十一個目*アタシなりのモーストベストスポット*

 過去とは、ほどけない鎖である。

 一度背負った過去は死ぬまで――下手したら死後も苦しめ続け、人格すらゆがませてしまう厄介者だ。

 まぁ、それが良い過去ならば素晴らしき思い出となりうるが、逆に悪い過去ならば、それは悲哀となって人間の心を汚染していく。

 どちらにしろ、過去とは常に後ろにあるものであり、前を見て成長し続ける人間にとっては、成長を抑制してしまう鎖なのだ。


 そう感じてならない俺――麻生あそうやなぎだが、今俺の目の前で、一匹の幽霊が鬼のお面を握りながら、悲惨な過去を口に表していた。

 今回は俺が、語り役を務める。フクメのためにも、聞き取ってくれ。



――それは、今から六十年もの前にさかのぼる。



 笹浦市に住む女子中学二年生――天童てんどうあやという、天真爛漫な少女がいた。背は平均よりもずっと低く、短い角のようなツインテールの髪型からは、彼女がいかに幼き少女なのかを強調している。



「アタシは天童てんどうあや! 困ってる人は絶対に無視しない、正義の味方よッ!! ニッヒヒ~!」



 天童彩の私生活は案外立派なもので、主に市内のボランティアに参加したり、時には道中で悩む人を見かければすぐ助けたりと、人として認められる確かな人格者の一人だった。まぁ勉学に関しては、おろそかにしていたらしいが……。


「ふぅ~。一件落着っと!」


 だが、世のため人のために何かを成し得たときに放つ、無邪気な笑顔には、ただでさえ小さな彼女がさらに幼く見えてしまう効果があり、ある意味とても似合う微笑みだった。


「おいッ!! 廊下走ったら危ないっつうのォ!!」


 しかし天童彩は、女子らしからぬ荒れた口調もあることが、問題の一つだった。決して年下の子どもには見せない一面なのだが、それを目の当たりにする同級生男子はもちろん、そして女子からも少しばかりの距離を置かれてしまい、彼女は独りの学生生活を送るはめとなっていたのだ。


「チッ……なんで注意したヤツが、悪者扱いされんのよ……意味わかんない!」


 悪気があって叫んでいる訳でない分、何とも儚い青春時代を送っていた。

 孤独の日々を強いられた天童彩には怒りが付き物となり、終いには少女の笑顔が薄れていったのである。



 しかし、すぐに返還される日が訪れた。



神埼かんざきとおる……」



 中学三年生に上がった天童彩は、初めて同じクラスになった男子生徒――神埼かんざきとおるに多大なる好意を寄せていた。運動部に励む背の高い彼の爽やかな表情は、眩しい太陽というよりも、全てを包み込むような澄み渡る空とも似ている。独りの女子である彩自身も、彼の顔面偏差値に見とれてしまったのだろう。


「えっ? あれで付き合ってないの……?」


 もちろん校内でモテモテの神埼透だが、ふと天童彩に聞こえてきた噂話では、最近まで付き合っていた女子と別れてしまったらしい。その相手は、校内一の美人――笹浦のプリンセスとも称されるほどの有名人だ。艶やかな長髪を下ろし、中学生不相応の大人びた後ろ姿や顔立ちからは、どの男子もとりこにするほどの美貌を抱いている。


「お似合いなのに……もったいないな~」


 自身も知っているプリンセス同級生だけに、どうしてこの二人が別れたのか、天童彩には不思議でならなかった。お菓子の取り合いで、喧嘩でもしたのだろうか。観たいドラマが異なるくらい、性格が合わなかったのだろうか。等々、小さな脳を使ってありふれた原因ばかりが思い付くだけで、永久に見当は着かなかった。



「神埼透って、今フリーってことか。あれ……? じゃあ、これってつまり……」



 むしろ天童彩には、二人の別れよりも、現在置かれている自分の状況が脳裏に過る。受験なんざ、ほったらかしの三年生生活。ならば残された気持ちなど、多感な思春期を考慮すれば容易にわかる。



