「い、いや何でもねェよ。独り言だ。」


 あの日以来湧き上がった人斬りへの誘惑、マシューはそれを遂にはっきり拒んだ。どうやら口に出してしまったらしくリュキアから声をかけられ我に返ると、胸の中の「自分」は己の選択を嘲笑いながら深い闇の中に消えていく。雲の多い夏の夜空には、ようやく顔を出した満月が柔らかな光を放っていた。






「なあ、ところで神父様よ。今回の頼み人ってのは誰だったんだ?」


 同じく、北から街に戻る道すがら、ギリィが神父に尋ねた。確かにおかしな話である。人々の恨みを受けてそれを晴らすWORKMAN。逆に言えば恨みを持つ者からの頼みが無ければ動けぬ稼業でもある。遠く離れた街にいたマシューもそれで気をやきもきさせていた。


 相手はザカール近海で悪名を轟かすゴーガン海賊団、誰に恨みを買っていてもおかしくないといえばそうではある。しかし頭領が捕まり、残党が事を起こした当日に「仕事」が決行となると、このスケジュールにも疑問点がいくつか湧く。ともかく、誰が、いつ、どんな角で恨みを晴らしてほしいと言ってきたのか説明も無いままギリィたちは駆り出されたのだ。


「申し訳ございませんが、今回は匿名をご希望でして。頼み人の教える訳にはいきません。」

「なんだそりゃ。ああ、でも何時ぞやにもそんなこと言ってたっけな。あん時は一杯食わされたけど。」

「しかし今回は、パメラさんのときのように私の打算含みということではありませんよ。恨みと信条を天秤にかけ、断腸の思いで恨みを取った頼み人の悔恨を思えば、仲間内とはいえあまりその名を軽々しく伝えるべきではないと思いまして…」


 そう言うと神父は天上に輝く月を眺めた。あの日もこのように月の美しい日だったと思い出しながら。






・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・






 時は三日前に遡る。丁度その日の日中には、第六近衛師団がゴーガン海賊団の頭領を捕縛し、北の監獄へと収監したとのニュースが街中を席捲していた。そんな日の夜、丘の上の教会の懺悔室に入って行く人影を神父は目撃した。何がどうしてこんな遅くに、と思ったが表の懺悔であれ裏の依頼であれ自分が聞かぬことには始まらない。裏口から傍聴室へと入って行く。


「夜分遅くに申し訳ない。言い訳がましいかもしれないが、日が出ているうちは忙しく時間が無かったのだ。ご容赦願いたい。」


 小さな小窓から懺悔室を覗くと、さしもの神父も驚いた。電話ボックス程度の狭い個室に座っていたのはまさに本日大捕物を成し遂げ一躍時の人となった第六近衛師団長ミルトンその人だったのだ。なるほどその日の多忙さを考えればこの時間くらいしか来られるタイミングは無い。しかし団長襲名以来高潔な人物で知られる彼だ、懺悔にしろもうひとつの用途にしろこのような場所を訪れる理由は見当もつかない。


「この場に金子を納め、恨みの丈を述べればそれを晴らしてくれるという噂は聞き及んでいる。恥を承知でお願いしたいことがあるのだ。」


 更に驚いたことに、ミルトンの要件は「裏」であった。誰よりも法を尊ぶと言われた男が、外法の存在に頼るという異常。そして彼は、その使命感の裏に秘めた怨嗟をこの場で吐き出し始めた。


「昼間あれだけの騒ぎになったのだから、私どもがゴーガンを捕縛したとの報は既に耳に入っていると思う。そう、私どもは『捕縛』したのだ。『討滅』したのではなく―――」


「本来ならあの場で殺してやりたかった。遺恨を込めて頭をかち割ってやりたかった。しかし私は法に基き市民を護る近衛師団長、私刑は許されない。湧き上がる憎悪を噛み殺し、奴を監獄へと連行した。しかし今もなお、押し込んだはずのそれは未だに間欠泉の如く湧き上がっている。いくら監獄の中とはいえ奴が未だに息をしている、という事実すら耐え難く思えるほどに、だ。」


 ミルトンのゴーガンへの怒りの程は、想像を絶するものだった。やがては死刑にかけられ地獄へ行くだろうに、それすら待つことなく一分一秒でも早い死を望んでいる。そしてそう思うに至る原因は、皆も良く知る逸話にあった。


