『一箭双雕』

「どうしていきなり……?」


 意味が解らず当惑する私を尻目に、院長は僅かに奥へと引っ込んだドアに手を掛ける。


「顔認証だよ。君の意思がないかぎり、中にある切り札は誰の手にも渡らないということだ」


 ――たとえ私であってもな。

 腑に落ちた、しかしどこか寂しそうな口調で続けた院長が手に力を籠める。狭いスペースを考慮しての事か、こちらは横にスライドする方式のもののようだ。

 外から伺えるコンテナの古臭さとは裏腹に、僅かなスキール音もなく中への口が開く。その手入れの行き届きようまるで、待ち人の来訪を確信していたかのようだった。

 そうして開いたドアの先を一目見た院長の体が強張った様に固まり、私も思わず顔を顰める。


「……っ!」


 ――眩しい。

 先に入ったコンテナ同様、2重のビニールを越してなお強さを保ったままの光が両目を直撃した。


「なに、これ……」


 未だ残光のちらつく目をゆっくりと開きながらこぼす。院長も未だその場から動いていない。

 彼もまた不意の目くらましに長く足を止められていると思っていたが、それだけではないらしい。

 ようやく中の光に目が慣れる頃、後ろに立つ私にも聞こえる程に息を呑むのが聞こえた。


「馬鹿な!」


 そして僅かな間を以って突然上げた驚きの声。何事かと踵を上げ、屈んだ彼の肩越しに中を見やる。そこには天井一面を覆う煌々としたライトの光の元、床の7割以上を占める水面を埋め尽くす薄桃色の花が絨毯を作っていた。

 エメラルドを思わせる透明な緑の茎が吸い上げた清水は、花弁の上に遠慮がちに座っている膨らみかけの果実にたっぷりと送り込まれているのだろう。瑞々しさを感じさせるその身に、更に細かな水滴を纏わせている。

 そこに反射する光が無数の煌めきを生み、漏れ聞こえてくる水のせせらぎも相まって、その光景は見る者に異なる世界へと足を踏み入れた錯覚すらもたらしてきた。


「アンブロシア……」

「有り得ん。栽培方法は、まだ確立されてい無い筈だ」

「そう、なんですか?」

「分かっていれば、いちいち化石から再生なんて――」


 口調を早くし、興奮のままビニールを潜った院長が、再び動きと言葉を止める。


「どうしました?」

「いや、中が恐ろしく寒い。こんなの植物を栽培する温度じゃあないぞ……」


 ビニールの向こうで肩を震わせる院長の吐く息が白い。恐る恐る足を踏み入れると、すぐさま顔や首筋を突き刺すような冷気が襲った。

 ブラウスと体を貼り付けていた汗が瞬時に熱を失い、逆に肩を震わせる程の低温。アンブロシアの根を潤す水も、奥の壁面に備え付けられた循環機器が止まれば途端に凍ってしまうだろう。


「これが、生育の条件、というわけですかね」


 奥歯を鳴らしながら訪ねる私に、院長も自分の肩を抱いて答える。


「少なくとも……枯らせるつもりならともかく、普通に考えればこんな温度で植物をなんて発想には至らんだろうな」


 コンテナはその中央をアンブロシアの栽培スペースが独占し、外縁に沿って歩けるように循環機器以外の機械や棚は置かれていない。

 しかし唯一、入口から見て部屋の左最奥に、膝下程度の高さの引き出しがぽつんと置かれていた。

 袖口を伸ばして指先を覆い、冷えきった取っ手に手を伸ばす。入口の厳重さからかそれ自体には鍵がなく、軽く引くだけで簡単に開いた。


「これだ……」


 その中に収まっていた2冊のノートを取り出し、院長に見せると、彼は寒さを忘れたように震えを止める。


「まさか、それは」

「院長の方が、美恵がどれくらいの進捗を纏めているかの見当がつくかと」


 言いながら手渡した赤いノートを開いた院長の目つきが変わり、食い入るように読み込み始める。その様を見ながら無駄と解っていても青い方のノートを開いてみると、丁度紙の折り目に私にも理解できる場所がたったひとつだけあった。

 ――このアンブロシアの生育方法だ。

 『確定済』と赤い丸の着いたページを見るに、やはりこの寒さと水温、そして天井にひしめくライトのように、日常には不必要と思える程に強い光量が必要らしい。

 交渉に向けてもうひとつ、栽培の方法という予想外の武器を手にできた。


「いいぞ。これくらい噛み砕いて説明してあれば私でも輪郭くらいは読み取れる。本職の人間が読めば研究の手順を追うことは出来るだろう」


 あちらも予想以上の手ごたえがあったようだ。ノートを閉じた院長の口ぶりには隠し切れない喜色が伺えた。


「じっくりと読み返したいが……いかんせん、ここは長居に適さんな」


 すっかり芯まで冷えた体で同意し、2人して一度外へと戻る。


「肝心の進捗はどうですか?」


 訊ねる私を前に、院長が手に持つノートを後ろから捲り、やがてその口から小さな溜息が漏れた。


「……いや、やはりあの子がハイチに行く直前で止まっている」

「ということは、投与された人間を目覚めさせる手掛かりなどは」

「書いてないな。というよりも彼女の見立てでは、目星をつけた植物が正しい反応を示せば、それで蘇生薬は完成すると捉えている。眠ったまま目覚めない、というケースが発生することを予測しているような節は読み取れん」

「前進したわけではない、か」


 思わず落胆を浮かべてしまうが、院長は私程気落ちしてはいない様子だった。


「そうでもない。栽培方法と研究の手順さえ共有できれば、最低でも手数勝負には持っていける。現状より遥かにマシさ」


 それに、院長は続けようとしてその顔を曇らせる。


「……ハイチで見つけた件の植物が有効に作用するという事は、石井達也君と彼女が身を以って証明してくれたわけだしな」


 冷えきった体がもたらすものとは異なる意味合いで奥歯がぎしりと鳴る。大きな発見だが、眠り続ける美恵を相応の代償という言葉で片づけることは出来ない。


「美影君、そっちのノートを見せてくれないか。恐らく君が持っている方は催眠状態を解く防止薬の研究をまとめたものだろう」


 切り替えるように手を伸ばす院長へと頷いてノートを手渡すと、彼はさっきと同様に恐ろしい速さで読み解き始めた。4秒も待たずページを捲る指を見て本当に内容を追っているのか疑わしくなるが、一瞬も止まることなく左右する目線がそれを否定している。


「なるほど、アンブロシアのどの成分が作用しているかの見当がつかないから、いっそ、というわけか」


 内容の理解できない私では肯定も否定もできない。だが彼は疑心のひとつもなく得心した様子で、なおもせわしなく目と指を動かしていた。


「む」


 しかし、しばらくして怪訝なその声と共に手の動きが止まる。


「どうしました?」


 彼は答えず、代わりに開いたままのノートを目の前に広げてきた。

 左側は膨大な文章と図説で白地を埋め尽くされており、右側にはノートの終端を告げる裏表紙の光沢が丸く車の室内灯を反射していた。


「あれ……」


 その境目、ノドと言われる部分によく目を凝らしてみると、破られた後と思しき紙の繊維が所々に見え隠れしている。


 ――まさか。

 悪戦苦闘の末、やっと掴んだ綱が手からするりと抜けていく。

 そんな悪寒が胸を過った。

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