『瓜葛之親』

「ここって……」


 翌日の夕方、私が連れてこられたのは都下にある大きな病院だった。


「こっちこっち」


 数歩先で振り向いて手を振る三吾の後ろにそびえる建物を見上げる。

 生まれてこの方大病を患った事のない私でも、夕陽に照らされたその威容には見覚えがあった。正門のモニュメントを見るまでもなく、脳裏にある名が浮かび上がってくる。

 藤沢総合医院。最先端の医療技術と著名な医師が集結し、度々新聞やテレビに取り沙汰されている日本有数の大病院。庶民の私にはただでさえ縁遠い場所であるというのに、特段体調を崩してもいないのにここに立っているとくれば、謎の罪悪感すら湧き上がってくる思いがした。

 ――場違いと言えば。

 建物から一度視線を外し、そのまま握る右手へ。そこには彼女に言われるがまま持ってきたガンケースが提がっている。傍目から見れば少し大きめのアタッシュケースだが、中身は病院という場所に最も相応しくないものと言える。

 

 ……一体なぜこんなものを、ここに?

 戸惑う私とは対照的に、三吾はここがさも自分の庭であるかのような軽い足取りで中を歩いていく。

 身を縮めてその後ろをついていく間も、いまだ彼女が私をここに連れてきた理由に見当をつけることが出来ないままでいた。話の流れから言って、てっきりどこかの射撃場に連れていかれるものとばかり思っていたのだが――


「あら三吾さん、そちらの方はお友達?」

「うん。伯父さんはいつものところ?」


 受付で呼び止められた三吾は、教室でクラスメイトに話すかのような口調で応対する。察するにどうやら彼女の親族がここで働いている、ということのようだ。


「ええ、いきなり来られて迷惑だ、なんてこぼしてましたが……顔は嬉しそうでした」

「あは。やっぱり」


 それだけのやり取りで受付を通過し、奥にあるエレベーターへと入っていく。


「一体、こんなところに何の――」

 籠のドアが閉じる。2人だけになったということもあり、思い切って訊ねようとした口は、彼女が押そうとする階層ボタンを見て止まった。


「……院長室、って書いてあるけど……」

「そうだよ?」


 思わず渇きを覚えた私の口から出た問いかけの意味が、まるで見当も付かない。様子で三吾は首を傾げている。僅かな間の後、何の躊躇もなくボタンを押し込む三吾の指によって、籠は上へと向かい始める。そうして体に軽く掛かる重力は、私の頭にある種の諦めに似た思いを連れて来た。

 つくづく、彼女は私の想像を超えてくる。彼女の「おじさん」と言うのは誰でもない、ここの院長のことを指していたのだ。

 ……一瞬、あまり上品ではない意味のと呼び合う関係という線も考えなかった訳ではないが、そういう行為を是とする人間とも思えない。

 しかし、逆に妙に納得した心地もある。彼女の見せる常人離れした立ち振る舞い。これほどの病院を取りまとめる傑物と血を分けているからこそなせる業、ということだろう。

 エレベーターを降りてまっすぐに廊下を進み、資料室と書かれた部屋をあっさりと通り過ぎる三吾。最奥にある木製のドアの前で、ようやくその歩みを止める。


「うっわ……」


 今しがた通り過ぎた資料室のものとは明らかに趣を異とする。燻した茶色が光を鈍く照り返すドア。閉じた隙間から漏れだしているような、いかにもその先には重鎮が座している雰囲気。思わず色を失った声を漏らす私の隣で、やはりというべきか三吾は一片の緊張すらおくびに出さず、軽く握った右手の甲で2回扉を叩いた。


「どうぞ」


 中から聞こえてきた、厳格さをそのまま音にしたような低い声。私は腹の底が急に重くなった心地を覚え、自然と背を丸めていた。


「大丈夫大丈夫、声と顔は怖いけど、優しい人だから」


 扉の向こうに聞こえないようにする配慮からか、声を潜めた三吾が笑い、そのまますうっと大きく息を吸い込んだ。


「お邪魔しまーす」


 挨拶と同時にノブを勢いよくひねる三吾の後ろに隠れるように、やはり小さくなりながら着いていく。

 中に入るとまず、今までずっと鼻を刺していた病院特有の薬品臭が一切消えた。その代わりに漂ってきた、鼻腔をくすぐる柔らかな香りに驚く。次いで背後の扉が閉まった途端、外のノイズは完全にシャットアウトされ、静寂が耳に染み入って来る。

 ふたつの感覚の遮断は、ここが主の為に隔絶した空間として在ることを知らせてきた。


「事前に連絡を寄越してくれるのはいいが、肝心の日時を指定し忘れていたな」


 中ほどまで歩を進めた所で、視界一杯に広がる三吾の背中越しに声が届いた。そこに棘こそ込められていない、ただ非を淡々と指摘してくるだけのものなのに、まるで突然目の前の空気が粘り気を増したかのように、足を進められなくなる。


「でも、サボる理由が出来たでしょ?」


 止まった私に気付かないまま2歩離れた三吾は、そんな重圧をいとも簡単に受け流しなが薄く笑った。その拍子に揺れた肩越しに、院長の顔が視界に入る。

 目の当たりにする彼と三吾との共通項はすぐに見つかった。全体的な線の細さと整ったまつ毛の長さ、そして切れ長の目元に宿る力強さが同一項を主張してくる。

 しかし逆に言えば似たところはそれくらいのもので、ともすれば威圧的ともいえるその眼力を柔和な雰囲気で隠している三吾に対し、マボガニーウッドの机で指を組むその男性は全くと言っていいほどその努力をしておらず、むしろ意識的に他人を委縮させる事に特化した佇まいをしている節さえ感じた。


