第354話 《うつうつ歳末特集》その1 『交響曲第9番ニ短調作品125』 ベートーヴェン
どういうことやら、年に一度の歳末がやってきております。
日本の歳末といえば、『第9交響曲』と、相場が決まっています。
もちろん、この作品が、特別な意味を持つ、記念碑的な、きわめて貴重な作品だという認識は、本家のドイツなど欧米諸国でも変わらない、と、いいますか、遥かにその意識が高い、ようであります。
みだりに、軽々しく演奏するべきではない、というご意見もあるやに聞きます。
つまり、大変に気高く、奥の深い、意義の高い音楽作品であると認識されているのでありましょう。
興行的にも、ここには、フル・オーケストラ、合唱団、四人のすぐれた独唱者、そうして、なんといっても、優れた指揮者が必要であり、大きな会場も必要であり、準備にも公演にも、なかなか費用もかさむので、けっこう、おおごとなのです。
ところが、なぜか、日本においては、年末に国内各地で計画され、演奏されます。
多くの場合、その主役は、アマチュアの合唱団であります。
彼らは(やましんも、そのうち。)、自費で参加し、練習の交通費や諸経費も自費。
もちろん、ギャラはなし。
おまけに、お客様の大量動員も受け持ちます。
最近、一時のピークは過ぎたようにも感じますが、それは、やましんが参加するのを辞めてしまった(体力的にも、もう無理なので・・・)からかもしれません。
なぜ、この、にほんで、『第9交響曲』が、年末の恒例行事になったのかは、さまざまな説やご意見がありましょう。
この国内における『第9』演奏の歴史に関しては、かつて鈴木淑弘さまによる解説を拝見したのであります。(当時、ある市役所の課長様でいらっしゃたようですが、詳しくは存じません。)平凡社 昭和62年 別冊太陽)
そこを参考にいたしますと、最近、たしか、ブラタモリだったかな、でも紹介されていたのですが、第1次世界大戦に、いささか無理やり参戦した感もある日本ですが、4500名を超えるドイツ人捕虜を国内に収容したのだそうであります。
このとき、徳島県の当時の坂東町にあった収容所には、1000人を超える方が収容されたそうですが、会津藩出身の所長さまの方針で、博愛主義が貫かれていたのだそうでありますが、収容所内には、二つのオケがあり、さらに吹奏楽団二つ、マンドリン楽団、合唱団が二つとあり、さかんに演奏会を行っていたのだそうであります。
その行事のひとつとして、1918年、大正7年6月1日に、日本初の、『第9交響曲』の演奏が実施されたのであります。
指揮者は、ヘルマン・ハンゼン氏、
独唱者は4人とも男性らしいとか。
実際、合唱団のソプラノの音域でさえも、(テナーもそうなんですがね・・)人間業の限界というほどの高音があり、リズムも複雑で、二重フーガの部分など、平気な顔して歌える方がどうかしてるくらいに、じつは難しい。
完璧に歌うなんて、そもそも、考えないほうが正しい曲ですね。
ベー先生は、歌う人の都合なんか、またく、考えてないようです。
つまり合唱の方も、実際、かなり難しいのですが、ソリストの方は、もっと難しい。
どうやって、男性のソリストが、歌ったのか、きわめて興味深いですな。
録音がないのは、いかにも残念です。
しかし、これが、年末恒例の『第9』に直接つながってるとは思えません。
やがて、第2次世界大戦。
あの『小雨けぶる』(なんだか、ちいさいころから、そういうフレーズで、聞いて来たので・・・)神宮外苑での、1943年10月21日、学徒出陣のセレモニーは、まだ、やましんが生まれる前ではありますが、考えてみれば、そう、大昔じゃないのです。
で、さきの、鈴木氏の記事を見ますと、学生たちは、さまざまな壮行会をやったようなのですが、その中に、『第9交響曲』の演奏会もあったというのであります。(想像するにも、おそろしき状況ですよね。)
12月には入営するので、それが行われたのは、昭和18年の12月初旬だったのだそうであります。
しかし、これが、『第9』の12月開催の原点であったのか?