「――チャンスじゃん!!」



 神埼透を愛する者としては、仲良くなる絶好の機械他ならない。

 美男美女の別れをそう受け取った天童彩はその日から、何度も神埼透に話掛けるようになり、次第に忘れていた少女の笑顔を取り戻したのである。


「アタシ、天童彩! よろしくッ!!」


 “思い立ったが吉日”とは、彼女のためにあるのかもしれない。

 天童彩は早速、神埼透の席に走り向かって初挨拶を交わす。


「ねぇねぇ! 好きな食べ物は? オキニの芸能人とかいる~?」


 掛けられた側の神埼透はもちろん驚いていたが、今の天童彩には気になるほどではない。


「それとさ! 趣味ってなに~? ちなみにアタシは、人助け!! 達成感がもぉ~サイッコーに気持ちいいの!!」


 一方的な天童彩が恋愛慣れしていないことは、誰もが一致する見解だった。まるでド田舎の娘が、都会で生まれた芸能人と遭遇したときのように、これ見よがしに瞳をきらめかせている。気持ちまでも高ぶり過ぎているせいか、彼女の質問が至ってどうでもよいものだということは、恐らく自覚していないのだろう。要は、アホなのだ。


「やっば! もう授業じゃん……。んじゃ、また後でね!」


 マシンガンを撃つだけ撃って、休み時間が終わればそそくさと去っていく。恐ろしき女狩人かりうどだ。

 荒れた口調もあって軍人にも窺えてしまう天童彩は、こうして神埼透に毎日銃弾を撃ち込めながら生活していった。


 そんな出会いを通じて間もない、四月のある日。

 天童彩はついに勇気を振り絞り、神埼透を放課後のベランダに呼んだ。



――告白を決意したのである。



 夕陽に応援されながらも、かいたこともない冷や汗、止まることを知らない心臓の激動にも襲われながら、一人先に出向いて立ち竦んでいた。もどかしさが時間と共に、比例して強まるが。


「どうしたの? いきなりベランダに呼び出して……」


すると、独り強張る天童彩のもとにはついに、苦笑いを放つ神埼透が訪れる。


「あ、あのさ……」


 普通ならば、自分より背の高い神埼透を見上げなければいけないところだ。しかし天童彩は、真っ赤な顔を下に向けてしまい、ベランダが春風の音すら聞こえるほどの静寂に包まれていた。

 なぜなら、天童彩は怖がってしまったからだ。生きていて初めての、自分からの告白が。

 “オッケー”を貰えれば、学生生活一番の快晴となるかもしれない。だが、もしかしたら“ノー”を示され、大雨を降らすことになる可能性だってある。

 夕立すら心配される、変わりやすい春の空の下。天童彩の表情にも、濃い雲が次第に立ち込めていた。


「あ、アタシ、さ……」


 晴れ渡るのだろうか。

 それとも、このまま雨が降るのだろうか。


「あの、アンタの、こと……」


 いつもなら言いたいことなどすぐに言える天真爛漫な少女。しかし今は、とても口を動かせたものではない。



「す、その! その、ね……」



 あと一歩の勇気がなかなか出ない。次の瞬間起こる未来に怯えているが故に。

 それでも、天童彩は弱く小さいながらも、微かな声を鳴らし続ける。



「その……す、す……」

「……好きだよ……ボクも」

「へ……?」



 突如神埼透に言葉尻を被された天童彩は、おのずと息を飲み込んで顔を上げる。するとすぐに目が合い、笑顔によって伸びた口が開かれる。



「実はボクも、君のことが好きなんだ」



「……うそ……そ、それじゃあ!」

 ベランダに少女の笑顔が訪れた刹那、ついに怪しい雲からは、澄み渡った穏やかな青空が姿を現す。



「よろしくね、彩?」



 初めて呼ばれた、彼女としての名前。



「ふあぁぁ~~~~! う゛んッ!! 透~ッ!!」



 そして初めて叫んでみた、彼の名前。


 放課後で誰もいないはずの、静かな教室。しかし、記念日の今日だけは違った。夕焼けに染まったオレンジのベランダから、二人の生徒が抱き合う影が、しばらく室内に伸ばされていたのだ。



