其の二

 ザカール州の胃袋を支えるネルボー食堂。昼ともなれば庶民の憩いの場となるこの飯処が阿鼻叫喚の地獄と化していた。


ゴーガン海賊団残党の突然の来襲。


 不敵にも正面から行列を押し切り、突如店内に割り込む武装した数十名の集団。明らかに危険な状況ではあるが、平和な時代に降って湧いた事態、昼食を取りに来た客も店の人間も何が起きたか理解できず意外なまでに落ち着いていた。しかし、ドワーフの土木作業員がひとり戯れに斬り殺されるとさすがに事態を把握、死の恐怖が一瞬にして伝播しパニックとなる。



「皆殺しにはするなよ。」

「何人かは逃がして第六近衛師団に俺達のことを伝えさせろ。」

「人質にする分だけは残しておけよ。最悪一人でも十分だが。」

「まあどうせ最後には全員殺しちまうがな。」

「どうせなら若い娘を残せ。そのほうが後々楽しめる。」



 数多の人々を襲いながら、海賊たちはこのような不穏当な会話を交わしていた。そして程なくして、店内は彼らの言うような状況、つまり死体の山と数名の若い女性のみが残される。女たちのほとんどはたださめざめと泣くかショックで放心するのみ。海賊たちはその様子を眺めながら嗜虐心を満たしつつ、人質ひとりひとり後ろ手に縄をかけていく。


 あるいは輝世暦前ならばここまで企み通りには行かなかったのかもしれない。客の中に腕自慢の冒険者が数名いれば海賊に拮抗して見せたのだろうが、こと闘争に要するスキルが無用の長物と化したこの時代でそれを望むのは難しかろう。


 いや、実際にはひとり、かようなスキルを持つ者がいた。丘の上の教会のシスター、リュキア。その裏の顔は一族の怨恨染みつきし黒糸を操り外道を葬るWORKMANが一員。彼女がその力を振るえばこの襲撃者たちを返り討ちに出来た可能性は有る。しかし、真昼間にこう人の目の多いところで、秘中の秘の稼業の技をひけらかすわけにはいかない。何より殺すにしても依頼が無い。面倒な話だが、外道を殺す裏稼業なれどWORKMANは故無き殺しはご法度なのだ。幸か不幸か、人質に選ばれたリュキアは手を縛られたまま、打開の糸口を探っていた。






「ゼルの兄貴、野次馬が集まってきましたぜ。それに州衛士も。」


 小柄の海賊が一団のリーダーらしき男に話しかける。閉め切られた窓から隙間を覗くと、確かに黒山の人だかりと、それを制止する州衛士の姿。その光景にゼルは舌なめずりをした。


「第六近衛師団はまだのようだが、ここらで一発かましたほうが効果的だろうな。」


 そう言うとゼルは奥に座らせた人質の女性たちを舐めるように見回した。一度外に出るにあたって、いざという時の盾にするため一人連れていこう、ということでそれに相応しい人間を選んでいた。いや、その下卑た視線からは、ただの弾除けという以外の何かいやらしい目論見も読み取れる。


 そして、人質の中で一番の美人に白羽の矢を立てた。


「おい、そこのシスター。立ってこっちに来い。」


 ゼルが選んだ人質は修道女のリュキア。確かに十人に問えば十人とも彼女を一番の美人と答えるだろう。名指した瞬間、ゼルはそんな美しい顔が恐怖と不安の色に染まるのを期待していた。しかしリュキアは一分の動揺も見せない。元より表情に乏しいということもあるが、裏の暗殺稼業ではこれ以上の危機を幾度となく経験した身だ、動じる筈も無かった。そんな事情知る由もないとして、予想外のリアクションに気分を害したゼルは無言で修道服の襟をつかみ乱暴に引きずろうとした。


 と、その時である。ゼルの横腹に人質の一人である少女が体当たりを仕掛けた。この海賊、種族は人間ではあるがちょっとした肉食獣人ぐらいの身の丈はある。しかし不意を突かれる形となれば、さほど強くも無い衝撃でも存外反響するものだ。思わず足がぐらつき、リュキアを掴む手も放してしまう。


