『同室操戈』

 一昨日まで通っていた病院の院長室と、どこか似ている――連れて来られたドアから中の風景を見た時、直感的にそう感じた。

 それは白を基調とした、必要最低限の家具しか存在しない簡素さに起因する。違うところを挙げるとすれば、あそこは人目を避けるためにブラインドが下りていたのに対して、ここは西側に配された全面のガラスにより12階からの青空が望めるという点だった。


「あーいらっしゃい。何もないところだけど、ゆっくりしていって」

「いえ……お忙しいところ申し訳ありません」

「そんな固くならずにさ。どうせ美恵が無理やりに連れてきたんだろ?」


 緩めたネクタイに袖口のボタンを外した出で立ちで出迎えてくれた男性が、紺碧を背負った社長の椅子に腰を下ろしながら、にこやかにソファの一席を進めてくる。


「ちょっとだけ午前の仕事が残っててね、もう少しで終わるから待っていてくれるかな?」

「構いません、冷蔵庫から飲み物を頂いても?」


 返事をする前に美恵が答える。その内容こそ取り留めのないものだが、その口調は彼女にしては珍しく堅かった。

 肉親の間で交わされるものというよりは、まるで上司と部下のそれに思える。

 ……家族のものとはいえ、ここが会社だからだろうか。いや、それならば病院で藤沢院長へと見せたフランクな態度の説明がつかない。

 あのやり取りの方がよほど親しい間柄を表していた――そんな事を思いながら、冷蔵庫を開ける美恵の横顔をちらりと見やる。声の固さと同様、普段より僅かに下ろした瞼と真一文字に結んだ口元が、彼女の内にある緊張を如実に表していた。

 角度的にどうあっても、社長からその顔は伺えない筈だ。にもかかわらず一切の緩みを見せない美恵には、彼への敵意……とまではいかないが、警戒する心がありありと浮かんでいる。

 家族の間には些か似つかわしくない、ぴんと張り詰めた糸。そこにまたひとつ、美恵の異なる側面を垣間見た気がした。


「どしたの?遠慮なく座っていいよ」

「あ、うん……」


 不躾な目線を気取られたか、瞬時にその顔へ穏やかな笑顔を戻しながら促す美恵に固い返事を返し、そそくさと移動する。

 反発がなさ過ぎて逆に座り慣れないソファに苦戦しながら、その理由を考える私の前に、氷の浮かぶグラスが置かれた。


「どうぞ、ここ暖かいからアイスティーでいいよね?」

「ありがと」


 答えを焦っても仕方がないか。美恵のまだ見ぬ一面など、恐らくこのすぐ後に山盛り突き付けられるのだろうから。

 疑問を一先ず頭の端に追いやり、頷きながらストローに口をつける。口の中に華やかな香りと味を壊さないバランスに整えられた優しい甘さが広がった。


「コート貰うね」


 私がグラスを置いたタイミングで、美恵は膝に畳んで置いていたコートを受け取り、手慣れた様子で傍のハンガーに掛ける。

 その足取りで脇に置いてある水差しを携え、社長の元に向かっていった。


「悪いね」

「――いえ」


 短いやり取りの後、美恵は机の端に置かれている花瓶の水を入れ替え始める。活けられているのは細かく分かれた枝先に付いた無数の白い花。見たところで私にはすぐにその名前が浮かばないが、わざわざ自分の机に置いているという事は、彼は花への造詣が深いのだろうか。

 そんな事を考えているうちに、やがて一息をつきながら戻ってきた美恵の手にはアイスコーヒーが注がれたグラスが握られていた。


「あの人が、美恵のお父さん……?お兄さんじゃなくて?」 


 美恵が隣に座りグラスに一口つけたタイミングで、机に向かってペンを動かす男性に視線を向けながら、潜めた声を向けた。

 事前に『父親と会ってもらう』と説明を受けてはいた。しかし実際目の当たりにしてみると、父娘それほどの年齢差があるようにはとても思えないその外見に、どうしても確認を取らずにはいられなかった。


「うん、そうだよ?見た目も行動も年に合わないから若く見えるってよく言われてる」


 私の内心を見すかしたようにけらけらと笑いながら、あっさり肯定する美恵。だが返事を聞いても俄かには信じがたい……それほどまでに彼の風貌は同級生の父親というには異質なものに映っていた。