「さて、こちら『藤沢 芳也』院長、私の母方の伯父さんで、ここの院長先生」


 改まった様子で紹介する三吾の声を受けて、院長がゆっくりと立ち上がる。その体つきは白衣の上からでもわかるほどに細いが、私の額を胸元に置くほどの長身は、やはり頼りなさの一片すら感じさせない。


「で、こちらは私の高校のクラスメートで、月島 美影さん」

「は、初めまして」


 改めて名を呼ばれ、やっとの思いで三吾の隣へと立つ。院長は机を迂回しながらもその眼の中心に私を見据え、やがて目の前に立つと小さくふむ、と漏らした。


「ようこそ、私の病院へ。姪が世話になっているようだね」


 たったそれだけで内側を見透かされた心地を覚えながら、差し出された右手をおずおずと握り返し、なんとかぎこちない挨拶を交わす。


「よ、よろしく……お願い、します」


 ――我ながら思う。何をだ。

 しかも、それに続く言葉が出てくるはずもない。今だここに連れてこられた理由を説明されていない私にとって、彼を紹介される意味など見当がつく訳がないのだ。


「それで、お願いしたいことっていうのは――」


 手を離したタイミングで切り出した三吾の文言から察するに、院長もこの顔合わせの真意を聞かされていないようだった。しかし彼は私が右手に下げる鞄に目をやると、得心した様子で小さく頷く。


「ああ、言わなくてもわかるさ。とりあえずは座りなさい。お茶くらいは出そう」


 促されて、部屋の左側に備えられたソファに2人で腰を下ろす。彼が背を向けてしばらくすると、部屋の匂いにコーヒー豆を挽く芳香が混じってきた。


「……どういうこと?」


 コーヒーミルの立てる音に隠れるよう声を潜めて訊ねる。すると隣に座る三吾は目の前のガラステーブルに置かれたミルクポットを引き寄せながら、どこか得意気に鼻を鳴らした。


「実はね、この伯父さんもライフル射撃をやってるんだ」

「へっ?」


 ということは、彼の伝手でどこか別の射撃場を紹介してくれる、ということだろうか……、そんな考えを口にしてみても、三吾は笑ったまま答えない。結局おぼろげなヒントに却って惑わされている内に、院長が3人分のカップを盆に乗せて戻ってきた。


「お待たせ。……っと、砂糖が1本しかないな」


 院長が対面に座り、私たちの目の前にマグカップを置きながら、スティックシュガーの立てられたグラスを見て呟く。


「私は使わないから、美影使っていいよ」


 言うが早いか私の前にその最後の1本を置いた三吾は、自分のカップへとたっぷりとミルクを注いでさっさと口にし始めた。


「あ、い、いただきます……」

「どうぞ。美恵も何も言わずに飲むんじゃない」

「ああ、いただきまーす?」


 何故か語尾を上げて付け足しのように返し、再びカップを口に運ぶ三吾を見て、困ったように息をつく院長。ただの伯父と姪というには幾分と親密な空気を感じる。その正体を確かめようか逡巡しながら、とりあえずはブラックのままカップに口をつけ――そのまま無言で砂糖の封を破った私を見て、2人が笑った気がした。


「さて……あそこを貸してほしいんだろう?」

「さっすが伯父さん、話が早いね」

「あそこ……?」


 全く話が見えてこず、ぼんやりと鸚鵡おうむに返する私を見て、三吾は先程と同じく、謎の得意満面差を押し出すように胸を張った。


「じつはこの伯父さん、趣味が高じて自分の病院の敷地に射撃場を作っちゃってるんです」


 ゆっても、周りには隠してるけどね。付け加える彼女に院長がため息をつく。


「とはいえ、最近はそんな時間もない。好きに使うといいさ。それに――」


 言葉の区切りにちらりと向けられた彼の目線。所在なくカップを傾けていた手が止まる。


「初めてたった2か月でレコードを塗り替えるような名手に使われるのなら、あそこも本望だろう」

「え……」


 私が出した記録は公式には残されていないはずなのに、彼はその事実を知っているようだった。


「なんだ、知っていたの?」

「界隈では有名な話さ。八王子のコーチが自慢げに触れ回っていたからな。それが何故わざわざここを使いたいかは、あえては聞くまい――同好の士として、ね」


 机の引き出しから大きな鍵を取り出して、院長はその顔に僅かな笑みを浮かべる。彼の言う八王子のコーチとは、紛れもなく先生の事だ。ならば畢竟、私が審査会で見せた失態も存じていることだろう。

 それなのに事情を掘り下げることもせず、その眼は私を嗤わない。纏っていた威圧が包容力に変わった気がして、私の心地は妙な安堵に包まれていた。


「あ、ありがとうございます」

「あそこなら、周りの目なんてものは絶対に存在しないしね」


 鍵を受け取って三吾も笑い、それを合図としたように空気に滑らかさが戻ってくる。そのおかげで暫くの間は2人の間を飛び交う会話に、相槌程度は自然と打つことが出来ていた。


「正直に言って意外だったぞ。美恵君があそこまで頼み込んでくるのは。私の仕事を見たいと言った時以来じゃないか?」


 そうして皆のカップが半分ほど空になった頃。院長が口にそんな言葉に、それまで呑気にコーヒーを啜っていた三吾の目が僅かに、しかし鋭く細まった。


「……になりそうだったからね」

「――それは」


 私をじっと見た後、改まった様子で返す三吾。向き合う院長の眼から瞬く間に穏やかな光が消える。テーブルを挟み、沈黙の間で探り合う2人の間で、今度は帯電したかのような緊張を帯び始める空気に、全身の毛が逆立つ。


 ――この先に私を待つ大きなが、今その片鱗を覗かせようとしている。

 そんな直感が、口の潤いを一瞬にして奪い去っていった。

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