 ゼルは慌てて踏ん張り、無様に転倒することだけは避けられた。小娘の体当たりでたじろいだリーダーを他の海賊たちが小さな声で嘲笑う。ゼルはキッと睨み彼らを黙らせると、続けて自分に抵抗せしめた娘の姿を睨みつけた。それは、髪を頭の両端で縛った、メイド服の少女だった。



「だ…大丈夫ですかリュキアさん?」

「………いや大丈夫だけど、何であなたが?」

「主人の未来の奥様になられるかもしれない方ですから。安心してください、このフィアラ・モリサンが命に代えてもお守りします!」


 未だの勘違いにリュキアは小首をかしげた。しかしフィアラにとっては本気の本気でとった行動。二十歳に満たぬ女性がかような状況に至れば恐れおののき咽び泣くしかできないだろう。実際今も足は震え、顔色もさめざめである。そこを先程邪険にした罪滅ぼし、主人に連なる者への忠義、その他諸々の感情で奮い立たせ行動に移したのだ。事実上無用の援護ではあるが、その「凄み」についてはリュキアも感服するほどだ。


 しかしか弱い娘が凄んだところで、悪逆な大男に抗うのも限界がある。ゼルは手にしたレーベルの柄でフィアナの頬を打ち据えた。屋内に、ごっ、と鈍い音が響く。


「フィラちゃん!?」


 普段間延びした喋りのフィアナも思わずはっきりと声を上げた。殴られたフィアラは手を縛られたままなので受け身も取れぬまま、床に倒れ込む。痛みに苦悶するフィアラ。その白い頬に、青い痣がしっかりと刻み込まれていた。傍目から見れば痛々しく見ていられない姿ではあったが、ゴーガン海賊団はそれで加減をするような情緒は持ち合わせていない。ゼルは床に転がるフィアナの胸ぐらを掴み、乱暴に引き起こす。


「そうかそうか、そんなにさらし者になりてえか姉ちゃん。」


 ゼルの口調は落ち着いているが、その奥底には静かな怒りが確実に感じ取れる。そしてそのまま、わざと乱暴にフィアラを連れ玄関口まで向かって行った。






「俺達はゴーガン海賊団!ここの人質を解放してほしくば、頭領のゴーガンを解放しろぉ!!」


 そして、事は今に至る。屈強な荒くれ物の手の内に囚われたメイドの少女。乱暴に引き摺られてきたせいかきっちり着こなしていたであろう着衣は乱れ、愛らしい顔には不釣り合いな青痣がくっきりと見える。誰の目から見ても可哀想な姿であり、誰しもがこんな少女をかかる目に遭わせた者に対し憤りを覚えることだろう。




―――全くの部外者たちにすらそう思わせるのだ、彼女の縁者ならば如何ほどの感情を抱こうか。




「フィアラっ!!!」


 人質のメイドの主、マシュー・ベルモンドは瞬時に沸点に達した。脊髄反射めいて無意識のうちに停止線を乗り越えようと身を乗り出していた。しかし彼を同僚の州衛士たちは止める。観衆が停止線を越えないように見張る州衛士が自分から禁を破るとなれば本末転倒だ。そうでなくとも、彼女以外の人質の安全も考えれば、犯人たちを下手に刺激するような真似はよろしくない。決して大きくないマシューの身体を羽交い絞めにしながら、彼を落ち着かせようとなだめる。


 ゼルもこの突然の出来事に面を食らった。現場の保持を努める州衛士に一体何があったというのか。しかしすぐに邪悪な笑みを浮かべ、要求の続きを述べ始める。これから起こることを思えばあの怒れる州衛士の存在もまた一興、そのようにすら考えていた。


「もう一度言う!我らが頭領ゴーガンを北の監獄より解放しここまで連れてくるんだ!期限は日没!もし間に合わなかった場合、こいつらがどうなるかは言うまでもないな!」

「ちょっ、ちょっとお待ちなさい!」


 ゼルの一方的な要求に待ったをかけたのは、州衛士隊隊長のベアだった。頼りない日和見主義の男ではあるが、事この段に至りては自衛組織の長たる責務を果たすくらいの気概はあるのだ。木製のメガホンを片手に犯人との交渉を試みる。


