『バターの香る部屋で』

「んぁ……」


 何度目かの二度寝から引き上げられた意識が勝手に瞼を持ち上げ、形にならない声を漏らしながらベッドから身を起こす。軽く握った手の甲で両目を擦るが、視界は暗闇に支配されたまま。

 未だに回転数の上がらない頭で遮光カーテンを開け、不意に出たあくび。目尻にたまる涙で輪郭を失う街灯の光を見て、そこでたっぷり夜まで寝落ちをカマしてしまったことに気付いた。

 2~3時間の仮眠のつもりが、思いのほかガッツリ寝てしまったっぽい。美恵先輩との一件といい、和也の急な来訪と言い、……といった事態が立て続けに起きたせいで、頭も体も思いのほか疲れが蓄積していたらしい。

 土曜日はバイトのシフト入れて無くて良かった。よしんばアラームを掛けていたとしても起きられたかどうかわからない。勤務態度だけは一応真面目で通っている。ブッチだけは避けられた事が唯一の救いだった。

 ……ていうか。

 具体的には今何時よ?ベッドから抜け出し手探りで端末を探そうとして、喉に引っ掛かるような渇きを覚えてせき込む。

 どうやら大口をかっぴらいて寝ていたらしい。テーブルに向かいかけた足をひるがえし、段々と暗闇に慣れてきた目でチェストやドアの段差を避け、冷蔵庫のノブに手を掛ける。


「……っはぁ」


 開けっ放しの庫内灯に照らされたまま、扉に立てておいたペットボトルのウーロン茶を一気に飲み下してひと心地。胃に下ったはずの冷たい流れが頭に残る眠気のもやまで取り払ってくれた。

 それで頭が幾分しゃっきりしたのはいいが、どうも同時に空腹まで思い出したらしく、急に胃をつねられるような空腹が襲ってきた。まだ端末を見てはいないけど、これもしかしたら結構な深夜なんじゃないか……?

 続け様に鳴りだした腹に急かされ、再び頭を突っ込んだ冷蔵庫からチルドタイプのラーメンを取り出し、足で扉を閉めながら上に備え付けられたレンジを開けた。一昨日のシフトで貰ってきた廃棄の食べ忘れだが、まだイケるだろう。

 それまで耳が痛いほど静まり返っていたダイニングに一定の低い唸りが生まれ、閉じた冷蔵庫と入れ替わりにガラス扉1枚分ぼんやりした光が顔を照らした。ついでに回した換気扇の下で短い一服を済ます。

 慣れとは恐ろしいもので、ここまでレンジの光しかなくて困らなかった。そのせいで出来上がりを知らせるチャイムに煙草を消して割り箸を探し始める段まで、明かりをつけるという意識すら飛んでいた。

 端末を弄ってキッチンとついでにリビングの照明を入れ、流しに置いたままのレジ袋の中に入れっぱなしだった割り箸を探り当てる。


「あ」


 そいつを湯気の立つラーメンと一緒にリビングに持ってきて、そこで初めてテーブルの端に鎮座する異物に気が付いた。丁寧に何重にもティッシュで包まれ、掌に載せるとその小ささに反して意外な重みを主張してくる。

 なんだったっけ、これ……?

 一応慎重に中を開くと、ほんのわずかにピンクを混ぜ込んだシルバーに包まれた小さな文字盤が顔を覗かせた。音もなく時を刻み続ける文字盤を眺めているうちに、数時間前の記憶が蘇ってくる。

 和也と別れて部屋に入った後、急激に襲ってきた倦怠感と睡魔。そいつに負けて着替えどころかジャケットも脱がずにベッドへ倒れ込もうとして、ポケットに入れたままの先輩の時計こいつを思い出した。

 居酒屋で忘れていったの、結局ホテルでも返しそびれたんだった……。

 多分、恐らく、きっと、俺のバイト代程度じゃ賄いきれないほどのお高い逸品。丁重に扱わなければと必死に眠気と戦いながらティッシュでくるみ、そこで力尽きたんだっけ。

 ならもうひと頑張りして日の高いうちにすぐ連絡入れておけば良かったものを……肝心なところで面倒臭さと眠気に負けた昼間の自分を恨みながら、しばらく秒針と睨み合う。

 時刻はとっくにてっぺんを回り、そろそろ1時を迎えようとしていた。普通の間柄ならこんな夜更けに連絡するのは失礼にあたる。

 でも、今頃必死になって鞄をひっくり返しているかもしれない。

 もう一度開いた端末には今をもって先輩からの着信はないあたり、もしかしたらさほど大切なものではないのかもしれない。

 だがをした後だ。失くしたことにすら気付いていない、あるいは俺に確認を取ることもそれも忘れるほど、血眼になって探している可能性もゼロではない。

 いっそ、素知らぬふりして週明けにぱっと返してしまうか。

 いやだめだ。万一現場を一志に抑えられでもしたらいよいよ言い訳が効かなくなる。

 いや、でも夜中だしなぁ……。

 とっくに湯気が消え、汁を吸い始めて伸び始めているラーメンに脇目も振ることなく、思考は延々と堂々巡りを繰り返す。




 ――それでも不安で寝れないってんなら、そん時はまぁ、話し相手くらいにはなりますよ。




 連絡するべきか否か。

 その間を幾度目か思考を往復させた後、ふと居酒屋で自分が放った言葉を思い出していた。

 少なくとも口にした時点では社交辞令……というか、先輩の悩みがもたらす弊害への対症療法として口にした言葉であり、そこに深い意味を持たせたつもりはない。なにも即日で律儀に履行する必要もない約束だった。

 あの時直後に気付いた通り、寝る前の雑談ならメールなりSNSで充分だ。それをわざわざ言葉を交わすなんてこと、普通の友達なら今時ごくごく少数派の行動といえる。


 だが、今の俺と先輩は。


 喩え頭の中でも、それより先をことばにするのは――自分ひとりでは――どうしても躊躇ためらってしまう。

 そうやって思考を棚上げする一方、指先は妙な緊張を覚えながらも、しっかりアドレス帳から先輩の番号を呼び出していた。

 この時間に電話するは、ある。

 そしてこの着信を先輩が喜ぶかどうかが試金石。あるいはもう寝てしまっていれば結論は翌日以降に持ち越し。普段の自分なら後者、灰色の決着こそを望む筈だ。

 いつまでも引き延ばしが続けばいい。そうすれば期待も失望もしなくて済むと、脇役気質丸出しで。

 でも今はどうにもそうではないらしい。スピーカーから鳴り続くコールの音は耳から通り抜け、代わりに頭の中はきしむスプリングと重なった心臓の音を思い出している。


 ともすれば今の互いの関係に確かな名前が欲しいのは、俺の方なのかもしれない。

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