『初めての彼氏……アタシ今、宇宙で一番の幸せ者だッ!!』



 その後はいっしょに登下校を繰り返すようになった、デコボコカップル。背が小学生張りに低い天童彩と、俳優のように高い神埼透が手を繋ぎ合う後ろ姿は、娘を連れた父親とも間違われるほどの差だ。本当に同級生なのか、疑わしいくらいに。


「ねぇ、透!!」


 下校途中の夕方の空下、笑顔の天童彩は上空を仰ぎ見るように顔を上げると、スクールバッグから一枚のチラシを取り出す。


「これ見て!!」


 手を繋いだままの天童彩は、片手と口を駆使してチラシを開ける。すると、不思議がっていた透からは、関心の声が漏れる。


「あぁ~、お祭りか……。そういえば、もうその季節か~」


 それは、五月に行われるお祭りのチラシだった。一般的に窺えば、この季節には珍しい行事と感じるだろう。しかし、この笹浦市に住まう者としては、決して疑問など抱かない、昔から続く伝統的なお祭りの一つなのだ。


「いっしょに行こうよ!! 中学生最後のお祭りなんだから 行かなきゃ損だって!!」


 中学生三年生として最後の、皐月さつきのお祭り。天童彩は彼氏の目を見ながらお願いするように告げると、神埼透からは微笑みと共に頷かれる。


「よし! 二人で行こう!」

「やったぁ!!」


 相思相愛の二人は満面の笑みを浮かべながら下校し、今週末に開催されるお祭りに行くことを決定した。



 そして、お祭り当日。

 午前中は雨が降っていて開催が危ぶまれたが、お昼には何とかみ、地面が泥濘ぬかるみながらも中止されることはなかった。

 辺りは徐々に暗くなっており、日没まで間もない小清水神社鳥居の前。そこには天童彩が、かわいらしい薄ピンクの浴衣を纏いながら、神埼透の登場を待っていた。

 実はこの浴衣、お祭り参加が決まった日から、自力で作製した一服なのだ。当時の天童彩には、高価な代物を購入できるほどの財源が無かったからだ。所々玉結びが目につくが、彼女の頭脳を考えれば、高い完成度だと言えよう。

 普段から縛り慣れている、短いツインテールはすぐに整えられたが、着慣れていない浴衣や下駄からは未だに違和感を覚えいた。


「透、遅いなぁ……」


 落ち着きすら失って独り言を呟いてしまう。

 すると一人、身軽な私服姿の青年が駆けてきた。


「ごめ~ん!! お待たせ~!」


 遠くから走ってきたのは、間違いなく神埼透だ。彼はすぐに目の前に来ると、荒げた息を地面に落としていたが、天童彩は腕組みをして眉を吊り上げる。


「も~お!! 五分遅刻~!!」

「ゴ~メンゴメン。変な急用せまられちゃってさ~」

 頭を掻く神埼透から苦笑いを放たれると、やっと気づいてくれた様子の浴衣姿に目を置かれる。


「彩……とっても似合ってるじゃん」

「う、うぅ……それで許してもらえると思ったら、大間違いだからね……おバカ」


 恥ずかしさのあまり目を逸らした、天童彩の顔は赤く染まってしまうが、最後には優しく微笑むことができた。



「じゃあ行こっか、彩?」


 先に手を差し伸ばした透。


「……うんっ!」


 震えながらも、互いの温もりを合わせようと伸ばす彩。



 顔の赤みが依然として残る天童彩の左手が、一回り大きな神埼透の右手に包まれる。二人にとっての初デートが、夕焼けの空の下で開始される。決して離れないようにと手を繋ぎながら、にぎわうお祭りの人だかりへと溶け込んでいった。


