第36話 『交響曲第6番・第7番・タピオラ』 シベリウス

 『この世の中で、やましんがもっとも尊敬し、愛し、大切に思っている音楽です。』


 そうして、言葉にすることを絶対的に拒否されている音楽たちです。(と、いいながら、タピオラはすでに『絶滅…』で、第6交響曲は『第六交響曲』で書いたのですが、どちらも下駄とぞうりを片方ずつにして履いたような感じで、うまくいってないのです。)


 それでも、もし、今夜お風呂でやましんが絶滅したら、この事実も消えてしまう(世の中では意味のないことですが・・・)のではないかと、あさはかな危機感だけが募りまして、ただこの『******』内の事だけを残したいと、衝動的に書いてしまっているという訳なのです。


 最も大切な事を、言葉にすると言うことは、非常に難しい気がいたします。

 そのためには、最高の言葉で語らなければならないし、最高の言葉なんて、天才以外は思いつかないのですから。


 決死のラブレターが、きっとそうでしょう。

 やましんは、書くことも、もらったこともなかったですが、それは幸福な事であったと、今となっては考えるのです。


 音楽は言葉にできるのか?

 絵画は言葉にできるのか?

 愛は言葉にできるのか?


 前にも書いたかもしれないのですが、ぼくの答えは『なかなか、無理!』。


 だから、音楽も絵画も愛も存在意義があるのです。

 言葉では成り立たない世界があるから、大切なのです。


 と、逃げを打って、もう、終わりにしようなんて、浅はかな事を図っております。


 『第7交響曲』の事は、これまで全く書いていませんでした。(うそつけ! 第20話に書いてるぞ! と、いまになって、大分あとからでありますが、補筆訂正いたします。)


 しかし、贔屓の引き倒しといわれても、それでもなお、この作品は人類史上最高の音楽のひとつだと思います。

 そうして、この三曲は、断ち切ることができない、見えない深い絆でつながっております。

 中心に、『第7交響曲』がいて、『第6番』と『タピオラ』と、お互いにがっちりスクラムを組んでいるのです。

 

 まあ、この言い方自体が、すでに語弊があって、納得ゆかないのですけれども。


 しかし、西洋音楽は基本的に分析されるものであって、解釈されるものです。

 それがなければ、演奏は出来ないのです。


 それにもかかわらず、この3曲は、そうした分析の枠をはみ出してしまう気がして仕方がありません。

 どこか、西洋の流儀にハマらないところがあるのです。


 それでも、言葉での解説は、このあほのやましんも、自分なりの素人考えでは、学生時代にも、生意気にもやろうとしたのですけれど、 結局のところ、ぼくなどには出来ない、という結論に今は達して、おりますのです。はい。


 それでも、大好きです。

 そこに尽きます。

 それで、いいのです。


 奥様には、ぼくのお葬式には、カラヤンさん指揮の、1967年録音の『第6交響曲』を使ってくださるようにお願いしてあります。(3種類、正規録音があるので。)


 そのCDは、いつも応接間のスピーカーの上に展示しております。



💿 うつ  ******** 🌹  🌹  🌹  ******** うつ 💿












 












 

 


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