どうも、それほど、簡単ではないようです。
終戦後、『日響』(N響の前身)は、終戦(日本が言う終戦、8月15日)一か月後には、すでに演奏会を開始しました。
以前、日本フルート界の大御所、吉田雅夫さまが、このことについて、外国の方から『敗戦後すぐにオケの演奏会が出来るとは、日本人恐るべし。」みたいに言われたんだというような意味のお話を、どこかでなさっていたか、書いていらっしゃったか、のように思いますが、実際、焼け跡の中で、この演奏会の実行をした方々は、大変だったでしょう。
『日響』戦後初の『第9』演奏会は、昭和21年6月。指揮は、ローゼンシュトックさま。
つぎが、22年12月に、レオニード・クロイツアーさまの指揮で、3回実施されたのだそうです。
どうやら、これが、暮れの『第9』の始まり当たりだったのではないか、と。
それは、楽団員の、年越し資金の調達の意味が大きかったとも言われます。
しかし、これは、プロによる演奏会の流れでありまして、NHK交響楽団の第9演奏会は、今も続いておりまして、国内最高の、ハイレベルな演奏を、聴かせていただけるわけです。
やましんみたいな、お外に出るのが苦手な人も、テレビやラジオで、聴くことができるのです。
ところが、こいつは、首都東京における恒例行事であり、どうも、各地方における、『年末第9』に直結してるのではなさそうです。
なので、ここから、昭和40年代以降に大爆発的流行をする『年末第9』の波までには、まだまだ、様々な複雑な活動や、流れ、思想的な、また庶民の個人意識の台頭などの社会的背景、地方の町おこし活動やら、中小オケの団員さまや、歌手の方の年末収入増加支援活動、などなど、様々なものが、あったのでありましょう。
で、やましん、もう、くたくたでもありまして、この先は、ご自分で、お読みいただくなり調べてみて、ください。(なんと、なげやりな! ま、実は、非常に複雑な事情があるので、とても、まとめるのは無理なようでして、ちょと、逃げたのでもありますが・・・)
そこで、最後に、やましんが思う事を。
この曲については、『絶滅音楽詩篇集』で、『第9』は、まさに最高の『絶滅音楽』である、みたいに書きましたが、まあ、あれはそうした、つまり、地球最後の夜の演奏会にふさわしいのは何の曲か? と、いうことを、あえて考える企画だったからであります。
やましんは、結局のところ、あの、しちゅえ―しょんならば、この曲と、シベリウス先生の『タピオラ』が、上位2曲だろうと、考えております。
ときに、『第9交響曲』の中で、一番注目されやすい、また、多くの方が聞きたい、『声楽』が占める部分は、第4楽章の、ごくわずかです。
それ以外は、管弦楽のみによる『絶対音楽』です。
第4楽章も、大分行かないと、声楽は出て来ない。
しかも、さらに、中間部には、壮大なオケだけによる、行進曲部分があります。(素晴らしい部分です。)
じりじりと、待たせた挙句、バス・バリトンのソロが、鷹揚に歌い始めるのです。
しかも、『おお、ともよ、こんなもんじゃ、ないんだ、もっと、すんばらしいものを、歌おうじゃないか!』(これは、シラーさまではなくて、ベー先生のメッセージのようです。)ときます。
まてまて、延々と続いてきた、第3楽章までは、じゃあ、なんだったの?
だからなのか、ベー先生ご自身、前3つの楽章と、第4楽章との整合性を図るのに、大変苦労したらしいのは、結果をみて、聞いて、しろとが思うにも、なんだか、ほんとに、『ベー先生、大変だったんだなあ』、と、思わざるを得ないのです。
現在でも、『第4楽章』だけが、いささか、ぶっとんでる、すくなくとも、とっぴだ、と感じる方は多いようですし、いやいや、これこそが、すばらしいじゃないか!、と、全面的に肯定される方も多いわけですが、この『苦労』しているという姿そのものが、実は、大事だと、考えるべきじゃないのかしら?
と、思ってよい気が、いたします。
今の社会は、結果がすべてで、やましんも、よく上司から、そう言われました。
目に見える結果(数字)こそすべてである。
結果が良いと言う事は、過程も良かった、ということだろう。
お~~~~!
うううん~~~~~~~~~~~~?
そりゃ、そもそも、科学的考え方かい?
改ざんを生む、背景もそこにあったのでは?
ま、仕事は、科学じゃなかったから、仕方ないか。
じゃあ、失敗に終わった、やましんの、社会(職業)生活は、全部、意味なし?
成功できなかったひとは、みな、意味がない存在なの?
