『英雄欺人』
そして、昼休み。
箸を進める私は、クラス中の女子が作る輪にぐるりと取り囲まれていた。だがその口々から飛び交う声は、耳ではなく頭上を通り過ぎていく。
とはいえ不満も、ひいては不思議に思う事もない。彼女たちの目当ては机の主である私ではなく、隣に座る三吾だからだ。
「……あのでっかい絵の下に書いてある名前って、三吾さんのお父さんなの?!」
「うん。4年位前に寄贈したって言ってたかな?元々理事長と知り合いだったみたい」
「その名前、確か体育館の壁にも書いてあるよね……ハンパなくない?」
「別に私がすごい訳じゃないからなあ」
……几帳面というか。ひとりひとりと目を合わせて応対している三吾の横顔を見ながら息をつく。
朝の行いもそうだが、彼女の真に恐るべき所は、その人身掌握の手際にあった。朝には情のひとつも伺えない弾劾を行ったばかりだというのに、時計が正午を告げる前に、もう彼女の周りにこうして人だかりが出来上がっている。
三吾の目論見を全て看破できたわけではないにしろ、あのクラスを包む底冷えのような空気を、まさか忘れたわけではないだろう。だが――今もってなお悔しいが――確かに彼女はそこにいるだけで空気を自在に変えられる、そんな佇まいをしている。
それはカリスマと言い換えて差し支えない。そこに今全方位に振りまいているような、朝とは真逆の柔和な人当りだ。そのコントラストはいわば揺り戻しのような作用を生み、結果1日を待たずしてクラスの中心に位置していた。
……それがどこまで計算なのかは、わからないけど。
そして困ったことに、三吾本人は空き時間の度、必ず私の隣に来ていた。そうなれば必然的に作り出された輪の中心には、常に私も添えられる形になる。
所在ない心地が続き凝り固まってくる体に限界を覚えて、周りに気付かれないように腰を伸ばそうとする。
しかしその拍子に座る椅子が軋みを立て、周囲の視線が一斉に集まった。
「月島さん、いつの間に三吾さんと知り合っていたの?」
居心地の悪さに椅子を鳴らしたとでも思われたのか、取り囲むひとりが初めて私を会話に引き込んでくる。
「いや……知り合ったっていうか……」
「そういうのっていちいち覚えていないものだよね?」
「今日の事も、月島さんが助けを?」
「いや、その」
「ううん、私が自発的にやっただけ」
返答に困る私の代わりに三吾が答え、そのたびに羨む黄色い声が上がった。
「いいなぁ、私もあんな風に助けられてみたい」
あらぬ方向を眺めながら目を輝かせるひとりを見て、口からはまた溜息が漏れ出た。
周りから見れば、私はあたかも白馬の王子――いや、この場合は王女になるのか――に手を差し伸べられた悲劇のヒロインなのだろうが、まさか当人がこんな複雑な思いを抱いているとは思ってもいないだろう。
相変わらず周りを囲むひとりひとりに笑みを向ける三吾の横顔を眺めながら、いつの間にか自分が口にしているパックジュースのストローを強く噛んでいる事に気付いた。
その原因は多分、畏れだ。
加えて言えば、彼女へとこんな感情を抱いているのは多分私だけだろうという予想。そのふたつが目の前の光景を、何より恐いものに見せていた。
既に朝の一幕は『ひとりに下した容赦のない断罪』から、『ひとりを救った美談』へとすり替えられて、周囲の心の中に落ち着いている。しかし三吾はあれから自ら行いの印象を操作――例えば、皆の前で私に感謝を告げさせたり――してはいない。
多勢を前にたじろぎの欠片も見せない態度と圧倒的な正論。そして、それに裏打ちされた何よりも直接的な手段。
まるで映画のように披露される非現実的な手管の数々を目の前で見せられれば、観客の眼にはその全ての手綱を握る三吾が英雄に映るのも無理はない。
つまり断罪から美談へのすり替えは、見届けたものの胸の内で勝手に行われたに過ぎない。だが恐らくはそれも全て、三吾の手の内――
身震いを覚えて輪から視線を外し、廊下を眺める。
彼女は2組に飛ばされ、今頃どんな思いをしているのだろう。
胸に抱く鮮烈な印象によって、観客の眼差しは三吾へと固定される。
いわば手品と同じ誘導手段。その関心は無数の剣によって串刺しになった箱から助け出すその手だけに集まり、その裏にある仕掛けのいびつさも、穴だらけになった箱のその後にも、考えを及ばせる者はいない。
……仕掛けを知る私と、
クラスの誰も、彼女の事を話題に上らせないのがその証拠だった。もしかしたら私以外、既にその存在すら忘れ去っているのではないだろうか。
彼女の代わりに現れた強烈に過ぎる光は、その影すら残すことを許さなかった。
そんな三吾と私達の関係性を表すのに、同級生という言葉はどうも不釣り合いに思える。本人がいくら気さくに周りと接していても、行いを目の当たりにした私達は無意識に同列に語る事を
支配する不満も、支配されている自覚すら感じさせずに市井を導く王と、そんな無欠の賢君を崇める国民、そういった表現の方がずっと近い。
――底が知れない。
だが、私だけは同時にどこか奇妙な優越も感じていた。
「美影?」
「え?」
それまで談笑に耽っていた三吾に突如呼ばれ、慌てて視線を彼女に向ける。
「どうしたの?ぼうっとして」
「いや、別に……三吾、さんが話題の中心だから、別に喋る必要もないなって」
私の口ごもりながらの返答に、三吾はわざとらしく眉根を寄せた。
「もう、私の事は美恵でいいって言ったでしょ?さん付けも不要!」
