『これを式日と言っていいのか』

 ――あ。今、どこだ?


 車内を呑気な口調で包むアナウンスが、アパート最寄りのバス停の名前をゆっくりと2回繰り返す。沈みかけていた意識を引っ張り上げられ慌てて窓の外へ目をやると、切れた雲間から傾き始めた太陽が顔を覗かせていた。照らされる見飽きた景色が今まさに動きを止めようとしていると悟り、慌てて隣の席に放っておいた鞄を手繰り寄せる。

 他に降りる人がいなかったら、完全に乗り過ごしてたな……。

 ダルさの満ち満ちる体を引きずり、名も知らぬ恩人の背中についてバスを降りる。アナウンスに負けず劣らずのんびりしたブザーを合図にドアが閉まると同時に、特大のあくびが胸の奥からこみ上げてきた。


「やっべ、眠っむい……」


 眦をこしこしと擦りつつ、つい口に出してしまう。そんなぬるい息を吐き終えた喉が僅かに渇きを覚え、道路の向かいにあるコンビニの看板にちらりと目をやる。

 ……ダメだ、パス。

 眠気、疲労、あと歩き始めてわかったけど結構な腰の痛み。肉体と精神のそれぞれが自宅への最短経路を僅かにでも外れることを拒否していた。

 こりゃあ家に着いたら即ベッドだな。駅で昼飯食っておいた自分の判断に感謝する。これから炊事とかどう見積もっても途中で寝落ち確定、下手したら消し忘れた火でアパート全焼の憂き目もあり得るところだった。この歳で……というか今後も一生臭い飯はご免だ。

 いや、それはさすがにないか。碌に働いていない頭が極端にさせる考えに思わず苦笑が浮かぶ。


 ――臭い、といえば。

 ふと思い出して顔に袖口を近づけてみると、生乾きの洗濯物みたいな悪臭がつんと鼻をついた。

 正確にはもっとひどい。洗ってない犬とか、こういう臭いするよな……そういえば駅でラーメンかっ込んでる時、隣に座ったリーマンが妙に怪訝な目でこちらをちらちら見てきたような気もする。

 ガウンに着替えてすぐに絞りはしたけど、ちゃんと洗濯したわけじゃない。あれだけ雨に打たれたものを一晩吊るしっぱなしにしたんじゃ無理もないだろう。それが昼過ぎになって、いよいよ雑菌が繁殖しだしたってところか。

 ワザとじゃないけど、悪いことしちゃったなあ。

 この分だと、駅で別れた先輩も知らない間に顰蹙ひんしゅくを買っているかもしれない。今更ながらの罪悪感を覚えながらついもう一度、今度は指先でまんだシャツの襟元に鼻を近づけてしまう。臭いって重々わかっているけどつい何度も嗅いでしまうって、一種のあるある……だよな?

 風呂で体を――それこそ入念に――洗っていたことで、油断していたのかもしれない。シャツと鎖骨の間に滑り込ませた鼻先が、普段使うものとは異なる嗅ぎ慣れない石鹸の匂いに交じって、ほのかに甘い臭いを感じ取った。 

 それこそで、夜明けまで絶えず覚えていた、香水だか化粧水だかの匂い。あれだけ肌擦り合わせてりゃ移りもする、か。

 嗅覚と記憶の結びつきは強い。それとほとんど連鎖的に温度とか、声とか、柔らかさとかが次々と脳裏に蘇ってきた。


「やーっちまった、なあ」


 いや、不謹慎だろ。

 思わず立ち止まって零したぼやきに、脳みその別側から即座に突っ込みが入る。

 別に、昨日の出来事に対して後悔を覚えいてる訳じゃない。思い上がりと言われればそれまでだが、頭のどこかで遅かれ早かれこうなるだろうという予感はあった。

 俺には勿体ないくらいのルックスとやや抜けているところはあるが聡明な頭、人好きのする性格、何よりにアルレディ好き共通の価値観。更に近づけたことに対する不満なんて抱くはずもない。

 ……にも拘らず、心底から喜び切れないのは、なぜだろう。

 はっきり言質を取ったわけじゃない。でも間違いなく先輩との間柄は、もう友達というくくりではまとめられないものへと変わった。その上で、明日からも変わらず馬鹿な話で笑い合えるかって不安からだろうか。

 いや、違う。

 互いに気を遣っていたところはあるかもしれないが、ホテルを出てから駅で別れるまでの間、そんなぎこちなさは一切覚えなかった……どころかこっぱずかしい話、改札までの間どちらともなく繋いだ手を、互いに離そうとはしなかった。

 ならば先輩が意外にも初めてじゃなかったから?あんな表情を知っているのは俺だけだって独り占め感を否定されたことか?

 それも、違う。

 一志じゃあるまいし、そんなところへ重きを置いたり、あまつさえ信仰を抱いた覚えはない。

 自分の内側の事なのにこの上なく不透明。そんな感覚に焦りにも似た何かを覚え、知らず歩が早まる。

 だったら、きっかけの成立事態がどうしても、重なった偶然に乗っかった形に見えてしまうからだろうか?

 ……さっきよりは近づいたが、それも正しいとは言えない気がする。

 論拠はない。それ以前に言葉では言い表せない。だがなぜか乗っかった、というより、乗せられたって感がどうにも――


「痛ぇっ!」


 額の上から鈍い音が響き、反射的に閉じた瞼の裏に光が弾ける。

 下見て歩いてんじゃねえ、という電柱様の手荒い洗礼を頂き、激痛に頭を抱える。考え事がドツボにはまっていたせいで、知らず知らずのうちにうつむいていたようだ。

 しばらく悶絶した後、ヒリつく額をさすりながら顔を上げると、慣れ親しんで久しい薄灰色の外壁と、カバーを掛けたままのバイクが視界に収まった。

 結構長い間悶々としてたんだな……カギを取り出そうと鞄をのぞき込む。

 すると底の底へと隠していた、例の白一色にシンプルな書き文字で装飾された箱と目が合った。こ奪い取って見る奴などいるはずもないが、それでも隠すように突っ込んだことで形が崩れ、半開きになったその口から鈍く光を返す正方形の袋がこちらを見返している。

 一晩だけで5個入りをラスト1個まで減らすのは思ってもいなかった。半分は俺のせいだが、明け方になっての残り2回は向こうのアンコールに乗った形。そら腰も痛くなるってものですよ。

 いっそ捨ててきても良かったのかもしれないが、そこは貧乏性の悲しいところ。

 あるいは、またの機会があることを薄々感じているのかも――さっき嗅いだ臭いも手伝って、無意識に下っ腹に熱を覚える。


「あ、帰ってきた」


 それとほとんど同時、しかも不意に背中から声を掛けられ、反射的にビンっと伸ばした背筋が嫌な音を立てた。声にならない叫びを上げながらも速攻で鞄のファスナーを引き、それから恐る恐る振り返る。


「……和也?何してんだ?」


 パーソナルスペースから一歩踏み込んだ、無遠慮ともいえるその間合い。

 そこにあったのは、数か月ぶりに見る弟の顔だった。

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