「囚われた近衛師団員が七つに切り分けられて送り返された、あの凄惨な事件もご存知かと思う。実はその憂き目に遭った者は、私の娘婿だ。」


「同じ傍の下、同じ釜の飯を食った若き団員。拙いながらも使命感に燃える若者を私は目にかけ、家族ぐるみで交友を深めていった。やがて彼と娘は惹かれ、我々は快く嫁に出した。幸せな新婚生活、それから一年も経たぬうちにあの事件が起きたのだ。」


「私も彼の凄惨な死を深く悲しんだものだが、夫婦となった娘の悲しみは渡しどころのものでは無かっただろうな。打ちひしがれ、狂乱し、やがては首を吊り自殺。目に入れても痛くない娘、団員として有望な娘婿、そしてやがて生まれてくる筈だった孫―――奴は、ゴーガンはそのすべてを奪っていったのだ!それもただ、我々近衛師団に対する嫌がらせの為だけに…!!」


「…いくら自身に降りかかった悲しみが重くとも、かような憎悪を肯定することも、かような手段に訴えることも近衛師団長としてあってはならぬ。それは重々承知している。しかしそれでも尚許せぬ気持ちは止まらぬのだ。だから自分の心に整理をつけるためにも、ひとつ頼みを聞いてほしい。」




「ゴーガンめが罪を感じ大人しく服役し断頭台に立つのなら、私もそれを受け入れこの恨み飲み込もう。しかし収監されて猶、悪行を企むというのなら、どうかすぐにでもこの恨みを以て彼らに死の裁きを―――」




 そしてモルガンは、金貨三枚を懺悔室に残し去って行った。






・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・






(眉唾と思っていたが、まさか本当に存在するとはな…)



 八時を過ぎても現場に動きの無いことを疑問に思い遂に突入した第六近衛師団が見たものは、衰弱しきった人質の女たちと死体の山であった。その中には、この事件を起こした筈のゴーガン海賊団残党の斬殺体も混じる。手に武器を握っていることを見ると何者かと戦っていたのだろうか。そんな疑問も、鮮やかな斬創から撒き散らかされた血や臓物を見れば考える気も失せるというもの。ある者は眉をしかめ、またある者は凄惨な地獄絵図を前に嘔吐していた。


「いったい、何があったんですかね?」


 団員たち、そして州衛士たちも皆一様にミルトンに意見を請う。よもやその男が、外法の手の者に打診して皆殺しに処した、などとは誰も気が付くまい。ミルトンもまた、噂話としか思っていなかったWORKMANが実在していたことに驚き、自分のしでかしてしまった事の重大さを思い知らされた。しかし同時に、胸の奥に仕舞い込んでいた憎悪が跡形も無く消滅していることもまた事実であった。


 そしてミルトンはその返礼として、一連の事件よりWORKMANの存在を隠した。事件の顛末も虚実を交えおり纏めたし、神父が偽造した誓約書も自分が確かに認可したものだと断言した(尤も、WORKMANに依頼を出したのは自分なのだから、遠回りに自分の指示だということでもあるのだが)。相手が悪逆非道の輩ということもあり、みな心情的に追求する気も無かったようで、この立てこもり事件から転じた海賊皆殺し事件は一種の未解決ミステリーとして人々の間で伝えられていくことになるだろう。


 その一方で、ミルトンは団長辞任を表明した。復讐は果たせたといえ、法に外れた存在に頼った自身を恥じてのことだが、人々がその隠された真実に気付くことは無かった。ザカールの夏は何事も無かったかのように、例年通りの盛りを迎えている。






「ああ…暑っつい…」


 そんな夏の盛りの非番の日、マシューは家でうだっていた。夏は暑く冬は寒いボロ屋だから仕方ないとはわかってはいるが、わかって暑さが耐えられるのなら苦労はしない。だらしなく下着姿のまま縁側で寝ころんでいた。


「ちょっと~主様~。いくらお家の中だからってダラダラしすぎですよ~。もう少しシャキッとしてくださいまし~。」

「ていうかそんな所で寝ころんでたら、お隣さんに見られるじゃないですか。恥ずかしい思いをするのは私達なんですから上を着てください!」


 昼のうちにすぐ乾いた洗濯物を取り込みながら、モリサン姉妹が主の自堕落を注意した。彼女らの装束は、夏向けに袖は短くなっているが濃紺のメイド服。そんな太陽熱を吸収しやすい服でよくシャンとできるものだとマシューは感心する。