 二人はゆっくりと、明るい提灯の下、屋台が並ぶ明るい人混みの中を歩いていた。次第に緊張もほぐれていき、心から楽しむ様子が表情から示されている。


「何か食べる?」

「やっぱ、お祭りと言ったら林檎飴っしょ!!」


 いつもの快活ぶりを取り戻した彩は、まるでお祭りの真髄全てを知っているかのように告げ、早速透と共に屋台の最後尾に並ぶ。早くも長蛇の列となっていた林檎飴の屋台前だが、愉快に話し合う二人にとって待ち時間はあっという間だった。


「はい、彩の!」

「わぁい!! ありがとう!!」


 林檎飴二つを購入した透は、しっかりと彩の分まで支払い、その一つを喜ばしいながら手渡す。


「くぅ~!! やっぱこれだよ~!! 生きてて良かった~」

「ハハハ。大袈裟だなぁ」


 渡された林檎飴をすぐにかじった彩が、早くも甘酸っぱい味の虜にされていた。その子どもらしい姿には、透も面白おかしく笑ってじう。

 屋台で働く十代くらいのお兄さんからも、

「若いねぇ~!」

 と、二人の愛らしい姿が笑顔で見送られた。


 その後の二人は林檎飴を持ち歩きながら、お祭りを全面的に堪能していた。公開される踊りを観覧して感動したり、大きな御輿を見て驚いたりと、かけがえのない時間を共に過ごす。一瞬足りとも無駄ではないことは、この二人が常に手を繋ぎ合っていることから推察される。



