其の二

「ジーニー、すまないが僕らの未来の為に、500万ギャラッドほど貸してくれないか…?」



 愛の言葉の最中に飛び出した金の無心。無粋なこと極まり無く、あるいは百年の恋も冷めかねないひと言である。しかしジーニーの惚れ込みっぷりはこの程度では折れなかった。一転して沈痛な面持ちと化したライナスに向かって本気で心配の言葉をかける。


「ああ、すまない。こんなこと頼めるような人間が君ぐらいしかいなかったから、つい…いいんだ、忘れてくれ…」


 しかしいくら問い詰めてもライナスは言葉を濁すだけだった。こういう態度を取られると逆に気になってしまうというのが人情である。ジーニーは男の手を取り、真剣な眼差しで問い詰めた。


「水臭いですよライナスさん。私達もうすぐ夫婦になるんじゃないですか。『夫婦に隠し事があってはいけない』これ我が家の家訓です。」

「そうか…そうだよね。君に情けないところを見られたくないと思っていたけど、隠している方がよっぽど君に対して失礼だったってわけだ。わかったよ。」


 ジーニーの優しさに打たれたのか、ライナスは500万ギャラッドという大金が何に必要なのかをとうとうと語り始めた。


「平たく言ってしまえば商人ギルドへの上納金だよ。」


「おかしいじゃないですか!もう上納金を払ったからこそ今ああやって出店準備ができているんでしょ?」

「その通り、一度上納金は払ってる。でも今になってギルドの連中が追加料金を請求してきたんだ。出せなければ出店を全て白紙に戻すとも。」

「何でそんなことを…」

「僕がエルフだからだろうね。人間でない者が景気の良い仕事をすることを快く思わないんだろう。君のような素晴らしい女性がいるからこそ人間全員が悪いと思わないで済んでいるけれど、『五民平等』なんて所詮夢物語でしか無いんだなあ…」


 言われればそういう事態が起こりうる可能性には心当たりがある。人間の意識などそう簡単には変わらない、こと長く染み付いた慣習となればなおさらだ。そんな理不尽な差別に遭ったと語る男は両手で顔を塞ぎうなだれていた。


 慕情に義憤、ジーニーはなんとかして婚約者の力になってあげたいと思った。しかし500万ギャラッドという大金を、町の八百屋の娘が用意するとなれば大変なことである。いくら結婚とその後の生活に係る事件だとしても、だ。しばしの熟考の後


「わかりました。私が500万を立て替えましょう!でも流石に今日明日に工面できるような額ではないので一週間待っててください。」


と彼の頼みを聞き入れた。


「本当かい!?ありがとう!!」


 ライナスはそれまでの悲痛な面持ちから一点、ぱあっと明るい笑顔を見せ婚約者を抱きしめた。お金を工面する手立てなどまるで無い、いきあたりばったりの安請合いだったが、この抱擁だけでもお釣りが来るほどの幸福感をジーニーは味わっていた。ついでにその後の展開を期待してつい体が疼く。しかし男から返ってきた返答は


「ダメだよ。結婚するまでお互い清い体でいようって決めてたじゃないか。」


 というつれないものだった。そのまま彼女を引き離し、今宵の逢瀬は実にあっさりと終了した。ジーニーは行き場のない欲求で身悶えている。


「ああんもう、やめてはなりませぬぅ~」


―――あるいはこの時、家路につく男が一瞬見せた彼らしからぬ邪悪な笑みを見逃さなかれば、後の運命は変わったのかもしれない…





 その邪悪な笑みをたたえたままライナスが帰宅した。出迎えるのは使用人ではなく二人の獣人。ひとりは狼が直立したかのような獣人・ウェアウルフ。もうひとりは豚のような面相に巨躯を誇る獣人・オーク。そして二人共今日びではあまり見かけない傭兵めいた風体。およそ彼の本業であるはずの服飾に関係があるようには見えなかった。


