第38話 『交響曲第40番ト短調』 モーツアルト

 やましんにとって、今なお謎に満ちた音楽であります。

 中学生時代から50年にもわたって聞いてきましたけれど、いまだに深い霧の中から出て来てくれません。


 いったいこれは、何者なのか?


 まあ、相性が良くないのだろう?

 と言ってかたずけてしまえば、それでおしまいなのですが、そこはやはり非常に気になるのです。

 ほってはおけない音楽なのです。

 日本人にとっては、小林秀雄様の論文(?)以来、特別な地位にある音楽です。


 でも、どんなに名高くても、音楽の受け入れは個人においてしかあり得ないのですから、本人が納得できないものはどうにもなりません。


 出だしの有名なテーマですが、これがまず問題です。

 やましんには、これがひどく(言葉はとてもよくないのですが)俗っぽく聞こえるのです。

 古典派交響曲の最高峰であるはずのこの冒頭がです。

 実際もう一つ前のいわゆる第39番と、一つあとの第41番(ジュピターと呼ばれますが)の冒頭は、実に感動的に格調高いものです。

 にも、かかわらず、このやや愁いを帯びた不可思議な音階は、どうもすっきりきません。


 そこで、現状思っていることは、この音楽はすでに古典派時代もロマン派時代も通り過ぎて、ほぼ現代音楽の領域に達しているのではないか?

 つまり、現代のポピュラー音楽の形態にぐっと近いのではないか?

 半音階の扱い方やら、ハーモニーの在り方や、そうしたものが少なくとも20世紀後半のポピュラー音楽(つまりやましんの同世代)にあまりに接近しているのではないだろうか、と。


 そこで、考えると言うよりも、感覚的にポピュラー音楽的に聞こえてしまうのではないか?

 だって、なんとなく『ブルーシャトー』みたいな感じがしますでしょう?

 そりゃあ、モー先生が先だろう、と言われても、結果的には同じですものね。


 クラシック音楽業界においては、交響曲などの長い音楽も、あえて5分に短縮したり、さわりだけ収録してCDにする事業の方が、わりと収益につながるらしきお話しも聞いたりします。


 あえていますと、やましんは、そうした短縮CDも大好きであります。

 また、それで楽しんでしまったって、べつにいいじゃん、とも思います。

 他人がごたごた言う問題ではございません。


 ただ、例えばモー先生のこの曲でも、ポピュラー音楽との違いが出てくるのは、音楽が展開部に入って以降です。そこから先は、ぐっと音楽自体が深くなってゆきます。

 まあ、トンネルから出て、本格的な『旅』になってくる感じです。


 でも、そうは考えてみても、この交響曲はまだ『謎』です。


 どうやら、その実体は、この世のものではないのかもしれません。

 

 


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