まあ、そうなんだけどね〰️〰️、
と、返ってきそうですな。
実のところ、シラーさまが書いた『歓喜の歌』の詩は、非常に多様な解釈を生みそうです。
『ひとは皆、きょうだいだ。』
・・・・どこかで、聞いたような・・・・・
『抱き合おう、千万の人よ』
『この、キスを全世界に。きょうだいよ、あの星空の上に、ひとりの父は住んでいるのだ。』
『・・・この世に生まれ、ただひとりの心をも自分のものと呼べたのならば、列に入って、歓喜のこえをあげよ。そうでないものは、さがって、ゆびをくわえているがよい。』 (ちなみに、ベー先生は、結婚できなかた。いや、そういう下世話な事じゃあないのか? もっと、高尚なことなのか? 職場から、戦力外通告されたようなやましんなどは、じゃあ、なんなのか? あ、しつこいのは、きらわれるよ!)
『ひざまずくのか、きみたちは?』(このあたりから、非常に神秘的な音楽になりますな。)
『世界よ、きみは、造物主を予感するのか。星空の上に、彼を求めよ。』
『星々の上に、かれは、住む。』
考えようによっては、地球上の権力などは、否定している、とも、言えそう。
『二重フーガ』の部分では、『女声』が、れいの『フロイデ シェーネル ゲッテル フンケン トホテル アウス エルリジウム(「いやあ。へったくそで、すいません。)
『男声』は、『ザイト ウム シュルンゲン ミリオーネン』と叫びます。
管弦楽も、複雑に絡み合う、この楽章の核心部です。
ときに、ちなにみに、ドイツ語の発音から学ぶのは、ちょと大事だあ~~~、というかたむけには、名高い(悪名高い?)ごろあわせがあります。
『風呂入出(フロイデ)、シィェー(詩ヘ)寝る 月輝(げってる)粉健(ふんけん)なんだ、そりゃ?・・・・・・』
というのですな。(いくらか地域差があるかも・・・)
『これだけは、絶対、やだ』、という方もありますし、『聞いてるほうがわかるなら、いいじゃないか、べつに』という、かたもあります。
やましんなどは、この、ごろあわせのほうが、よっぽど難しいと思いますが・・・。
ま、そうしたことも、このものすごい曲が、日本で大爆発した背景にはありましたし、むしろ、それこそ、ベー先生の意図に、より近いのかもしれません。
この作品は、当時の貴族政封建社会をひっくり返そうという、ベー先生の意図があったには違いなく、そのための、大衆的な戦略でも、あったのかもしれません。
そうして、200年を超えて、その意図は、様々に解釈され、異なる政治体制の国の中でも、それぞれが、それぞれの解釈でもって、演奏され続けて来ました。
最後のフィナーレの部分は、そうしたすべてを巻き込んで、有無を言わさぬ感動を、常に創造してしまいます。
それが、すごいのです。
体制を握る指導者の意図がどこにあるにせよ、最後は、それを超越して、恐るべき終結に、なだれ込むに至るのであります。
もう、だれも、止められない。
何と言っても、このような、壮絶な終結部は、後にも先にも、ちょっと見当たりません。
とはいえ、この演奏の仕方も、また、さまざまです。
戦後、バイロイトでの、名高い、フルトヴェングラーさまの復活指揮による、ライヴの終結は、まねしたくても、どうも、そうはゆかないものであるらしく、あれ以上のテンポのものは、(演奏自体は、もう、崩壊してますし。)あの時だけしか不可能なものであったらしく、二度とは、出て来ないようです。(やっても、ざーとらしいだけでしょう。)
最後、嵐か、風、のごとく吹き抜けるのが通常ですが、あえて、最後だけテンポを落とすと言う、荒業をやってのけた方もいらっしゃいます。
これも、なかなか、同じことは、やりにくいでしょう。
それでも、普通にやっても、いやでも、盛り上がってしまうのです。
歌う方も、もう、平気でなんか、やってらんないです。
とくに、アマチュアの場合は、狂喜(狂気)以外に、ここをやてのけるよい方法は、結局のところ、ありません。
やましん、『第9』は、もうむり、という所以です。
生きて終われないですよ!
********** だい【大 👄 👄 👄 苦】く **********
追加
久しぶりに、シャルル・ミュンシュさま指揮の録音を聞きました。
これは、有名な録音ではありますが、やぱり、良いなあ。
しゃきしゃきと進みますし、合唱も、音を短く切りぎみに歌うのが楽しいですし、ソリストが上手いです。
さすがに、音はちょっと古くはなてますが、それはそれで良いなあ。
ミュンシュ先生、根性すごい!⤴️⤴️
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