「おう大将、首尾はどうだった?」

「上々よ。アテも無いくせに一週間で用意するとか言い出してな、健気なもんよ。」


 ウェアウルフからの問いかけに、ライナスはより邪悪な顔をしながら鼻で笑った。そのままソファーに大股開きで座り、葡萄酒を瓶のままラッパ飲みする。


「全く毎度のことながらちょろいもんだ。この顔とあのドレスがありゃどんな女も夢見やがる。少し考えりゃおかしいってわかりそうなものを、結婚に釣られて前が見えねえんだろうな。」


 更に膝を叩きながらゲラゲラ笑う。秀麗な見た目からは想像もできない粗野な振る舞い、しかしそれは結婚詐欺師という彼の本性を単に現したものなのかもしれない。


「しかし毎度のことながら何であんな庶民の女ばかり狙うんだ?お前さんほどの実力なら大店の娘でも狙ってもっと金を引き出させることもできるだろうに。」

「大店の娘を相手にするのなんざこの仕事をやり始めた頃にやり尽くしたわ。今は貧乏人の娘に無茶を言う方が楽しくてな。なけなしの金と結婚を秤にかけて悩む顔、そしてそれが全部無駄だと知った時の絶望の顔を見た時、ああ、人間を虐げていると実感できるんだよ…ククク…」


 いよいよもってその顔が狂気に歪む。話を振ったウェアウルフの男も若干引いている。それはあまりにも理解しがたい心の闇、人間への憎悪を感じさせるものだった。


「ま、まあクライアントの趣味にとやかく言う気はねえよ。俺らはちゃんと貰えるもん貰えればそれでいいからな。」

「ああ、そのためにはちゃんと働いてくれよ。今回の女も特に気丈そうだ。逆上して刺しに来るなんてことがあった時は…」

「ああ、そのために雇われてるんだ、わかってるさ。消すんだろ。」

「そ、そん時はもちろんオデらがおこぼれに預かってもいいんだろ?この前のルザックの女、あ、あではよがったなぁ~ぐふふ。」


 怜悧な表情を見せるウェアウルフの横で、会話に割り込んできたオークの男がだらしのない顔を晒した。二人の表情から察するに「消す」も「おこぼれに預かる」という意味も察しがつくところであろう。にしてもオークの男の助平に過ぎる顔は場の空気を壊してあまりあるものだった。


「…お前の相方も十分いい趣味してるよ。」


 完全に酔いの覚めたライナスがウェアウルフの男に言った。





 翌朝、変わらず開店準備でせわしなく人の出入りするライナスの店の前、幾人もの女性たちが集まっていた。彼女らが眺めるのは憧れの的、純白のウエディングドレス。未婚の女性たちが羨望の眼差しを向ける中、ただ一人悲しげな瞳でそれを見つめるものがいた。そのドレスの真白さとは逆の、黒ずくめに黒い肌の女性。


「どうしましたリュキア、こんなところで?」


 背後から神父が呼び止めた。朝の巡礼の帰りだろう。彼はリュキアが他の女性達のようにそういったものに憧れているような人物ではないと認識している。それだけに今の状況は不思議なものに写っただろう。


「………悲しい血の色。」


 リュキアはどういうわけかかの白いドレスを血の色と評する。事を察した神父は近いうちに「仕事」が入ることを予感せずに入られなかった。





 同じ頃、買い出しに出ていたフィアラは目を白黒させていた。そこにいるはずのない人間がいたからだ。いや厳密にはいてもおかしくないと言うかいるべき人間なのだが。まあつまるところ、昨日あれほど婚約者にべったりだったジーニーが今日は実家の八百屋で働いていたのだ。しかもいつものように無駄にバイタリティ溢れる姿ではなく、随分とやつれた表情で。


「あれ?ジーニー、どうしたの?今日は彼の店の手伝いに行かないの?」

「あっ!いやっ!その、今日はちょっとね…別に別れたとかそういうんじゃないから!本当に!」


 友人からの疑問にジーニーは言葉を濁した。昨夜あそこまで断言した手前金の用意もできないままに彼に会うことなど出来ない。かといって額も額である、親に頼むことも容易ではなく未だに話すらしていない。無論友人にも話せることではない。あるいはフィアラが仕える貴族がもっと上流なら少しは望みも持てたかもしれないが、残念なことにベルモンド家は州衛士に身をやつしたお家である。そんなジーニーの内情など知る由もなかったが、フィアラも空気を読み深くは追求せずじゃがいもと人参だけ買って帰るのだった。