 あの立てこもり事件から一週間が過ぎた。人質として監禁され、心にも大きな傷を負ったであろう姉妹たちも時の流れと共に立ち直り、いつもどおり主人に小言を言えるくらいまで回復している。ベルモンド家にもすっかり日常が戻ってきていた。


「いやぁ、シャキッとしろと言われてもこの暑さだしねぇ。何かこう、涼めるものでもあればいいんだけど…」

「そうだ主様!じきにお茶の時間になりますけど、お外で飲みにいきません?」

「何で?外出たら余計暑いじゃないか。」

「国家認定魔術師が魔法で作る氷を出すお店が、本通りに出来たらしいんですよ。いい機会だし一度行ってみませんか?」


 電気の力で冷房など存在せぬ世界、冷気を放つものはもっぱら魔法の力に依る。さりとて大ラグナント王国では魔導は制限されている。となればそのレアリティたるや相当のものだ。フィアラがポケットから出したチラシにも、そこを念押しするかのような謳い文句が散乱していた。


「しかしだねぇ、こんだけ宣伝してたらみんな行ってるでしょ。私並ぶのは嫌いですから。お前たち二人で行ってきなさいな。」

「あんなことがあった後なのに、私達だけで行かせるんですか?」

「…うぐっ!」


 フィアラはマシューを睨みながら呟くように言った。二人で出掛けた先で巻き込まれ、彼も大いに心乱した事件の記憶もまだ新しい。出不精の彼でもそれを言われてしまうと、付いて行かざるを得なくなる。愁いを帯びたフィアラの視線が、マシューをちくちくと責めていた。


「で、でも!私みたいな盆暗が居合わせたところで、お前たちを護れるかどうかなんて、そりゃあなあ…」

「駄目ですよ~主様~。そんなに邪険にしたら、フィラちゃんが可愛そうじゃないですか~。」

「ん?どういう意味だ?」

「フィラちゃんは~、主様とご一緒にお茶したいんですよ~」


 フィアナがマシューを諭すが、その言葉に真っ先に反応したのはフィアラだった。夏の日焼けもかくやというほどに顔を赤らめ、姉に詰め寄る。


「ななななっ何言ってるんですかお姉様!?」

「フィラちゃんってばこないだも、例のシスターさんに主様を取られるんじゃないかと気が気でなかったものね~。いいですよ~私はお家にいますからお二人で仲睦まじく行ってらっしゃいましな~」

「え!?フィアラ、え!?」

「そ、そんなわけないじゃないですか!あれはただ主様の分際であんな美人とお付き合いがあったって事実に腹を立てただけで…」

「分際ってどういう言い方だこの野郎!!」




 ベルモンド邸から三人の大声が近所まで響いた。


その中にあり、マシューは確かに幸せであった。しかしそれは薄氷の上の幸せ。もう一度あの事件のようなことが起きれば、あそこまで都合よく事が運ぶはずも無い。さすれば待つのは愛する者たちとの別れ。


 いや、それだけではない。自身が裏稼業のうちに闇の中で果てる。あるいは裏稼業そのものがモリサン姉妹の知るところとなる。ありとあらゆる事象により、この幸せは脆く崩れ去るだろう。そしてその瞬間は恐らく、いつか確実にやって来る。


 いつ壊れるともしれないとビクビクしながら味わう幸せは、あるいは地獄と変わらないのかもしれない。今も彼女たちと笑いながらも、その懸念から心の奥底まではその幸せを甘受しきらない。いくら面白おかしかろうが、それが壊れる瞬間を恐れながら過ごす日常は、まるで酔えない酒を延々呑み続けるが如き苦痛。「自分」の誘惑通り、その苦痛の日常を捨て人斬りとして生きる方がいくらか気が楽だった可能性すらある。




 だが、これでいいのだ。自分は元より人の命を奪い地獄に落す外道。そんな者が完全なる幸せを享受するなどあり得てはならぬのだ。業を背負い、現世にて生き地獄に身をやつし、やがて本当の地獄へ落ちる。それこそがWORKMANに、否、マシュー・ベルモンドに相応しい一生だ。そう考えると、いつしか剣への執着も彼方に過ぎ去っていた。



 午後三時、真夏の太陽は嫌味なまでに世界を明るく照らしていた。


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