第2章 食料

第15話

 病態失認というのを聞いたことがあるか。


 まだ医療技術が進んでいなかった昔の話さ。脳梗塞や腫瘍などの原因で脳が損傷すると、体の半身や一部が麻痺することがある。病態失認の患者は、その障害を否認あるいは無視して、その麻痺についての話をすると、「どこも悪くない」とか「これは兄の体だ」とか、嘘を吐くんだそうだ。そして本人にその自覚はない。狂っている自覚がないんだ。


 しかし、患者当人の立場で考えてみろ。周りの全員が、どこもおかしくない自分の体を麻痺していると言い張り、そしてなぜか兄の体を自分の体だと主張する。皆の方が狂っているように見えるはずだ。まともなのは自分一人。それはそれで怖ろしいに違いない。仮に病態失認が治っても、待っているのは自分の体が麻痺しているという真実なのだから、どっちにしても苦難には変わりないが。


 俺は昔結婚していた。妻の名前はアンバーといった。金髪碧眼の、色っぽくて、アンドロイドにだって負けない美人さ。俺たちは時折喧嘩をしつつもそれなりにうまくやっていた。俺は妻を愛していた。とても愛していた。もう妻のいない生活など考えられないくらいに。子どもは居なかったが、それは互いに了承してのことだった。その代わり、戯れにアンバーの世話用アンドロイドを生体型の六歳の少年にした。名前はルカ。冗談好きの妻はわざと外見を俺に似せて作った。知能は六歳なりに、しかしその年代にありがちな度が過ぎた行動はしないように設定して、擬似的に子供を育てる気分を楽しんでいた。


 アンバーはルカに本の読み聞かせをしたりお菓子作りを教えたり――俺は女の子っぽいって反対したんだけどな――、俺も一緒にキャッチボールやサッカー、1on1のバスケットボールの真似事をしたり、釣りに行ったりして、子育てごっこを楽しんでいた。そうだ、あいつ、生き餌のミミズを怖がってさ、俺が針に付けてやってたな。そのくせなぜか虫は平気で、透明の観賞用キットの中の蟻が、巣にも餌にもなる青いジェルのプールに穴を掘っているのを飽きもせずいつまでも眺めるんだ。あの子の性格はまさしく人間の少し気弱で内向的な六歳の男の子のそれで、しかも見た目も俺に似ているから、俺はいつしか本当に息子を持ったような気になっていた。


 ある日、アンバーはルカと買い物に行って、ひとりで帰ってきた。


「ルカは壊れちゃったわ」と、アンバーは言った。「目を離した隙に他の子の遊び相手になっていたの」

「仕方がないな、またルカを注文すればいいさ」と、俺は言った。


 アンバーも「そうね」と、俺に同意し、特に変わった様子もなかった。その日の夜、ルカは戻ってきた。記憶も昔のまま、何も変わらなかった。


 次の日、俺は友人宅に遊びに行って家を留守にした。帰ってくると、ルカがまたいなくなっていた。アンバーは言った。


「階段を滑って頭から落ちたの」


 アンドロイドとはいえ、生体型は完璧じゃない。ちょっとした筋肉の加減でバランスを崩すこともあり得る。既にアンバーの臨時の世話用アンドロイドが来ていて、ルカの死体は運ばれたあとだった。


「残念だ、タマムシの剥製を土産にもらったから見せてやろうと思ったのに」

「へえ、綺麗ね。……すぐまた帰ってくるわよ」


 アンバーはそう言って慰めるように俺の額にキスをした。俺は二日続けてルカが破損した奇妙さなんかすぐに忘れてしまった。


 それからしばらく経って、俺たち三人と、それから俺の世話用アンドロイド――こいつは見た目も中身も機械そのもので、便利ではあるがルカと比べると遥かにつまらない存在だった――とでキャンプに行った。川で釣りをして、水遊びをして、バーベキューをして……。バーベキューの後片付けをしたら、子供の底なしのエネルギーに付き合っていた俺たち夫婦は疲れがどっと出て、二人で折りたたみカウチを広げて昼寝することにした。ルカはまだ元気で、どこかへひとり遊びをしに行った。アンドロイドの子供は人間と違って四六時中見てやる必要がないのが楽だ――とそのときは軽く考えていた。


 アンバーの俺を呼ぶ張り裂けるような声で目が覚めた。


「森に入ったルカを見にいったの、そうしたら……」


 アンバーに手を引かれ現場に行くと、胸から腹にかけて深く抉られ、血塗れのルカが倒れていた。熊だ、と俺はすぐに思った。


 俺たちがキャンプをしていたのは、キャンプ場でない、普通の小川のほとりだった。人の喧騒を避けてのことだったが、キャンプ場と違いどんな野生動物がいるとも知れない。俺たちは何より熊に殺されるのはごめんだったので、血相を変えて慌てて家に帰った。現代で命の危機を感じることなど滅多にない。俺は気が動転していたんだ。だから、ルカが倒れていた現場に熊の足跡のようなものを一切見ていなかったのを、そのときは全く気にしていなかった。