 帰り道、フィアラは八百屋から三軒向こう隣の路地に座っていた老婆に声をかけられた。面識などは無い、むしろお知り合いになど到底なりたくないような乞食めいた格好の老婆。マシューがここにいればピンときたのかもしれないが、彼女には物陰から殺気を飛ばす人間を察知する能力はない。まるで知らない不気味な老婆が突然話しかけてきたことにフィアラはぞくっとする。


「嬢ちゃんはあの八百屋の娘の知り合いかえ?」

「え、ええ…まあ。」

「あそこの娘は確か今度できる服屋の婚約者だったろう?今日は向こうに行かんのかえ?」

「み、みたいですね。詳しいことは知りませんが…」

「ああそうかいそうかい。それだけわかれば十分じゃよ。驚かせてすまんかったねぇ。」

「い、いえ、そんな…」


 フィアラは恐る恐る老婆の質問に答えた。彼女からジーニーのことについて聞き出した老婆はそのまま路地を東に上っていくのだった。





 所は再びライナスの洋服店。老婆は先日同様、店が見える曲がり角に来ていた。建物の影に身を隠し恨みがましい視線を送り、たまにウエディングドレスを見つめては悲しそうな顔をする。まるで生き別れの我が子を見るような瞳。しかしそのみすぼらしい格好とは釣り合いの取れぬ美しいドレスとの間にいかな関係があるのか窺い知ることは出来ない。彼女が見張りだして30分ほど経った頃、ライナスが店の中から出てきた。老婆は彼を睨みつけ駆け出そうとする。その長い袖口からはぎらり、とよく研いだ刃物の輝きが覗く。


「なるほど、狙いは誰でもねェ店主だったってわけか。」


 ふと、背後から声が聞こえ動きが止まる。振り返るとひとりの小柄な州衛士が腕組みしながらこちらを見ていた。老婆は慌てて刃物を袖に隠し作り笑いをする。


「これはこれはお役人様、どうかなされましたか?」

「別にシラを切る必要はねェぜ。俺だって別にしょっぴこうなんて気はさらさら無いしな。」


 本来なら屯所まで引っ張って口を割らせるところだろうに、手柄がいらないとは妙な州衛士もいたものである。あまりに型にはまらないパターンを前に、老婆は別の意味で警戒し眉を顰める。


「随分と無欲な州衛士さまもいたもんだねぇ…」

「まあな。こっちとしてはあまり手柄立てたりして目立つのはノーサンキューだからな。使用人どもは賞与賞与と五月蝿ェが。とはいえ手前ェの管轄で刃傷沙汰ってのも面白くねェからな、暫く見張らせておわろうかな、と。」


 そう言うとマシューは壁にもたれながら老婆を監視していた。先程もまるで気配を見せずに背後を取った男である、隙を突いてライナスを刺しに行くことなど出来そうにないと老婆は思った。と同時に明らかに彼の者がカタギではないということも感じていた。マシューも同様に老婆の目的はまだわからない。お互い腹の探り合い。ライナスは既に店の中へ引っ込んでいた。



「婆さん、出身はどこだい?」


 長い沈黙をついて先に探りを入れたのはマシューだった。


「…ヴァルハ州さ。」

「へえ、随分と北の方からご苦労なこったねェ。」

「なんのことはないよ。あの男を殺すためならね。」


 老母の表情が更に強張る。動機というか彼女のライナスに対する何かしら恨みの根の深さは見て分かるとおりで最早聞く気もなかったが、ここまであっさりと、直接的に「殺す」と言うとは。マシューとしてはそれだけに見逃せないところがあった。