『いつまでも、この楽しい日々続けばいいなぁ~』



 幸福な想いを抱きながら、彩は曇りない微笑みを見せ合っていた。



 ついにお祭りも終盤を迎える時間帯。辺りはもちろん深い夜が差し迫っていたが、負けじと明るさを貫く彩が、力強く透の手を握る。


「ねぇ透!! 最後に花火見ようよ! アタシなりのモーストベストスポット、見つけてきたからさ!!」


 彩は目を輝かせながら放ち、自身の英文法が間違っていることなど全く気づいていない。それでも自信ありげな彼女に、透からは素直に頷かれ、二人は速足で向かおうとした。


ところが……。



「……あれ?」

「おっと! 彩? どうしたの?」



 突如に彩は立ち止まり、手を引いていた透に急ブレーキを掛けさせる。しかしイタズラではなく、悪びれた様子など見せなかった。ただ静かに、暗い小道を覗き見る。


「あの子、もしかしたら……」


 すると彩は透の手を初めて離し、見知らぬ幼き少女の元へ駆けていく。


「どうしたの?」

「うぅ~……うぅ」


 その少女は、泣いていてばかりいたのだ。小学校入りたてぐらいの背を丸め、ろくに言葉も返せないほどの孤独に怯えていた。


「彩! その子どうしたの?」


 気になった透もおのずと近づいてきたどり着いた頃には、彩は膝を折って少女と目線を合わせ、話を窺い終えていた。



「透……やっぱこの子、迷子みたい」

「そ、そっか……どこに連れていけば……」



 迷子を発見できたことは善しとして、どこへ連れていけばわからず困った透。しかし、事前調査を済ませてきた彩は、有るのか無いのかわからない胸を張りながら立ち上がる。



「迷子センターに連れていこう! 実はそこ、モーストベストスポットの場所でもあるから、ちょうどいいじゃん!」



 相変わらず間違いを自覚していない彩だが、再び透からは納得の頷きと、理解できた嬉しさを表情で示した。


「わかった。じゃあボクがおんぶするから、その迷子センターまで連れていこう」


 しゃがんだイケメン高身長の透はすぐに少女から受け入れてもらい、背に乗せて運び始める。

 一方で彩は透の隣に立ちながら、迷子センターまでのナビとして歩み、またすすり泣く少女をあやす者として働きかけていた。


「ねぇねぇ! お嬢ちゃんの名前は? ちなみにアタシは、天童彩!」

「……」

「答えづらいよね……。ねぇねぇ! 今日のお祭りで何食べた?」

「……」


 なかなか返答が鳴らなかったが、諦めの悪い彩は懸命に続ける。


「アタシはねぇ~……何だと思う?」

「……」

「ニヒヒ~。正解はねぇ~……ジャジャ~ン!! 林檎飴食べたんだ! 甘酸っぱくて、とぉ~っても美味しいんだよ!」

「……林檎、飴?」

 林檎飴本体が消えた棒のみだったが、沈黙していた少女の口が開いたことで、彩は更に元気を煽る。


「そうそう! 他にもねぇ、かき氷と焼きそば、今川焼に綿飴わたあめ。それから~」

「彩は食べ過ぎだよ……」


 ここで透も輪に入る。ただ、彩側でないことは確かだ。


「アタシは太らない系女子だから、心配御無用よ!」

「いや、そういう問題じゃなくて……」

「なによ~!? 乙女の第一欲求はねぇ、恋と食なのよ!」

「第一なのに二つあるけど」

「……ど、同率一位ってことよ」

「ふふっ……」

「「――っ!」」


 小さな小さな言い争いが、微かな笑い声で突如静止した。なぜなら、耳でも目でも確認できたからだ。泣いてばかりいた少女の、愛らしい笑顔が。



「お姉ちゃん、食べ過ぎだよ。キャハハッ!!」



「……ニヒヒ~! 弟子入りするか~! コチョコチョ~!」

「キャハハッ!! やめてよ~!」

 気まずかった関係はいつしか失せ、お祭りと似た明光が灯された。


 こうして二人が少女を送ること数十分ほど、迷子センターなどのテントが並ぶ高台――お祭り本部にたどり着いた。


「ここだよ!!」

「ふぅ。けっこう歩いたなぁ……」

「もう何よ~だらしな~い! アンタ運動部だったでしょうが!!」

「いや~、坂道が多くて……」


 少女を運び続けていたとはいえ、疲弊した透を彩は叱っていたが、すぐに迷子センターのテントに入る。すると中には、すでに少女の母が訪れていた。どうやら無事に、再会させることができたようだ。

 母親からは心配に心配を重ねていた様子で、

 「ありがとうございました!」

 と頭を下げられ、照れ笑いを浮かべてしまう透。

 一方、小さな宝石のように輝く笑顔を少女から、

 「ありがと! お姉ちゃん!!」

 と放たれ、得意気にニッと笑って見せた彩。


 心持ちは違えども、笑みという点で同じだった中学三年生カップル。二人は、少女と母の去り姿を静かに見送った。今回の迷子が悲しいのみでなく、お祭りとしての良き思い出となってくれればと、静かに願う。結局名前が聞けなかったが、最後に、

「またね~!! いい夢見ろよ~!!」

 と、雄々おおしい持て成しで送り出した。



 いよいよ待ちに待った、最後の花火観覧である。


 この高台から見える景色は建物による障害が無く、夜空の花火を見るには絶好のスポットなのだと、彩はドヤ顔で透に教え込んでいた。

 もうじき感動的な花火が放たれる頃。胸の高まりが増し、鼓動が空気まで振動させるほど鮮明だった。


「……」

「彩?」

「ゴメン。ちょっと、お手洗い行ってくる!!」


 なぜこのタイミングでお手洗い行きたくなってしまったのか、彩はそう後悔しながらも我慢できず、透のもとから素早く去って簡易トイレに向かった。間違いなく、過度な飲食のせいだ。


「ふぅ~。花火、まだ始まってなくて良かった~」


 お手洗い場から出てきた彩はハンカチで手を拭きながら、待たせている透のところに向かっていた。花火もまだ打ち上げられておらず、ホッと胸を撫で下ろす。


「花火~花火~」


 もう少しで待ち合わせ場にたどり着く、夜道の途中。一番楽しみにしていた花火を待ちわびながら、ツインテールを上下左右に揺らしていた。


「フッフフ~ン……おっ?」


 すると彩の瞳にふと、たくさんのお面が並んだ屋台が映り込み、見とれたように立ち止まってしまう。大好きな戦隊ヒーロー物からアニメのキャラクターの顔がところ狭しと飾られており、お祭りには欠かせたくない一つの道具でもある。