 俺の世話用アンドロイドがルカの首を持ち帰っていたので、ルカはキャンプでの記憶を保持した状態で再生された。ルカは川で魚が飛び跳ねたのを見たことやバーベキューで俺が塩をかけすぎたステーキがしょっぱかったことなどよく覚えていたが、熊に襲われたことは全く記憶にないと言った。


 それからもルカは何度も不自然に死んだ。


 二階の窓から誤って転落、風呂で滑って頭を打つ、など。決まって俺が見ていないときに事故が起こった。


「ルカは何かがおかしいわ、壊れているのかも」


 そうアンバーは言ったが、俺も馬鹿じゃない。アンバーが何かを隠しているのは明らかだった。


 俺はあることを思い付いた。普通なら、妻とはいえ他人の世話用アンドロイドの記憶データを見ることはできない。プライバシーだからな。だが、例のキャンプの一件で、俺の世話用アンドロイドがルカの記憶データをバックアップしていて、それをまだ削除していなかったんだ。それなら俺の権限でアクセスすることができた。俺はVRギアでキャンプ当日のルカの記憶を体験してみることにした。


 ルカ視点で見る世界は新鮮だった。あいつは、車の窓のちょっとした汚れや、流れ行く雲の不思議な模様や、名前もよく分からない草の粒々とした実や――、大人が気にしないよう細かなものに目線を移し、飽きずにそれを眺めているんだ。俺は当初の目的を忘れて、しばらくルカであることを楽しんだ。自分と釣りや川遊びをするのはむず痒い気分だが、それもなかなかためになるぞ。俺はそれで鼻をすする癖をやめた。


 さて、バーベキューが終わり、折りたたみカウチで大人二人が電池が切れるように寝たあと、俺は――つまり、ルカはということだが――、川辺で平たい石を集めていた。川遊びで水切りを見せたから、練習しようと思ったんだろう。あいつ、ズボンの両ポケットにいっぱい詰まってもまだ探すんだ、性格が出るよな。そうして、十分過ぎるくらい石を集めていたところでアンバーがやってきた。


「ついてきなさい。……その石は捨てて」


 普段のアンバーからは想像できないくらい冷たい声だった。右手にバーベキューで使った肉切り包丁を持っていた。ルカは従順にポケットの中の石を全て捨て、そして二人は森に入って行った。


「この辺でいいわね」


 そう言ってアンバーが足を止めた場所は、ルカが死んだ場所だ。そしてアンバーは包丁を地面に放って、淡々と、事務的に、まるで職務質問をする警官のように言った。


「ズボンを脱いで」


 あとのことは、詳細に説明する必要はないだろう。もともと六歳でも刺激すれば可能なことなのか、それ用に改造したのかは知らないが――、要するに俺は妻にレイプされる場面を疑似体験したのさ。いや、レイプでもないな。ルカは言われるがままに奉仕したのだから。


「エラディオには内緒にしてね」


 ことが終わったあと、アンバーはそう言い、ルカだけに服を着させた。そして包丁を拾って再びルカに馬乗りになった。酷い殺し方だった。血が飛び散り、肉片が飛んだ。内蔵がこぼれ出た。熊が殺したように偽装するため、わざと派手にしたんだろう。殺されるあいだじゅう、ルカは黙ってアンバーの碧い瞳をじっと見ていた。まるで子供が母親に愛を求めるように。


 VRを見終わった俺はとても我慢できず、アンバーにルカを殺したかどうかを問うた。もちろんルカの記憶を見たことは黙っていたが。アンバーは否定した。噓を吐いている自覚さえないような反応だった。そもそも、殺したなら殺したで、正直に言えばいいだけの話なんだ。性行為のことは夫には言いにくいだろうが、それを問うていたわけじゃない。俺はアンバーが意味のない嘘を白状せずに吐き続けられる才能の持ち主か、狂っているかのどちらか――おそらく後者だと思った。


「あなたはルカに執着しすぎよ。仮に私がルカを殺したからって、そんなのどうでもいいことじゃないの」


 と、アンバーは言うのだった。そのとおりだ。冷静に考えれば、俺の怒りの根本にあったのは、ルカがアンバーにあんな殺され方をしたこと、そしてそれが続いているだろうことだった。ルカが人間なら、その怒りは当然で、アンバーは社会的にも裁かれるべきだろう。だがルカは人間じゃない。怒る理由もない。


 俺は無意識裏にアンドロイドと人間を混同していたんだ。それをアンバーに気付かされた。俺に人を狂っていると糾弾する権利などなかったんだ。俺自身が狂っていたんだから。それでも俺はどうしてもルカを――かりそめの息子を――守りたかった。正しいのは俺で、世間の常識が間違っているような気さえした。まさに病態失認のような狂い方さ。俺はアンバーを、第三者から見ると全く理不尽と思われる理由で激しく罵った。


 アンバーも当然怒り、大きな喧嘩になった。結局、喧嘩の原因になるということで、俺の目の前でアンバーの手によってルカは"処分"された。俺は最後まで反対したが、もともと妻のものであるからどうにもならなかった。


 俺たちは離婚した。離婚の間際、ルカのDNAが俺のものと一致していたと判明したが、なぜそうだったのか、考えたくもない。

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