「じゃあヴァルハのほうにはこんな噂は無かったか?尽きせぬ恨みを晴らしてくれる集団のお話とか。」

「いやぁ、無かったねぇ。」

「こっちにはそういう噂があってだなァ、丘の上の教会の懺悔室で恨み言と金子を置いていけば何者かが晴らしてくれるっつって。なあ婆さん、復讐はいけないなんて月並みなこと言う気はねェけどよ、齢なんだし手前で殺る必要なんか…」

「はっ、噂なんて不確かなもんに頼るほどアタシは老いとりゃせんよ!第一真実だったとしても、これだけはどうしても自分の手で成し遂げなきゃならんのだ…まあ、いよいよとなったら縋ってやらんでもないがね。」


 老婆の視線はウエディングドレスに向いていた。怒りに混じって悲しみと郷愁の視線。あくまで自分の手で決着を付けんと決心する彼女の過去とその闇の深さは計り知れない。復讐など自分たちに任せておけばいい、泥をかぶるのは自分たちだけでいい、そう考えていた経歴三年の若き暗殺者にとってこの老婆のような存在は初めてだった。


(世ン中まだまだわからねェ事だらけだ…)


 結局その日、ライナスが店の外にでることは無く、店のほうの動きが止まると同時にマシューと老婆もそれぞれ去っていった。





 翌日、その日はマシューのほうが先に来ていた。老婆は呆れた顔をしながらいつもどおりの位置に付き、マシューはその背後について見張る。


「こうも連日で来るとは、あんたも暇なお役人さんだねぇ。」

「まあ実際暇みてェなもんだ、見回り程度の仕事なんざよ」



「へえ、そんなにお暇ですか州衛士のお仕事は?」



 マシューのさらに後ろから声が飛んできた。毎日のように聞き慣れた怒声、しかしこの場にはありえるはずのない人間の声。恐る恐る振り返ると、そこには引きつった笑顔で青筋を浮かべたツインテールのメイドの姿があった。


「まったくなにサボってるんですか主様!!ただでさえ手柄もなくて首切り一歩手前だっていうのに見回り程度さえできないと知れたらホントにおしまいなんですよわかってるんですか!?州衛士が世襲といっても限度ってものもあるんですよ!?輝世暦以前から続いたベルモンドのお家を潰す気ですかあなたは!!だいたい主様の日頃の生活態度は―――」


 堰を切ったかのような怒涛のお説教がマシューに襲いかかる。家の中ならいつものことでも外でこうなることはあまりない。この突然なシュチュエーションにはさしものマシューも混乱を隠せなかった。


「ちょっ…ちょっと待てフィアラ!サボリについては反省する!深く反省する!だがそもそもどうしてお前がここにいる!?」

「善良な市民からの通報ですよ!お買い物に行ったら『あなたのところの主がライナスさんの店の前でたむろしてる』って教えてくれるおばあさんがいて…」

「…おばあさん?!」

「ええ、丁度そこにいるおばあ…あれ?いない?」



―――しまった。やられた。



 気が付くと見張っていたはずの老婆が消えていた。おそらく行き掛けにフィアラにサボりだ何だと忠告したのは彼女だ。二人の関係については一昨日ここで見ていて察したのだろう。案の定怒ったフィアラはマシューを詰問、そしてこの隙が生まれたのだ。


「やりやがったなあの婆さん!」

「え?!どうしたんですか主様?」


 マシューはライナスの店に向けて駈け出した。突然の主のアクションに、責めていたはずのフィアラも面食らい、思わず後ろをついていく。


「おうそこの!店主はどこに行ったか知らねェか?」

「え?たぶん裏手の方に行ったんじゃないですかね?」

「一人でか?」

「まあ、多分。」


 店の前にいた下働きを問い詰める。人気のない裏手に標的がひとり。まさにあの老婆にうってつけのシュチュエーションであろう。一刻の猶予もない、急いで店の裏手へと入っていく。



