『能事畢矣』

「また、駄目、だった……」

「お父さん!」


 掠れ切った声が、ひとりでにこぼれていく。

 そこにポーズを忘れた美恵の悲痛な叫びが重なり、気付けば今度は私の方が美恵の裾を握り込んでいた。


「今朝は確認を取ると言っただけじゃないですか!それなのにこんな意地の悪い質問で試すなんて……」


 それに呼応してくれたように、彼女は早口で社長へと詰め寄る。


「事前に詳細を言わなかったのは美恵だろう?」


 だが、社長は風に柳と言った様子でその剣幕を難なく受け流し、口元には半笑いを浮かべていた。それを見た美恵が更に激昂し、裾を握る私の拳を上から握って、更に語調を増す。


「それはおと……社長を交えて資料と一緒に説明した方がいいと思っただけで……第一、そう!美影がどう答えた所で、正解かどうかなんて胸先三寸でどうにでもなる!それにしっかり説明をすると言いながら、あなたは単位脅しただけで――」


 感情を思い切り乗せてまくし立てるその様は、普段の泰然さをかなぐり捨ててまで、どうあっても私を失えないということを全身で表現している。

 ……例えそれが自分の思い上がりであっても、ただ嬉しかった。

 


「美恵……もう……」

「何言ってるの!」


 だが、これ以上論戦を交わし、万一社長が美恵にまでマイナスの感情を抱いてしまえば、もしかしたらプロジェクト自体がご破算になってしまうかもしれない。

 恩人の行くべき道を閉ざしてしまうことだけは、何としても避けたかった。

 私が絞り出した声を遮るように――社長の耳に届かないように――美恵が叫び、私の両肩を抱いて激しく揺らす。

 そんな私達を視界の中心に収めたまま、社長は相変わらず口の端を釣り上げていた。悠然と残っていたコーヒーで喉を潤し、思い出したように口を開いた。 


「うん、だから

「「……えっ」」


 それはあまりにもあっけらかんと言い放なたれた、合格の合図。今度は私と美恵の声が重なる。


「何を早とちりしてるんだい?というか、確認を取るとは確かに言ったけど、間違えたら失格なんて、誰か言ったっけ?」


 思わず顔を見合わせる私と美恵の前で、社長は我慢の決壊を迎えたかのように吹き出した。


「いやー、さっきは美影さんのぶっ飛んだ一言に驚かされたからねぇ。お返しー」


 満足のいくリアクションに手を叩いてまで喜びを表す社長の様子は、少年というよりはもはや悪童のそれだった。


「……全く!」


 眉をハの字に曲げて悪態をつく美恵。その横にいる私と言えば、彼に認められた事への実感が湧き上がっていく共に全身の力が抜けていき、ソファへと崩れ落ちていた。


「あらあら……大丈夫?やり過ぎた?」

「ちょっと、大丈夫じゃないです……」


 ばつの悪そうな顔で私の肩に手を伸ばす社長の手が美恵によって強かに払われ、その代わりに彼女の手が優しく私を起こす。


「そんな怒んなくてもいいじゃん……でもまぁ、実際大筋としては合ってたんだよ。よくあそこまで組み立てたね」


 よほど痛むのか、払われた手を押さえながら呟いたフォローに、ようやく再び顔が前を向いた。


「確かに蘇生薬の基礎理論は完成している。でもそれだけじゃ完成が確約されたとは言えない」


 おふざけはここまで、と仕切り直しを示すように社長が立ち上がり、自分の机へと歩いていく。備え付けられたチェストを探って戻ってきたその手には、2束のレポート用紙が握られていた。

 テーブル上を軽く拭いてから目の前に置かれたその表紙を見るに、それぞれ何かの論文のようだ。


「これがうちの研究員が書いたもので、こっちが美恵の書いたもの。ちょっと読んでごらん」


 促されるがまま、それぞれを手にとって眺めてみる。

 ――が。いかんせん知識のない私には何を指し示しているかの見当すらつかなかった。理解できる事と言えば、やたらと枚数が嵩張かさばっている研究員のものに対して、美恵のものはその半分以下の厚みであるということくらいだ。


「専門的な単語は分からないだろうから流し見で構わないけど、これ、同じ薬品について語ったものなんだ。ざっくりと言えば、美恵はこの薄さでより正確かつ簡潔に書き、更には新たな可能性まで示唆している」