語気は強いが、そこに棘は感じない。絶妙な力加減もまた、上に立つ人間として彼女に備わっている気質なのだろうか。
「じゃあ、じゃあさ、私も美恵って呼んでいい?」
それまで主に話題を先導していたひとりが興奮に上ずった声と共に、瞳を輝かせ、幾人かがそれに続く。
「それはダメ」
だが、間髪入れずに返された決然とした答えに、辺りの温度が一瞬にして急激に下がった。
「……皆とは今日会ったばかりだし、もっと仲良くなったら、ね」
この場にいる誰もが予期しなかったリアクションを取られ、笑顔のまま凍り付く幾人に三吾がフォローを入れる。
「そ、そっか。じゃあその日まで仲良くしてね」
長い間の後、そのうちのひとりが絞り出したその声は失意のあまり、僅かに震えていた。
「勿論。こちらこそよろしく、だよ」
三吾が元の柔らかな笑顔と共に握手を交わし、場の温度が戻る。それと同時に、昼休みの終了を告げる予鈴が鳴り響いた。
「……嘘」
囲っていた人だかりがそれぞれが席に戻っていく。その背中を見送りながら、私は未だ席を立たない三吾をちくりと刺した。
それは愛想を振りまく彼女に対する根拠のない皮肉、というわけではない。取り巻きが口にした『その日』が決して近くない、ともすれば永遠に訪れないかも知れないという事。それを私は知っている。
長く過ごした2組の人間も、彼女を苗字に敬称を付けて呼んでいたことを、私は覚えている。
「またあとでね、美影」
だが三吾は答えず、念を押すようにもう一度私の名前を呼んでから、席に戻っていった。
やはり、私は彼女にとってこのクラスで唯一『対等なもの』として認識されている様だ。救いの手を差し伸べて置いて、あれだけの立ち回りを独りでこなすだけの力を持ち、しかしあくまで私を同じ目線で見やる。
そんな彼女の真意は、一体どこにあるのだろう。
※ ※ ※
「で、帰りも着いてくる、と」
下駄箱からローファーを出す私の隣で、もはや当たり前のように同じ動作をしている三吾を呆れ声と共に一瞥する。
「まぁね。飛ばしたコが美影に変な逆恨みしても困るし」
まぁそんな度胸はないだろうけど、と続けて三吾は靴に足を滑らせ、つま先で犬走をこんこんと叩いた。
相変わらず自分の行動には絶対の自信があるのだろう。私の顔を見ても悪びれのひとつも見せない。
「三吾、貴方部活があったんじゃないの?」
「送ったらすぐに戻るよ」
……あぁそう、とうろんげに返しておく。断ったところでどうせ引きはしないだろう。
「美影はこれからどうするの?部活入ってなかったよね」
「私は射撃――」
いつものルーチンを答えようとして、声が詰まった。
もうあそこには行く理由もない。行けば先生はいつもの通り相手をしてくれるだろうが、その眼はもう私をまともに見てはくれないだろう。
「いや、なんでもない。帰るだけ」
即座にごまかそうとしたが、一瞬沈んだ私の表情を見逃す三吾ではなかった。
「射撃?もしかして、クレー射撃?」
「違う。ライフ――」
――しまった。
浮かべる得心した表情を見て言葉を切ったものの、既に遅かった。律儀に修正してしまった自分を悔やむ。
「学生ライフル競技?選手なの?」
なんとか話題を中断させようと距離を取って足取りを早めようにも、先に靴を履かれてしまっていては無駄な事だった。僅かな沈黙にも容赦なく質問を挟んでくる三吾。取り巻きに囲まれていた時とは真逆だった。
「別に……段位があるわけじゃないし、大したことはないよ。もう辞めたし」
自分の努力を自分で否定するのは辛い。それが意味の無いものと化した今でもそれは変わらなかった。
だが、それも仕方のない事だ。私はあの射撃場以外は知らないし、もしあっても相当な距離があるだろう。とてもじゃないが学校の帰りに寄れるものではない。
いや、仮に近くに別の射撃場があったとしても自発的に新しい、見知らぬ人の輪に入ってく気力は沸いてこなかった。
それは正式に退会届を出さなくとも、二度と自分がレンジに入れないことを意味している。
「嫌いになったの?」
歩きながら無言で首を振る。
審査会はとにかく、射撃自体に未練がないといえば嘘になる。無趣味な私がたったひとつだけ、自分の意思で始められたものだ。
私が理由を語ることを待っていたのか、バス停に着くまで三吾は沈黙を保っていた。
足を止めると同時に、遠くから低いエンジンの音が近づいてくる。すると三吾は何かを決したように端末を取り出し、どこかへと電話を掛け始めた。
「もしもし、伯父さん?今大丈夫ですか?」
それから短いやり取りの後電話を切った三吾は、こちらに向かって小さく笑った。
「今度は一体――」
一向に見えない状況に差し挟もうとした声が、一歩近づいて見つめ返してくる三吾の眼に制される。
そこに宿っていたのは取り巻きを相手にする時と異なる、見据える者へとしっかりと自分の姿を伝える、眩さを抑えた穏やかな、光。
「明日の夕方、予定空いているかな?」
たった今、放課の予定を占めていたものを投げだしたと語ったばかりの私には否定のしようがない。おずおずと首を縦に振る私の前でバスの扉が開く。
「部活終わったら迎えに行くから、家で待ってて」
結局何の仔細も説明されないまま、それでも思わず再び頷く私を見て、三吾は満足そうに踵を返し、西日の傾きを反射する校舎へと戻っていった。
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