「なんだ?州衛士風情が。」

「い、いや!期限が日没までというのはいささか短すぎる!いくら日の長い夏だとはいえ、そんな短時間で一連の手配などできん!」

「お前ら役人の都合など知ったことか!今から北の監獄まで行って頭領を連れてくる、それだけのシンプルな話だ!」


 囚人を檻から出す、しかも極悪の大罪人となればそれ相応の手続きに時間がいる、というのがベアの主張である。しかし法の埒外で生きるアウトローにそのような理屈は通じない。一方的かつ無茶な要求に、ベアは眉間に皺寄せ困り果てた。だからといってはいそうですねともいかない、州衛士の面子、そして人質の命の為何とか食い下がる。


「そもそも北の監獄からここまでがかなりの距離だ!行って帰っての間に日が暮れるかもしれん!」

「馬でも飛ばせばいいだろ!」

「し、しかしだな…そう!急場の往復という強行軍はしんどい!お前たちの大事なボスにわざわざそのような労力を科すのも不義だろう!?ならば少し時間に余裕を持たせた方がボスの身の為にもなるだろう!?」

「なるほどそれもそうか。よし、夜の八時まで待とう!」


 しかし、あそこまで強情を張ったゼルは意外なまでにあっさりと引き下がった。いや、あるいはこのやりとりも織り込み済みだったのかもしれない。その証拠に、彼の顔はよりいっそうの下卑た笑みを湛えている。彼の手元に手繰られているフィアラの背筋に、ぞくり、と悪寒が走った。


「だが、この海域にて並ぶもの無きゴーガン海賊団に条件を飲ませたのだ!もし頭領の解放が叶わなければ、この中に並ぶ女たちの死にざまがより陰惨なものになることを覚悟してもらおうか!」


「こんなふうにな!!」


 突如、ゼルは人質の首元に突きつけていた刃物を勢いよく振り下ろした。すわ流血沙汰かと野次馬がどよめく。しかし宙に舞うのは血飛沫ではなく布切れ。斬られたのは骨肉ではなく装束。



そして、服を破られたフィアラの半裸が衆目に晒された。



「きゃああああっ!!?」


 はじめは何が起きたのか本人にも見当がつかず、ただ唖然としているだけであった。しかし上半身が外気を直に触れている感覚に気が付くと、その小さな胸がまろび出ていることを理解した。野次馬の中には不謹慎と思いながらも役得とばかりにいやらしい視線を向ける男たちもいる。胸を隠そうにも後ろ手に縛られたままではどうしようもない。羞恥に押され、悲鳴を上げてその場にしゃがみ込む。と同時に、今まで耐えてきた恐怖も決壊し、赤子のようにはばからず泣き出してしまった。その姿をゼルはようやく満足そうに眺めている。



 そんな、フィアラが辱められるその現場に遭遇したマシューの怒りたるや、どれほどのものだっただろうか。



「野郎!!ぶっ殺してやらァ!!」

「ちょっと落ち着いてくださいベルモンドさん!!」

「離せ手前ェら!これが落ち着いていられるか!あの海賊野郎の顔面をぶった斬るらねェことには俺の腹も治まらねェ!!」


 腰元の剣を抜き、古代レブノール訛りも憚らずに怒りをぶちまける。州衛士たちは、普段からは考えられない口調と一人称でいきり立つ同僚に戸惑いながらも、先程同様に押さえつけた。実際のところ、今手にしている重量のブロードソードでは彼の剣才を発揮するには能わない。怒りのままにゼルに立ち向かったところで返り討ちがいいところだ。そういう意味では、同僚に感謝せねばならぬのだが、今のマシューにそのような自分を顧みる余裕などなかった。


 ゼルはそんな州衛士側の騒ぎは気をかけず、フィアラを無理やり引き起こし店の中へと戻ろうとする。その時になりようやく、フィアラは自らの主がこの場に駆け付けていること、そして自分に対する所業に憤り仇を討とうとしていることに気付いた。しかしそれは、従者たる自身が主人の重荷になっているということの裏返し、普段は悪態ずくめでも心の根っこでは彼を慕うフィアラにとってそれは耐え難い事だった。彼女は湧き上がった恐怖を再び押し殺し、なんとか取り繕った笑顔をマシューに向けた。



―――私の事はどうなってもいいですから、主様は職務を全うしてください。



 眉は引きつり瞳に涙を湛えながらの精一杯の作り笑顔。そのまま彼女はゼルに引きずられ店内へと連れ戻されていった。主人に心配をかけさせまいとする彼女の勇気ある行動だったが、果たしてそれはその主人本人を安心させただろうか。マシューの胸中では、店内へと引っ込んでいく彼女の姿が、今朝の悪夢で闇に飲まれる様子と巧妙にリンクしていた。






