『テルミーアバウトユアセルフ(21)』

 滴る雨粒だけが延々と、過ぎていく時を告げている。

 先輩はこちらに笑いかけたまま何も語らず、俺と言えば突然叩きつけられたあまりの情報量を前に、ドアノブを握ったまま互いに固まっていた。

 どうやって俺の家を知ったのか。

 大学にいる一志が見たのはいったい誰だったのか。

 そして何より彼女がどういった心づもりで、使い割った道具の前に再び姿を現したのか。

 そこに根を張る怒り痛みも決して小さなものではない――だからこうして、部屋で腐っていたんだ――のに、次々と浮かんでくる謎はそいつをどんどん相対的に矮小化わいしょうかしていく。


 ――いったい、何をしに来た。

 互いの目の奥を探り合う、永い一瞬の末。最後に頭に浮かんだことばこそ、最大にして根源である疑問だった。

 しかしそいつも口から出て来てくれる様子がない。それが面罵混じりでならばあるいはするっと、それこそドアを開け放つなり吐き出せたかもしれない。だが付帯する状況のあまりの不可解さに怒りを押し流されてしまった今、そこにどういった感情を乗せていいのかもわからなくなっていた。

 たまらず外す視線が先輩の頭頂部を通ってひさしに張る蜘蛛の巣へ、そして雨に煙る景色へと彷徨い始める。

 ポーズだけでも憤懣ふんまんを表して怒鳴りつけるべきなのか。

 疑問からも目の前からも目を逸らし、何事もなかったようにそっとドアを閉めるべきなのか。

 それとも矢継ぎ早に問いかけてでもひとつひとつ浮かぶ謎をつまびらかにしていくべきなのか。

 怒りというシンプルな原動力を奪われたせいで変に冷静というか、心をちょっと遠くに置けてしまったがゆえに、この後の立ち振る舞いに悩む。閉じた口の中で思案のうなりを噛み殺しているうち、不意に鼻をすする小さな音が聞こえた。


 ――よほど、寒いんだろう。

 長い沈黙がやっと終わってくれたって心地は、潜水の果ての息継ぎで水面から顔を出せた瞬間のそれとよく似ている。ふっと緩んだ心がつい再び、首と視線を先輩の方へと向けてしまった。

 そこにあったのは、待ち構えていたように位置の変わらない、彼女の両目。俺が目線を泳がせている間にも、変わらずじっとこちらを見続けていたのだろう。虚ろさすら覚えるその佇まいにはあまりに似合わない不動の瞳からは、奥底の心情をうかがい知るなど到底出来はしなかった。

 思わず引いた視界が代わりに伝えてきたのは、羽織るコートの色が変わって見える程雨に濡れてここまで来たという事と、厚手の生地越しにも明らかにわかる震え。腕に傘を下げてもいなければ、バッグに折り畳みを忍ばせている様子もない。一志と電話しているうちに、気付けば雨もずいぶんと勢いを増していた。最寄りのバス停から歩いてきたとしても10分。小柄で華奢な先輩の体温を奪い去るには十分だ。

 俺がここでドアを閉めてしまえば、倍の時間この雨空の下を歩かせることになる。更に体を濡らしてとぼとぼ帰る先輩の背中を想像したところで、受けた惨めさが払拭されるわけでなし。むしろ良心の呵責が上乗せされて所謂いわゆる『行って来い』にすらならない。あるいは――

 すでにを探し始めている頭に、今度は控えめにだが諦め悪く連打されたインターホンの音が脳裏に蘇った。

 拒絶したところで踵を返すこともなく、俺が再びドアを開けるまでじっと立って待っているという可能性も捨てきれない。それはそれで別の意味で気が気じゃなくなること請け合い。だろう。

 つまるところこちらの心持ちがどうであれ、おいとまを願うのは下策ということか。

 いやしかし……とあれこれ悩んでいるうち、階下から砂利を撫ぜるタイヤの音が近づいてきた。途端にびくりと肩を振るわせながらそちらを睨む先輩に続いて手すりから駐車場を見下ろと、見慣れたグレーの上よ写が降る雨に2色の光を反射させながら、等間隔に引かれた白線の間に収まろうとしている様が目に入る。

 確か、持ち主は隣の人だったか。仕事だか買い物だかを終えて帰ってきたのだろう。やがてドアの開け閉めと、一斉に車のロックが掛かる音が聞こえてきた。

 すなわち、後数秒でこの光景を見られるという事。


「……とりあえず、入って。そこ突っ立ってっと邪魔になるっしょ」


 追い打ちのように下から響いてきた階段を上る音が決め手となり、根負けのような形で先輩を部屋へと迎え入れる決断を下す。その努めてぶっきらぼうにした口調にもかかわらず、先輩は一瞬だけ顔色を明るくしてドアを支える俺の腕の下をくぐった。

 図太いのか、それとも最初から俺の方が折れるという確信があったのか。自分にも先輩にも呆れながら、肩の付け根に痺れを覚え始めた腕を離す。


「ちょっと待ってて」


 ゆっくりと戻るノブが小さな金属音を残して外界が隔絶された途端、胸の内に広がったある感情。そいつになんとも言えないものを覚えながら、先輩を玄関で待たせたまま洗面所へと走り、腰高のチェストから適当なシャツとタオルを数枚引ったくった。

 いくらなんでもびしょ濡れのまま部屋に座らせるわけにもいくまい。クローゼットから取り出した部屋着のスウェットも一緒に小脇に抱えて玄関へと戻る途中、全身鏡に映る自分の顔が目に入って、思わず足を止める。

 

 ……なんでちょっと顔が緩んでんだよ。お前。

 誰に見せるわけでもない、格好だけの唾棄。だが鏡の中の自分に投げかけたそんな疑問には、最初っから答えが用意されていた。

 今となっては先輩は自分にとって、利用した挙句価値を否定してきた仇敵に過ぎない。だというのにそんな彼女をなし崩し的とはいえ部屋に入れた瞬間、覚えたのは確かな安堵だった。

 それは今を以って誤解を受けそうな光景を隣人に見られずに済んだからだと半ば強制的に自分を騙して、やっと見返す瞳から顔を剥がす。

 

「使っていいよ。その間に部屋片付けっから」


 玄関へと戻り、取ってきたタオルの1枚を床へ広げながら顎で風呂場を指すと、先輩は僅かに逡巡を見せた後、おずおずと靴を脱いでタオルの上に足を乗せた。それから提げているバッグと引き換えに着替え諸々を渡そうとした拍子に、手の甲が氷に触れたような冷気を捉える。

 それは冷え切った先輩の指先が伝えてきたものだった。思わず上げる顔に先輩が視線を合わせ、その冷たさが次第に手の甲全体を包んでいく。


「……そういうの、いいから!」

 

 俺の手を握ったままゆっくりと目を細める先輩に語気を強めて、無理やりに指を離して背を向ける。そうして部屋に戻った少し後、間を空けて聞こえてきた風呂場のドアが閉まる音とシャワーの水音をバックに、ベッドに腰掛け深く溜息を吐いた。

 そうして深い呼吸を何度も繰り返し、手の甲を擦って覚えた感触を上書きする。どうせあれも、何かの目論見があった上での布石に過ぎない。


 期待をするな。

 どうせそいつも裏切られるのがオチなんだから。


 強く心に言い聞かせて立ち上がり、広げたレジ袋を片手に散らばるゴミを放り込んでいく。

 これくらいシンプルに整頓できれば、楽なんだけど。

 勢いのまま一緒くたに入れてしまったペットボトルを取り出しながら、ふとそんなことを思っていた。

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