「これが……同じもの?」


 社長は間を置かずに頷くが、俄かには信じられず両方を手に取って同時に捲る。

単語ではなく文脈を追っていくと、行われている実験の回数も美恵の方はずっと少なく、しかも全く違う手法を取っていることが読み取れた。


「両方ともうちの機材を使っているから、設備の差はない。どうもうちの娘は着眼点から違うようなんだ。僕にもどうしてこういう手順を見出して結果を出せるのかの説明がつかないほどにね」

「私としては、もっともシンプルな手法だと思うものを採ってるだけだけど……」


 美恵本人はまるで自覚がないのか、理解できないといった様子でお代わりのコーヒーを入れながらぼやいている。

 無自覚の天才……段々と私も、社長の言わんとすることの輪郭が見えてきた。


「一般に公開する論文でこの調子なもんだから、目下研究中の蘇生薬に関するあいつのノートは誰が見ても解読不能。つまるところ、美恵が実験室に居座らない限り、研究は全く進まないって訳さ」

「最後はちゃんと論文に纏めます!」


 明らかに論点を履き違え、どこか明後日の方向に口を尖らせる美恵に、社長は苦笑を浮かべる。


「あぁ、それで……は出来ない、と」


 いくら美恵が優秀な頭脳の持ち主であっても、その体はひとつだ。

 経営者の名に恥じない学歴を手にする一方で、まるきり未知の領域にある新薬の開発を行うには、物理的な時間が圧倒的に不足するのだろう。


「そういうこと。製薬業界って先にやったもん勝ちの面があってね。もし美恵がこのまま経営者としての道を進み、薬の開発はそれが落ち着いた後……なんてなると」

「研究が止まっている間にどこかに先を越される恐れがある……?」


 差し挟んだ合いの手に、社長は肩をすくめて同意を示す。


「そうなればそれまでかけた労力と資金は丸無駄さ。限りなく可能性は低いけど、ゼロじゃない。だからこそ、まだ机上の論理に留まっている今の時点で、決断を下す必要がある訳。ここから先は実際に金と人とモノを動かさなきゃならない。会社として推進して、それがリターンのあるものかどうかはっきりしない限り、軽々しくゴーサインは出せないってこと」


 ……人類の夢を前にして、世知辛い話なんだけどね。

 そう締めて社長は、一旦その口を止めた。


「――美恵はどこから、この着想を得たの?」


 業界に関する知識も持ち合わせていない私は、まずそもそものスタート地点から問うことにした。

 御伽噺でしか見たことのないアイテムを現実に呼び出す。それが出来るという確信を美恵はどこから得たのか。ずっとそれが気になっていた。


「丁度10年前に話題になった『化石から植物を再生した』ってニュース、知ってる?」


 一拍の間も置かずに口を開く美恵。少し調子が早くなっているのは、彼女の関心の深さを表しているように思えた。


「知ってる。どこのテレビも新聞もしばらくもちきりだったから……って」


 自分の言葉に記憶を呼び起こされる。

 私がここの正門、そして目の前で私を見据える男に見覚えがあったのは、まさしくそのニュース中継で繰り返し、飽きるほど見たからではないか。


「良かった。10年じゃ思ったほど老けなかったみたいね。僕」


 冗談めかして笑う社長を視界に入れないまま、美恵が続ける。


「再生した植物の調査結果の中に、偶発的ながら活動を止めた細胞を再び活性化させる現象が見られたの」

「まさか、それも美恵が……?」


 つくづく、彼女のスペックには驚かされてばかりだ。想像もつかない世界の話に目を丸くする私を見て、美恵は慌てて頭を振った。


「違う違う。そのころ私幼稚園児だよ?同い年でしょ?」


 笑いながら否定する美恵の文句に、私はそんな当たり前の事すら忘却していたのかと恥じ入る。いかに彼女のスケールが途方もなく大きくとも、流石に時間まで飛び越える事はできないだろう。

 ……恐らく。


「少し捕捉すると、再生の実験は多種多様な化石で行っていたんだ。でも再生に成功したのはこの一種だけ。あるいは自身に『そういう作用』を持っているからこそ、その植物だけ現代に蘇ることが出来たのかもしれないけどね」

 

 再生。

 細胞の再活性化。

 現代に


 美恵の夢を連想させる言葉が端々に混ざり始め、ぼやけていた輪郭と実像が眼前に結ばれていく。

 それは見果てぬ高さの山に掛かる霧が段々と薄れていく様のように、確かな期待とある種の威圧を胸に満たしていった。

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