 店内に連れ戻されたフィアラは、一か所に固められた人質の集まりに乱雑に投げ捨てられた。床にしたたかに打ち付けられそうになるのを防ぐように、姉のフィアナが体を使って彼女を受け止める。上半身は未だ裸のままだ。


「どうだい嬢ちゃん、公開ストリップの感想はよ?」

「これに懲りてあまり調子こいた真似するんじゃねえぞ。」

「そんなに泣くなよ。時が来たら、死ぬ前にその小せえオッパイも可愛がってやるからなぁ。」


 海賊たちは折々に下卑た言葉を投げかける。それに対しフィアラは、マシューの為に奮起してなんとか持ち直した心もすでに折れ、勝気な彼女とは思えないほどに弱々しく嗚咽を繰り返すのみだった。姉のフィアナはその様子に心を痛め、リュキアは半ば自分の身代わりとして辱められたフィアナの無念を思い、目の前の外道への怒りをふつふつと、面に出すことなく滾らせるのだった。






「なるほど。あの女性はベルモンドさんの従者の―――」

「お怒りも御尤もですけど、相手がゴーガン海賊団では―――」

「過去の例から見ても、助けられる見込みは―――」


 時は午後1時30分、事件発生から一時間半、そしてゼルの要求開示から30分が経過した。落ち着かせるために現場から離れたところに座らされたマシューの耳に、同僚の噂話が聞こえる。その内容は往々にして悲観的であった。無理もない、何しろ相手はかつて人質を七つの破片に分けて返却した外道どもである。


 そのことはマシューも重々に承知していた。いや、承知しているからこそその絶望は深い。頭領と人質の交換と謳ってはいるが、前例を見れば生きたまま帰って来る公算は限りなく0に近い。余程上手く突入・殲滅でもしない限りモリサン姉妹の命は無いと言っても過言では無かろう。


 あるいは自分には、その突入と殲滅を可能せしめる「力」を持っている。しかしその力は、誰かの涙の為にのみ振るうことを許された力。はっきり言えば、WORKMANとしての依頼が受理されねば許可の下りぬ力だ。私情で使うことは許されない。


 だとすれば、己の剣は何のためにここまで鍛え上げたのか。過去の英雄を殺すことはできても、己の大切な人を救うことは叶わないのか。悔しき自問自答の末、マシューは苛立ちから拳を地面に叩きつけた。皮が剥け血がじわりと滲む。




―――『イイジャネエカ。ミゴロシニシチマエバ。』




 瞬間、背筋が凍るような声が聞こえた。はっとして周りを見回すが、それらしき人物も、自分と同じくそれを聞いたような人物も見当たらない。しかも奇妙なことに、その声は確かにマシュー本人の声だった。一般に、自分の音声というものは聞いても自覚しづらいと言われているが、何故だかマシューにはその声が自分のものであるとはっきり理解できた。


 それもそのはず、その声は耳から聞こえるものでは無く、己の心の内、しかも奥底の淀みのような部分から響いて来ていたのだ。


『そりゃアイツらが死んだら悲しいだろうさァ。だがそれも一瞬の事。』

『そこさえ越えちまえばお前の最大の弱点は無くなったも同然。』

『そうなりゃ過去の英雄を斬っ殺したお前を斃せるものはこの世にはいねェ。』

『晴れて海内無双の剣士さまってことよ。』


『とっくにその可能性には気づいていたんだろ?今朝、あの夢を見たときによォ…』



「五月蠅ェ!!」



 野次馬達の一部がびくりとした。先程まで頭に血が上っていたので休まされた州衛士が、誰に話しかけられるでも無く突然怒鳴ったのだ。そりゃ驚く。しかしマシューには確かに聞こえていた。それどころか、その己を闇に誘う者の姿も目にしていた。それはまさに、今朝の夢で己を刺した自分そっくりの何者か。


 白昼だというのに随分と嫌な幻だ、とマシューは思った。モリサン姉妹は互いに親を失って以来六年間、肩を寄せ合い家族同然に生きてきた間柄だ。そんな存在の死を願うとは随分とふざけた幻覚もあったものだ。暑さではない要因で額に噴き出た汗を拭う。


