『大死一番』

 しかしその笑みも直ぐに消えた。彼の目は細まり、対象の価値を見定めるもののそれに変化する。


「わかりません、なんて返答はなしだ。この場において君は、自分に何を求められていると思っている?」


 ――試されている。それは確信に近い直感だった。

 恐らくここで彼の満足いく答えを口にできなければ、私はこれ以上この話に、いや、もしかしたら美恵そのものに関わる事を許されないだろう。

 しかし、今を以てその答えに見当がついていない事実に変わりはなかった。沈黙が続くと共に胸が締め付けられ、心臓はその鼓動をどんどん早め、迷走する思考が白く染まっていく。


「……っ!」


 いつの間にか、視界の端に力なく開いた両の掌が映りこんでいる。

 伸し掛かる重圧に俯きそうになる頭を必死に堪えてはいたが、意識をそこに割くあまり両腕が制止を逃れていた。

 己の無力さを嘆くように、そして外界から覆い隠すように、両手は頭を押さえようその高度を上げていく。


 ――止まれ、止まれ!

 もはや論理を組み立てる事すら忘れ、意識は悪癖を押しとどめる事にのみ集中していた。

 今まで一度も自力で叶ったことのないその思いは、もはや誰に宛てているかもわからない願いに近かった。

 ……筈だったのだが。


「え……」


 目元まで手首が上がった時、不意に腰の後ろを何かに引っ張られた。予想外の刺激に体の動きが止まる。

 美恵は相変わらず強い視線を社長へと向けている。しかしソファと腰元の僅かな隙間で、その指先が私のスカートの裾を強く掴んでいた。

 そして、直に伝わってくる私以外には分からないほどわずかにだが、彼女の指先は震えている。

 

「失礼」


 目を閉じ、大きく息を吸い込み、後ろ手に美恵の手を握り返す。ただそれだけで頭の中が急速に澄み渡っていった。

 決して酸素を脳に送り込んだから、ではない。他の誰でもない美恵が、他の誰でもない私に助けを求めている。そのたったひとつの要素が迷妄を振り払った。

 頼って来る者ではなく、並び立てる者。

 あの日屋上で彼女が口にした、唯一持たざる、何よりも求めるもの。



 私こそがそうであると示すには、今を置いて他はない。



「未だに結論は出ていません」


 美恵が愕然とした表情でこちらを向くが、敢えて目を合わせはしなかった。一瞬たりとも隙を見せられる相手ではない。


「それじゃわからないのと一緒――」

「ですから、組みあがっている推論を聞いていただきたく思います。私が不要かどうかは、それを聞いてからにしていただければ」


 半ば失望したような社長の声を、今度は私が遮る。その声には自分でも驚く程の力強さが籠っていた。


「わーお……ここで人にそんな顔されたの初めて」


 社長が目を丸くするがそこに気分を害した様子はなく、むしろ嬉しい誤算に直面したかのように弾んだ声を漏らす。


「……まず、美恵から勉学に対する適正が必要だ、という話を聞いて最初に思い浮かんだのは、蘇生薬を造る上でのブレーンとしての働きですが、違うと断言できます」


 それを許しとみなし、続ける。


「学力を必要とするという点では適っているかもしれませんが、私に専門知識を1から仕込むよりも、どこかの薬学部からでも引っ張ってくるほうが話は早い。そもそも学生である必要もありません。それに……これは先ほど知った事ですが、ここや藤沢総合病院の院長室へと自由に出入り出来る身分ならば、医学薬学に明るい人間を探す有益な伝手つてはいくらでもあるでしょう」

「ふんふん」


 わざとらしい相槌に苛立ちを感じる隙間さえ、今の思考には存在しない。何せ口に出しながら同時にロジックを構築しているのだ。頭が焼け付きそうな心地すらしていた。


「したがって、美恵は自分の助けになる人材の条件……いえ、前提として知力と同程度に、あるいはそれ以上にが必須だったと仮定します」

「それで?」

「社長は先ほど、美恵の発言を遮りました。その意図として考えられるのは、現時点で美恵自身が将来社長になる事に限りなく否定的なスタンスを取っているが、あなたは美恵に社長になることを望んでいるという対立構造が存在する。それは何故か」

「うん」


 至極あっさりとしたその肯定は、組み上げつつある仮説の裏付けを取れた気がした。実の父なのだ。美恵が望まれれば応えてしまうという気質を持っている事を分かっていない筈がない。