 店の裏ではライナスがタバコをふかしていた。美しい顔にも微妙に気の緩みが見える。


 瞬間、その緩みを突くかのように、白刃を構えた老婆が矢のように飛んでいった。


三歩ほど手前あたりでようやく殺意に気付き驚くライナス。

まさに決定的状況。しかしその刃は標的に届くことは無かった。

素早く間に入った用心棒のウェアウルフが、刃物を持った老婆の手をその鋭い爪で斬りつけたのだ。

思わず刃物を落とし慄く老婆。

そしてうずくまる老婆をめがけて、もうひとりの用心棒であるオークが体当たりをかける。

枯れ木のような老婆の体は巨大な肉弾を受け、したたかに壁に叩きつけられた。

手と口から血を吹き出しながら、老婆はぐったりと倒れた。



―――これが、駆けつけたマシューとフィアラが目の当たりにした一部始終である。



「きゃああああああああああああああ!!!」



 混沌とした凄惨な現場にフィアラは絶叫した。その声に反応してウェアウルフの男が彼女めがけて詰めを伸ばす。目撃者は消す―――そんな裏の世界に生きる男の本能が反射的に発現したのだ。


 しかし老婆の時とは違い、その爪が目撃者に届くことはなかった。隣にいた男に手首を木の棒で打ち据えたれていたのだ。


(この男、なんて疾さ…!?)


 ブロードソードどころかサムライソードよりも軽い、そのへんに落ちていた木の棒である。マシューの「仕事」での実力を考えれば当然である。しかし見るからにただの州衛士、それが俊敏さに定評のあるウェアウルフを超える疾さで動いたという事実は周囲の者にまた別の衝撃を与えた。


「えっ、えっとですね州衛士さま!これはですね決して…」

「ああ見りゃわかる。正当防衛だろう?しかしまあまさかアンタにこんな物騒なボディーガードがついてるたァな。」


 慌てふためくライナスにマシューは静かに答えた。過剰防衛気味ではあるとはいえ彼の言うとおりであり、ライナスに取り繕う必要はない。しかし彼の裏の本性が疑心暗鬼を生みしどろもどろになってしまっていた。


「じゃあこの婆さんの件はこっちのほうで処理させてもらうから、アンタらは開店準備に戻ってくれや。」


 語るに落ちた悪党を尻目に、マシューは老婆を抱えその場を後にした。





「あの…主様…?」


 主の後をつけて歩くフィアラが、らしくないほど弱々しい声で呼びかけた。勝ち気な性格とはいえ平穏な世界に生きる少女である、かような状況を目撃したショックは計り知れまい。加えてマシューの変容である。いつもは小馬鹿にしている弱々しい主が見せた凄みと強さ。まるで世の中の常識がまるっと裏返ったかのような感覚を味わっていた。


「まあこういう仕事してりゃこんなこともあるさ。だからあんまり俺、じゃなくて私のすることに首突っ込むんじゃないぞ。」

「はい…」

「じゃあこっから先は私一人でやるべき仕事だ。お前は先に帰ってなさい。その代わりおいしい晩飯を頼む。」


 フィアラを帰したマシューは、老婆を背負い街道を歩く。その足は病院ではなく、丘の上の教会に向かっていた。


「う…うう…」

「ああ、気付いたか婆さん。見事なまでに返り討ちだったな。」


 背後からようやく聞こえたうめき声にマシューは早速悪態をつく。


「ああ…いいんだよこれで…アタシは自分の罪も清算せにゃならん。どの道生き長らえるつもりなんて毛頭無かったんだからさ…」

「自分の罪ねェ…」


 その罪が何であるかはマシューに窺い知ることはできない。しかし先ほどでの老婆とはまるで違う安らかな声からは、長年にわたる重荷をようやく整理できた安堵を感じさせる。


「アンタがひとりごちたところで、奴さんはまだ生きてる。」

「そうさねぇ…それだけは未練だわい……まさか本当にいよいよの時になっちまうとはねぇ…」


 マシューは首筋に水滴が垂れるのを感じた。上空には嫌味なほどに真っ青な空が広がっている。


「…お願いできるかね、お若いの」

「元よりそのつもりさ。」



 マシューの足は、既に丘の道に差し掛かっていた。


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