『拡張する雑音の中で』

 一志が見ておらず、俺だけが見た先輩は奴へ深い感謝を述べていた。

 そして俺が見ておらず、一志だけが見た先輩は奴へ不快を露わにした。

 文殊にひとつ足りない頭をその当人がいない所でいくら捻らせても、ふたつの現実の合間にある矛盾という溝が埋まることは決してない。当然その真意を推し量ることも出来ないまま、気付けば店員がラストオーダーを取りに来る時間となっていた。


「まぁお前もあり得ないって言ってくれるってこたぁ、やっぱり何かの間違いなんだろな。ちょっと安心した」


 伝票を片手に欠伸を噛み殺す店員を丁寧に追い返し、温くなったビールを一気に空にした一志が口早に結論付ける。

 唯一の解放とも言える、『すれ違った女の子が先輩ではない』という可能性。だが未だそこへと繋がってくれる要素は何ひとつとして出ていない。

 ……にも拘らず、そして俺の同意を待つ間もなくうんうんと頷く一志。恐らく、そう結論付けることで少しでも安心を得たい、というのが本音といったところだろう。

 そいつを重々承知したうえで、狡くヘタレな俺は頷きを重ねてやる。

 わざわざ無意味だと断じてまで波風を起こす意味も度胸も、そして誠実さも持ち合わせてはいなかった。


「きっとそうだな。どうしても気になるってんなら来週先輩に直接聞けばええやんけ」

「それまでに心の準備が出来ればな。4って案外結構すぐだぜ」

「はは――」

 

 同情を込めた半笑いを返そうとして、釣り上げた頬が途中で止まる。そんな俺に一志は器用にも傾けた眉だけで疑念を表してきた。半分座ったまぶたの上に乗っかっていると、なおの事その急角度ぶりはあからさまに見える。


「いや、3日だろ?」


 後期日程に入ってからの俺達の1週間は、火曜の昼休みにいつもの喫煙所で顔を合わせる事から始まっている。終わろうとしている今日が土曜、そこから火曜日までは3日。小学生じゃあるまいし、本来わざわざ数えるまでもない。


「火曜日お前休む気なん?」


 ならば今週はそこに居合わせる気がないのかと確認を取ってみるものの、怪訝さに曇るその表情を見る限り単なる計算違いというわけでもないらしい。

 かといって他に理由も見当たらない。二の矢をつがえられないまま首を傾げる俺に、ワンテンポ遅れてやっと得心した様子の一志が大口を開けてあぁ、と頷いた。


「お前ら金曜は午前しか取ってないもんな。竹センの講義来週全部休みよ」

「マジで?」


 竹セン、というのは俺と先輩が火曜日の1限に取っている講義の教鞭を執る教授の事だ。講義自体は熱の入ったもので彼目当てにウチの大学を受けるファンもいるほどだが、不真面目な生徒をあぶりだす出席大好き教授としての一面はいつぞやのじいさん教授と肩を並べるレベルとの声が高い。

 そんな彼に突然出張が決まり、休講の知らせが午後一番で学務棟の掲示板にその旨が張り出されたらしい。なんでも文科省肝煎りのシンクタンクからお呼びが掛かったとかなんとか……。

 そんな伝聞をそのまま話す一志、そして又聞きの形で聴いている俺。生憎と両者共そのあたりの知識に明るくないせいで、どうにもふわふわとしたまま話題が収束する。

 それでも、とにかく火曜日の朝は早起きしたところで無意味だということだけは分かった。


「んじゃ先輩にも教えないとな。無駄足になっちゃうわ」

「その方がいい……って言っても、あの子の事だから几帳面に他も出るかもだけどな」

「にしても、よ」


 先輩もその後にはひとコマ抜かして午後の講義しか取っていないはずだ。春先にシラバスを眺めながらスケジュールを合わせた記憶がある。そのおかげで彼女が忙しくなる前は、よく月曜の夜遅くまで会えていた訳だし。

 ともあれその休みを事前に教えてあげれば、先輩には半日の猶予が生まれることになる。忙しい身の上で朝イチの電車に揺られ、挙句午前中いっぱい暇を持て余すくらいなら、その分をインターンの仕事なり睡眠に充てた方が有意義だろう。

 テーブルの端に置いていた端末を拾い、画面のロックを解除して――


「あれ、今連絡せんのん?」


 そこで動き止め、結局懐に戻した俺の指先を箸で指差す一志に頷きを返す。


「……もう遅いし迷惑かなと。明日にでも送っておくわ」

「ふーん」


 ほんの数秒、店の天井の隅に目をやりながら浮かべた言い訳を口にする俺に、一志は低く鼻を鳴らしながらビールを喉へと通した。上げた顎を戻す合間、一瞬こちらを伺った奴の半眼は、何か含みを持っていたように映った。

 ――かも知れない。

 当たり前の話だが、先輩は今俺が一志と一緒に居る事は知らないはずだ。とすれば連絡を見たという返事が電話で返って来る可能性はゼロではない。最近は頻度も減ったが、時折眠れないと弱音を吐く彼女の話し相手を務めるのもだいだいこの時間だし。

 ともあれそうなった場合、目の前の一志に合わせるため『友達』として対応するか、あるいは電話の向こうにいる先輩の『彼氏』として喋るかという二択を迫られた挙句、どちらの顔を見せても窮地に陥る羽目になる。

 というか俺が第一声を発する前に甘えた猫撫で声のひとつでもスピーカーから漏れようもんなら、その時点でアウトだ。

 ソイツを危惧して咄嗟とっさに回避策を取ったわけだけど、何せ急だったもんで粗が目立ったかもしれない。

 その上一志の顔はすでに寒さとは違う意味で赤く、そして酔いは自制を鈍らせる。俺の煮え切らない態度に痺れを切らし、寛大な待ちの姿勢を崩して切り込んでくる事も考えられた。そうなってもまた、詰みだ。

 閉じた口の中で奥歯を噛みながら横目に出方を見るが、替えられたグラスをいそいそと手に取る一志からは、一向に追及の手が伸びてくる様子はない。


「つうかもうてっぺん近いなホントに。そろそろ出るべか」

「あー、そだねぇ。後は家でなんか飲むか」


 間をおいて代わりに向けられたのは、そんな退店の促し。そっけない返しとは裏腹に、ここぞとばかりに脇に置いていた上着をいそいそと着込む。

 内心で馬鹿でかい息を吐きながらポケットに突っ込んである財布を出そうとしたもんだから、奴が浮かべる苦み走った半笑いに気付くのが少しだけ遅れた。 


「んでもま、お前がいない所だとちょっと対応違うのはホントだけどな」

 

 席を立つ間際、思い出したように投げかけられたその一言に、一瞬で首根を掴まれたような心地を覚えた。

 奴にとっては今日の話を総括するついでのちょっとした皮肉、最後っ屁だったのかもしれない。だが半ば逃げ切れたと油断していた俺の背後を覿面に突き刺すには、それこそ充分すぎるほどの鋭さを帯びていた。

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