 その上で敢えて強く望むが、それでいて尚美恵は首を縦に振らない。

 つまり――


「彼女が承諾しかねているのは美恵の中で蘇生薬を造るということと、社長になるという事が共存し得ないから」

「美影……!」


 裾を掴む力をさらに強くした美恵の声は、確かめるまでもなくこの考えが正しいことを示していた。

 結論が出ていない、という私の前口上を聞いた時とは打って変わって、その瞳には輝きが戻っている。

「美恵ー……ヒント出し過ぎ」


 対する社長は眉根を潜め、困った様子で尖らせた口を挟む。


「まぁ、しゃあないか。さて、途中式はもう充分。そろそろ答え合わせに移ろう……その前に、だ」


 それまでだらしなくソファに身を投げていた社長が急に座り直し、じっと私を見据えた。


「もし仮に君の推論とこちらが用意していた答えが合致したなら、その瞬間プロジェクトは動き出す。それに伴って君は美恵と並んで不可欠の存在となる。文字通り残りの人生を捧げてもらうことになるよ。効果が効果だ、その実現には過程から君の想像が遥かに及ばないほどの金と力が動く」


 それが何を意味するかはすぐに理解できた。口にする社長自身も、私がそこに想像を及ばせることが出来ないほどの暗愚と評価してはいないだろう。

 しかしそれでも彼は言葉を切り、私に迷いの色が浮かばないか確認を取った。

 僅かな無言が齎すこの間こそ、美恵が持ち込んだ話の現実味に対する彼自身の肯定であり、同時にのしかかる責任の重さを表現する最上の手段とも思えた。


「もし途中で心変わりして降りたくなったとしても、君に待っているのはプロジェクトを大幅に遅延させることに対する、一個人では賄えない額の賠償金だ。体の一片まで売り払っても、毛ほども足しにはならないだろうね」


 もはや脅迫に近い調子と言い回し。単なる友人の夢への協力、というだけならばたちまちに決意は打ち砕かれるだろう。

 そう、単なる決意ならば。


「それが嫌ならここで――」


 続ける社長に対して私は、ただ軽薄に笑いを返した。


「破滅を匂わせても意味ないですよ。なにせ私、

「「へ……?」」


 美恵と社長の間抜けた声が重なった。それを意に介さず、私は美恵へとその笑みを向ける。


「あの時言ったでしょ?」


 やり取りの当事者である美恵には、その一言で真意が伝わったようだった。目配せを一つして、未だあんぐりと口を開けたままの社長へ向き直る。


「私は美恵に自殺を止められました。でも、それと同時に美恵にんですよ。それまで私を押し込めてた価値観や環境を全て壊すことで、過去の私を殺してくれた。その上で何にも縛られずに私は今ここに立っている。いわばもう一度命を与えられたんです」


 社長の言葉が脅しとして機能するのは、決断の根拠が単なる他人への協力という善意だった場合だ。今の私にとって美恵に必要とされることは、生きている理由そのものと言って過言ではなかった。


「そして……社長。貴方の言葉で私は浮かべていた推論に確信を持てました。先の人生選択の自由を奪い、かつ私がいなくなれば中断ではなく。つまり、私が存在することでプロジェクトに対する時間的猶予が生まれるという事ですよね」


 的紙の中心に、穴が空く。

 撃つ前からその光景が見える程の手ごたえ。

 心に広がっていく快哉は、そんな心地によく似ていた。


「その点にさっき確証を得た美恵の迷いを加えれば答えはひとつ。貴方が美恵に突き付けた条件は、自分以上に経営者としての適性を持つ人間を連れてくること、ではないですか?」


 そうは言いながらも、今の自分にそんなものがあるとは微塵も考えてはいない。

 しかし社長とのやり取りの中でリアルタイムに頭を働かせた結果、この回答がもっとも真に迫っているものだという確信があった。

 

「美影……」


 しかし。

 自信と僅かな不安を胸に横目で覗いた美恵の表情は、何とも形容しがたいものだった。三者の合間にぽつりと浮かぶその声は、正答への歓喜でも誤答への落胆でもない、まるで彼女すら事の成り行きに見当がつかず戸惑っている。

 それきり誰ひとりとして言葉を発しない時間が続くにつれて、次第に私の心の中にあった自信が薄れていき、足下から絡みつく蔦ようなざわめきが覆っていく。


「惜しいーッ!」


 そして突如部屋を支配した、愉快でたまらないといった調子の社長によって、ざわめきが鋭い棘に変わり、心へと突き刺さる。


「まぁ、問題が問題だからね。無理はないさ」


 ――あと一歩、スケールを見誤らなければねぇ。

 最早隠す気すら感じられないほど笑いを交えて続く評論。茫漠としていた頭がその意味を理解した途端、足先から急に温度が消え、全身はカタカタと震え出す。

 あれほど耐えていた頭は呆気ない程に地面を向き、力強く見開いていた瞼も目の前に映る景色から逃げるように閉じていった。

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