 しかし、あの幻を本当にすべて否定しきれただろうか。思えば初めての「仕事」で師を斬ったときにその萌芽があったのかもしれない。死と隣り合わせのスリル、己の腕を思うさま振るう快楽、そして更なる力への渇望。表の生活と裏の掟で抑え込んでいたそれらは、過去の世界にて無空の殺人剣という境地に至ったことで解放されてしまったのではないか。神父が語った「あの剣は危険」という言葉は、ここに至りて別の意味で現実となったと言える。



「俺が…あいつらの死を望んでいる…?」



そして、その「人斬りの暗黒面に落ちた」もう一人の自分というものが自らの心の内にいることに気付かされたマシューは、その自己嫌悪をぶつけるかのように再び地面に拳を叩きつけた。先程の傷口が砂に塗れ、見るからに痛々しい。しかし、マシューの心は肉体以上の痛みを感じていた。






 時計はさらに進み午後二時、ようやく第六近衛師団が近海の巡視から戻り、この現場へと急ぎ足でやって来た。立てこもり犯であるゴーガン海賊団とは犬猿の仲である、姿を見せて刺激せぬよう、最前列には立たず人込みに紛れ州衛士と接触、事の詳細を知らされる。


「―――というわけです。ミルトン団長殿。」

「くっ、まさかこれほどまでに早く行動に出るとは…」


 ベアからの話を聞いたミルトンは苦々しい顔をした。まさにこの日の数時間前、目の前の男と警備の強化について打ち合わせをしたばかりである。連中がそのスケジュールを知っていたわけではないが、あまりにもあまりなタイミング。初動が遅れ後手に回った悔しさを噛み締める。


「しかし悔やんでいても始まらん。早く奴らの逃走予定経路を割り出し、捕らえるべく待ち伏せを仕掛けておかねば。」

「ええ。場合によっては他の近衛師団の援護も要請すべきでしょうね。」


 気を取り直し、第六近衛師団と州衛士、二つの団体のトップは今後の事を相談し始めた。部下たちも輪をなして真剣に耳を傾ける。それはこの輪に入っていないマシューの耳にもそれとなく伝わってきた。と、同時に疑心。ふたりの会話に言い知れぬ違和感を覚えたマシューは、立ち上がりおぼつかない足取りで彼らの元に向かった。


「隊長…それにミルトン殿…」

「ああベルモンドさん。少しは落ち着かれましたか?」

「いや俺のことはどうでもいいんですが…どういう事ですか?」


 マシューはベア達に問いかけた。しかし当人たちにはとんと見当がつかない。何かまずいことがあったのか、何が引っ掛かったのか、むしろこちらが疑問を投げかけたいところだ。よく聞けば一人称もおかしい。まだ混乱しているのか、とベアは思った。


「何がどうおかしいと言うのかね?」

「さっきからしてる話ですけど、奴らが逃げた後の話ばっかじゃねェですか?」

「それが何か?」

「いやおかしいでしょ…突入部隊の編制にしろ、監獄の親玉の解放にしろ、人質を無事に取り戻す計画なんかこれっぽっちもしてねェじゃねえですか!?」


 目の焦点も合わぬまま、古代レブノール訛り混じりでミルトンに食って掛かるマシュー。本来なら立場上あり得ぬ無礼、しかしミルトンも察していたのか、何かを噛み殺すようなに苦い顔で追及の言葉を聞き入れていた。


「確か、あの人質の中に気味の縁者がいるとか。」

「ええ、そうですよ…血の繋がりも無ェ従者ですけど、俺にとってかけがえのない姉妹みてェな奴らなんですよ!あいつら助ける算段はしねェんですか!?」

「…善処はするつもりだ。」


 幽鬼のようにミルトンに縋るマシューへの返答は、お決まりのお役所言葉だった。自分も役人だからこそわかるが、つまりは九分九厘あり得ぬということ。事実上の否定に、普段無気力を装うマシューの感情が爆ぜた。遂にはミルトンの襟首を掴み詰め寄る。近衛師団員が思わず引きはがそうとするが、それを止めたのはミルトン本人。彼にも思うところがあるのだ。