「……あ、そうだ!! ニヒヒ~。せっかくだから、驚かしてやろっと」


 幼い子どものように無邪気な笑みを溢した彩は、透に親しみを込めたドッキリでも仕掛けてみようと、驚かせそうなお面を探し始める。手を伸ばしたのは、子ども向け特撮番組に出てきそうな、あまり怖いとは言えないクオリティーの、赤い鬼のお面だった。花火までの時間もあと僅かだったため、迷わずすぐに購入して後頭部に着けてみる。


「フフ。どんなリアクションするかな~?」


 鬼の顔を見せれば誰でも怖がるだろうと、まだまだ考えが幼稚な彩はワクワクしながら待ち合わせ場所へと急ぐ。やがてお祭り本部の広敷地に近づくと、奥の方にはドッキリ対象者の後ろ姿があった。


「お、いたいた……ニヒヒ~」


 後ろから近づいて驚かすには、何ともありがたい場面だ。

 彩は早速、頭に着けていたお面で顔を隠し、背後から透へと忍び足で寄っていく。視界が狭くて歩きづらいのも確かだが、今は驚いた彼氏の顔を想像するばかりで気にしていない。

 透との距離もあと十メートルほどと迫ったところ、一気に畳み掛けようとした。



――だが……。



「あれ……?」



 彩の勢いは無くなってしまい、一人お面を着けながら立ち竦んでいた。突然透のもとに、一人の女の子が隣に現れていたからである。



『あの人って、確か……』



 自分よりも上品な着物を整え、自身よりもスタイルがずっとスレンダーで、凛と眩しい素敵な横顔。そんな美貌尽くしな女の子を眺める彩だが、誰なのかはすぐわかってしまい、思わず内心で呟く。




『透が前に付き合っていた、プリンセスの人だ……なんで……?』




 別れたはずではと、ずっと信頼してきた彼氏に初めて疑念を抱くようになり、彩はそのまま、透と元交際相手の女の子の行動を観察し続けた。

 辺りには話し合う人々もいたため、透たちの声までは聞こえてこなかったが、二人がしんみりとした空気で話している様子が窺えた。


 元カレと元カノの関係になった二人が、一体何を語り合っているのだろうか?


 彩は自身の、小さな脳を働かせて考えていた。



――しかし、次の瞬間……。



「え……」



 彩は絶句し、反って透の姿から驚かされてしまったのだ。視界が悪いのかと思いながらお面を後頭部に回してみたが、やはり目の前の現実は変わらない。



「なん……で……」



――ドガァァァァン!!



 すると夜空に、盛大な花火が打ち上げられた。空が裂けそうなほどの轟音を鳴らし、しかも一発目ともあって、多くの観光者たちに目を向けられている。最後を飾るには相応しい、夜空での舞踊だ。

 しかしたった一人――天童彩だけは見上げていなかった。ただ静かに、目の前の透と学校のプリンセスを凝視していた。



――なぜなら二人が、抱き合っていたからだ。背景となった花火が非情にも二人を照らし、復縁が讃えられたように窺えたからである。



『……』

 言葉が出ず、心でも呟けず、そしてこの場にいられる我慢ができなくなった彩。すると今度は無言で透から去り、バレないように近くの物影に隠れようと移動した。

 ちょうど迷子センターが目に止まったため、彩はその背後にある崖に一人身を潜めるように座り、透たちとの間にテントという壁を張る。


「なんだろ……この気持ち……」


 高台から良く見える町並みを眺めながら、独り残された彩は言葉で説明できないほどの、大きな孤独感に襲われていた。透と出会ってからは初めてかもしれない。こんにも苦しい独りを味わうのは。