「本人曰く『楽しいことをしている間、人は年を取らないものだ』だってさ」


 そう語りながら父に向けている彼女の視線からは、今は嫌悪や悪意は読み取れない。あのよそよそしい口調の原因は単なる不仲、というわけでもないようだ。


「そんなものかなぁ」


 肯定とも否定とも取れない返答で話を区切る。もう少し踏み込んでみても良かったのだが、長引いて本人の耳に入れば会話を交わす前に悪い印象を与えかねない。


「……聞かないの?ここに連れてこられた訳」


 グラスの中身を半分ほど飲み干したところで、美恵が訊ねてくる。

 何の説明の無く世界的な製薬会社の社長室に連れてきたとあれば、さすがの美恵でもそう訊きたくもなるのだろうが、私にとっては愚問だった。


「これから教えてくれるんでしょ?それに、言われたときはびっくりしたけど、連れてこられた場所が場所だけに……むしろ現実味が増した」


 人を生き返らせる薬を造りたい。

 あの一言には確かに度肝を抜かれた。しかし発展というものはえてして、その畑の人間以外には想像もつかないほどの進歩をしているものだ。

 なによりそれを大真面目に口にしたのが美恵、という点が私の中で一笑に付すことを許さない。


「そっか」


 満足そうに美恵が頷き、それとやや遅れたタイミングで男性がこちらに向かってきた。近づく足音に緩んでいだ彼女の表情がすぐに戻る。


「お待たせー美恵。若くて素敵なお父様の紹介は済んでいるのかな?」


 私の斜め向かい、美恵の対面におよそ行儀がいいとは言えない姿勢で腰を下ろす彼が笑いながら訊ねう。軽薄な視線を向けられても、美恵は真剣な面持ちを崩さない。


「いえ、ご自分でお願いします。彼女とは長い付き合いになりますし」

「なるほど、ね」


 その一言だけで何かを察し、薄い笑いを浮かべていた彼の瞳が僅かに細まる。

 このやり取りには覚えがあった。同じ文句で美恵に私を紹介された院長の反応と同じものだ。


「ならばお言葉に甘えて……改めて初めまして。月島美影さん。僕は『三吾啓示』。ご存知美恵の父親で、この製薬会社BE=SANGO責任者をやってる。よろしくね」


 こちらが紹介を返す前に目の前に手が差し出される。

 先に握手を求められてはすぐ反応しなければ失礼にあたるだろう。そう考えながら握ったその手は、藤沢院長よりもずっと細く頼りない――まるで女性のそれにも思えた。


「つ、月島、美影です。えっと、三吾さんとは高校の同級生で、あの、助けてもらって……」


 改めて自分の肩書を口にすると、忘れていた緊張が一気に押し寄せてきた。

 藤沢総合病院の時もそうだったが、冷静に考えてみれば今握手を交わしている相手は、とてもじゃないが単なる高校生が気軽に目通り叶う人間ではない。

 相手の経歴を聞いてから自分の事を口にしたことで、その実感が湧き上がってきてしまった。


「あぁ、話は大体美恵から聞いてるよ。災難だったねぇ。低レベルな生き物のやる事って害だけは大きいから」


 手を離した社長は大げさに肩をすくめる。

 その動きこそコミカルだったが、私をいじめていたクラスメイトを『低レベルな生き物』と指す口ぶりはまるで、彼らを別の動物……いや、害虫を表すような冷たさが籠っていた。


「って、そんな怖がらなくてもいいってー。美恵が認めてここに連れてきた以上、僕も君をある程度対等な立場に見てるつもりだよ。単なる娘の友達でも、かわいそうな元苛められっ子でもなくさ」


 縮こまっていた私の肩を軽く叩いて笑い、縮んだバネが伸びるような勢いで椅子に座り直す。その顔にはさっき垣間見えた酷薄さはどこにもなく、どこか少年のようなあどけなさすら宿っていた。


「さて、このまま娘の学校でのあれやこれやを聞きたいところだが――」


 そんな文句を聞きながら、私も腰を下ろす。


「美恵」


 一瞬だけ視線を外したその合間に、彼の顔からは笑顔と一緒に幼さが消え、その黒目を半分に切る程座った眼付きで体面を見やっていた。

 それまで静かに事の成り行きを見守っていた美恵が名を呼ばれ、空にしたグラスを置く。

 次いで短く、そして一気に空気を吸い込む息遣いが、私の耳に鋭く届いた。

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