「なんで!?なんでなんすか!?人質を助ける気は無ェってことですか!?」

「…まずはゴーガンの釈放だが、これは絶対に選択に入らぬ。いや、してはいけない選択と言ってもいいだろう。ザカール近海に恐怖を撒き散らした悪鬼をようやく捕らえたのだ。これを再び解き放つということがどれだけ危険か。あるいはこの立て籠もり以上の悲劇が繰り返されるだろう。」

「そんな、じゃあ後の平和のための捨て石にするってことじゃねェですか!?」

「そもそも奴らは我らの仲間を開放すると言いながら、肉片に切り分けて送り付けた連中だ。約束を守り人質を返す、などという楽観はできない。」


 マシューははっとした。頭に血が上り、完全にそのことを忘れていた。そもそもにおいて、武力で鎮圧する以外人質の助かる道は無いのだ。なればと突入を進言するが、ミルトンはこれにもまた首を横に振る。


「突入はまだ可能性は有るが、それでも薄かろう。連中もそれなりに手練れ、内部の様子がわかならい今攻め込んでも最悪返り討ちだ。そもそも下手に連中を刺激して人質を道連れにするようなことになれば本末転倒だろう。」

「そ、そうだがよォ…」

「元より人質の命が無いのなら、こちらもリスクの少ない選択をしたほうが益があるということだ。残酷な話だがな。」

「………」

「あるいは裏事に強い非合法ギルドに頼る手もあるかもしれんが、いかんせん我らは法を護る者、法に背く連中の手を借りる訳にはいかんのでな…」


 ミルトンの選択は非情だった。しかし望んでそうしたわけではないことはマシューにもわかった。瞳に宿る無念の色、マシューを払いのける手の震え。それらが悲痛なまでの苦渋の選択であったことを雄弁に物語る。だからこそ彼に返す言葉は無かった。ただ絶望して、その場に膝をつく、それしかできる事が無かった。



「とりあえず、自宅へお戻りください。現場に残っていても、貴方には辛い事しか起きないでしょうから。ベルモンドさん。」



 ベアはマシューの肩にそっと手を触れ言った。彼には珍しい優しい言葉、しかしそれが救いになったかと言えば、難しいところだろう。






 午後四時、マシュー・ベルモンドは家路を歩く。とぼとぼと力ない足取り、焦点の合わぬ瞳、だくだくと吹き出る汗。精神と同様に、肉体もだいぶ疲れ果てていた。


 あれから二時間経っているのだが、その間彼が何をしていたのかと言うと、素直に家には帰らず丘の上の教会まで走っていた。ミルトンが去り際に言った「裏事に強いギルドに頼めばあるいは」という言葉、それを最後の望みの綱と思い至ったのだ。つまりは自分以外の人質の縁者が、懺悔室にてWORKMANに頼みを入れているのではないかという望み。そうなれば「仕事」の名の下に海賊たちを斃し、姉妹を救い出せる。


決して近いとは言えぬ距離、決してなだらかとは言えぬ坂を全力で駆け、教会に辿り着く。しかしそこに待っているものは何もなかった。頼み人の姿はおろか、教会に住まう聖職者たちの姿すら。


 修道女のリュキアが彼の大切な人たちと共に囚われてることはマシューも知らぬこと。それはそうとしても、神父の姿すら無いというのは解せない。今日に外出の用があるとは聞いていない。家人たちはどこに行ったかと探しているうちに貴重な時間はどんどん過ぎていく。そのうちようやくマシューも心が折れ、隊長の言いつけ通りに家に向かっている、ということだ。


(くそっ!あのクソ神父、肝心な時に居やしねェ!)

(リュキアの馬鹿野郎もだ!)

(大体ミルトン団長も融通が利かねェや!何が「法を護る者」だよ!)

(これだから鎖に繋がれた権力の犬は嫌なんだ!)