「フフ、そうだよ……だって透は、モテモテだもん。全然かわいくないアタシとなんて……あり得ないよ」


 イイ男には、イイ女。

 理想の男には、高徳な女が付き物。

 だが、天真爛漫で口調も荒い自分が、理想相手から高徳な人間など思われる訳がない。それは周囲の生徒から避けられてきたことが、何よりの証拠のはずだ。



「恋なんて……ゥ……するんじゃなかァッたッ……」



 彩の瞳は徐々に潤み、ピンクの浴衣に雨模様を描き始める。


 泣いていたのだ。

 たった独り、静かに。


 気持ちを裏切られたから――確かにそれもあるだろう。が、一番は、叶うはずもない夢物語を追ってしまった、自分自身の愚行に後悔したからだ。女の子として何も優れた点などなければ、人脈すら皆無だと言っても良い。

 そんなが自分が見るべきものは、孤独の空気に包まれた、残酷な現実世界。想いなど届くことが少ない世界を、ケガを負わぬよう慎重に見極めながら生きていくことだ。


 人々が和気あいあいとするお祭りとは裏腹に、今度は天童彩が一人静かに、寂し気にすすり泣いていた。彼女の悲しい姿を見届けているのは、人ではなく、動物でもない。人間の創作物である、上空の花火だけだった。



「……グスッ……帰ろッ……」



 ここにいても、ひたすらに悲愴の光を浴びせられるばかりだ。

 楽しみにしていた花火のことすら嫌いになった彩は泣き止まぬまま、座っていた崖の端で立ち上がろうとした。



――グシャ……。




「へ……?」

 まるで足場が突然消えてしまったかの如く、彩の身体は地に吸い込まれるように崩れていく。


『滑、っちゃった……?』


 どうやら地面にはまだ、今朝に降った雨のぬかるみが残っていたようだ。きっとテントが影となって乾かなかったのだろう。

 しかし気づいたときには、もう手遅れだった。

 崖の端で足場を失った彩は無論この高台から、花火とは真逆の方向へ突き進む。



『アタシ、落ちてる……』



 雲から垣間見えた春の大三角――アークトゥルス、デネボラ、そしてスピカたちはどんどん遠退き、さっきまで座っていた崖さえ小さく見えてくる。背にはたくさんの風を受け、いつも眠る布団とは格段に異なる柔らかさだった。

 普段は感じられない空中の快楽に溺れるように、天童彩は状況に似つかわずクスリと笑ってしまう。



『そっか……アタシ、終わりなんだ……』



 崖下の林に猛接近していく彩は、この僅かな一瞬の間に、過去に生じた様々な思い出が脳裏に過っていた。十五年近く人間として生きてきたが、輝く物はたった一つしか見当たらない。

 共働きの親のもと、一人っ娘として誕生した彩が帰宅したときはいつも、閉ざされた玄関には自分の靴と、持って帰ってきた微少の土埃つちぼこり

 また学校では、荒々しい性格と口調のせいで周囲から避けられてしまい、決して楽しい場とは思えない孤独な教育現場だった。


 そんな教育現場に、たった一つの流れ星が訪れた。それはもちろん、神埼透の存在以外誰でもない。

 孤独の悲しみから解放してくれたかのように、透は彩の話に付き合ってくれた。最終的には、両思いの気持ちまで示してくれた。


 生活に僅かな光を与え、春に訪れた一筋の流れ星。それこそが、彩が唯一見つけることができた、生きていて幸せな時間だったと言える。



 しかし流れ星は、どうやら一瞬で去ってしまったようだ。



 彩は潤んだ瞳を細め、再び春の大三角を覗いた。もちろんさっきとはほとんど変わっていない。しかし、おとめ座の一部であるスピカの星だけが、妙に暗く見えた。



『――もうちょっとだけ、幸せになりたかったなぁ……』



 自嘲気味に笑いながらも落下する彩は、そっと瞳を閉じる。溢れた大きな雨粒が共に宙を舞うが、涙たちにさえ距離を置かれ、何もかもが遠退いていく。

 お手製のピンク浴衣をなびかせ、花びらのように美しくも落下した天童彩。しかし翌日、彼女の遺体が林奥から発見されたことは、もはや言うまでもないだろう。




「――どお? これが、アタシが思い出した内容だよ……」

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