『鎖に繋がれた犬は手前ェもだろ?』



 心の中で八つ当たりめいて悪態をつくマシュー。その心の声に、異を唱えるものがいた。思わずはっとして辺りを見回すが通行人すら誰もいない。いや、何者の声であるかなどとっくに気付いていた。自分が最も忌み嫌う「自分」、そいつが再び囁き始めたのだと。


『頼みが無けりゃ動くこともままならねェWORKMANの掟…』

『頼み人の涙の為と言やァ聞こえはいいが、つまるところ手前ェに降って湧いた涙にゃてんで無力な使えねェ掟だ。』

『大事な女たちを見殺しにする掟に従う必要が何処にある?』

『やっちまえよ。思うさま。フィアラを辱めた憎い外道ん所乗り込んでなますに斬り刻んじまえよ。』

『ほら、じきに家が見える。帰ってくるなりサムライソードを手に取って―――』



「黙れ!黙れ黙れ黙れ黙れ!!」



 もうひとりの「自分」が望むのは、表のしがらみからの解放だけでは無かった。裏の掟からも逸脱しようと誘惑を仕掛けてきた。何物にも縛られず、思うように生き、斬りたいように斬る無法の存在。それこそが「自分」の求める究極の姿だと知る。しかしそのようなもの、人の世に在りてはいけない存在だ。


 モリサン姉妹を救うためのたった一度の過ちだとしても、この誘惑に負ければ坂を転げるかのようにかような存在に堕落することだろう。WORKMANの仲間たちからは掟破りと命を狙われ、表の世界には戻ることも出来ず、裏の世界で血河に塗れ生きていく。「自分」の望むところであるが、マシューにとっては勘弁願いたい余生だ。


 しかし、その覚悟が無くばモリサン姉妹を救えないのもまた事実。表と裏、束縛と解放、今と未来、いくつもの要素が天秤に乗せられ揺れ動き、マシューを苛んだ。


(くそっ!結局俺も組織に飼われた犬だってのかよ…!)


 などと考えているうちに、いよいよ自宅の玄関が目の前に迫っている。ふと見ればその脇には、何かの暗喩めいた野良犬が一匹、首に手荷物を抱えながら鎮座ましましていた。






 午後五時、ザカール州北部連山に構える監獄塔。ここには州内で罪を犯した者でも、特に重い者が送られる施設だ。外界から隔離された立地、補整されていない岩肌まみれの山道、旧時代の魔物が潜んでいそうな鬱蒼とした森。それら監獄を取り巻く雰囲気は正に大罪人が終焉を迎えるに相応しき禍々しさを湛えている。無論、極悪非道の海賊団の頭領ゴーガンもここに収監されていた。


「…今、何と仰いましたか?」

「ではもう一度単調直入に言いましょう。『ゴーガンを釈放してください』」


 そんな辺鄙な場所に突然の来客。応対に当たった看守はその突拍子も無い言い分に思わず聞き返してしまった。しかし看守の困惑とは対照的に、ある意味でこの場に相応しくなく、ある意味でこの上なく相応しいその客人は涼しい顔で復唱する。


「冗談はやめてくださいよ。誰があんな極悪人を解き放ちますかって。」

「看守殿は麓の州都で今起きている事件はご存知で?」

「いや。場所柄街の情報なんて一日遅れでも早いくらいですから。」

「ならば一から順を追って説明しましょう。今、ゴーガン海賊団の残党がネルボー食堂で立てこもり事件を起こしています。要求はゴーガンの解放。期限は今夜八時まで。さもなくば人質に囚われた女性たちの命は無い、とのことです。」


 客人の男が語るショッキングな事件。にわかには信じがたいが事実なら事だ。内情も知らず、かつ人情家のその看守は人質の命を助けねばと奮い立つ。しかし同時に、解放を要求される男がいかな男かも重々承知している。檻に繋いでおくべきあの悪党を果たして解き放って良いものか、自分の一存でそれを決めていいのか、腕を組み悩む。


「これはゴーガンを捕らえた一連の責任者、第六近衛師団長ミルトン殿からの命でもあります。責任は自分が取る、とも仰っていました。誓約書もこの通り。」


 結局、看守は男の言葉と差し出した誓約書を信じた。人質の命には代えられないし、何より責任を別の誰かが被ってくれるなら、迷う余地は無かった。鍵を手に取り、客人を監獄内へと案内する。




「しかしあんな極悪人の護送に、あなた方だけでは心もとないんじゃないですかね?」

「むしろ私だけだから良いのですよ。物々しい警備が付けば相手も警戒して事を起こすかもしれない。それとは逆に、聖職者の私がひとりで送るのなら奴らも無茶はしないだろう、という団長殿の判断でして。」


 小柄な従者をふたり従えた丘の上の教会の神父は、例によって貼り付いたような笑顔で看守の不安事に答えるのだった。

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