『泰然自若』

「――嘘だ」


 叫ぶ。あれだけ多くの人間に囲まれて何不自由ない人間が、私を歯牙に掛ける理由なんてあるはずなんかない。続けようとして私は、数日前に彼女とすれ違った時の事を思い出していた。

 あの時彼女は私を見るなり、明確に。クラスも違えば、互いに挨拶すら交わしたこともない。自分だって名前を聞いただけで判別が出来ないから彼女の顔を見に行ったのだ。

 つまり、三吾はあの時すでに私を私だと知っていた事になる。


「私にないものを持ってる人は、絶対に覚えちゃうから。それで、一昨日おととい思い切り睨まれた時、確信した」


 三吾は閉じる瞼で一度言葉を切る。僅かな間を以って再び光られた瞳に宿っていた光が、それまで周囲を――私を――包んでいた空気を一気に薙ぎ払う。

 浄化、などと言う生易しい言葉では表しきれない力の強さが、そんな幻覚を私に見せていた。


 「私にはあなたが必要なんだ、って」


 そこに微塵の虚飾もない、澄み切った瞳で放たれた一言は私の奥底へ、ざくりと確かな音を立てて突き立った。

 奥底でずっと望んで望んで、それでも誰からも掛けられることのなかった言葉が、想像の遥か外にいる人間によって齎される。

 その理由を問う前に彼女はその表情に僅かな影を落とした。


「でも、それはの都合。私がここに来なければ、月島さんは死ぬ事が出来た。これ以上辛い思いをすることもなかったよね」


 背中から離れた彼女の手が、今度は確かな力強さを以って、私の手首を掴む。


「あなたを飛べなくしたのは、私。だから、責任を取らせてほしい」

「責任……?」


 久しく感じる事触れられるの無かった誰かの体温。振りほどく事も忘れ、顔を上げて聞き返す私の頬を拭いながら、三吾は続ける。


「私はあなたを絶対に死なせたくない。でも、生き死にって本人に与えられた最後の自由だと思うの」


 口調では提起の形を取りながらも、半ば無理やりに私を立ち上がらせて柵の内側に戻し、再び強い意志の宿った瞳をこちらに向けた。


「1週間……いや、5日ちょうだい。私がその気持ちを変える」


 私の腕を掴んだままの三吾から、高らかに放たれる宣言。先程の予言すら比較にならないほどの確信に満ち溢れた声は、まるで決まりきっている未来を一足先に見てきているかのように迷いがない。

 その根拠がどこにあるのかは分からない。しかし、死への意気を失った心は確かに揺らいでいた。

 ……私だって、生きてこの辛苦から解放されるならどれ程いいと思った事か。

 だがその為に力を尽くし、なお心を折られたからこそここにいるのだ。今更他人に何が出来るというのだろう。

 ずっと私を追い込んできた他人に、今更望みを持つのか。

 頭の中ではとうにそんな当たり前の理論が組みあがっている。だが、眼前に凛と立つその姿と掴まれた手首から伝わる温度、私を見据える目に宿る意志の強さが、確かな説得力を以て、一笑に付すことを許さない。


「何を勝手に……そんな事、出来るわけ」

「出来るよ。


 結局おずおずと口から出たのは誰かに期待する事、信じる事を恐れる歯切れの悪い否定。それすらも迷いなく遮られ、二の句の告げようを失う。


「万一変えることが出来なかったら、その時はもう止めないよ。飛べなかったら私が背中を押してあげる」


 変わらない態度と口調のまま語る姿が、その付け足しが冗談でも、増して比喩でもない純然たる本気である事の証だった。

 ――狂っているのか。

 躊躇のひとつもなく、他人の生死に自らの人生を賭ける三吾に、私は恐怖にも似た感情を覚えていた。


「どうして私をそこまで」


 私のどこに、彼女が必要とするモノがあるのだろう。


「それは、月島さんの気持ちが変わった時に教えるよ」


 その表情を微笑みに変える彼女を見て、私は自身の認識が誤っていたことを知る。

 狂っているのではない。彼女はただ確信しているのだ。私を変えられるということを。


「さ、帰ろ?私も楽器壊れちゃったし、部活はおしまいにするから」


 笑う三吾と戸惑うの間を強い風が吹き抜けた。

 傾く西日が広がる三吾の黒髪の1本1本を照らし出し、その隙間に細やかな光の粒を生み出していく。

 それはまるで、白昼に現れた無数の星。その中心に佇む三吾の姿は、まるで1枚の絵画が目の前に顕現したようであり、彼女が常人とは決定的に異なる何かであることを示す証に思えた。






 ※      ※      ※






 心変わりを起こさせない為か、三吾は強引に家まで着いてきた。おまけに「また月曜日にね」と強く念を押されてしまった。

 そのせいで、私は朝を迎えても、まだここで息を吸って吐いている。

 ……反故にしてしまえばいいものを。憎き相手の口約束ですら心の中で確とした制約と扱ってしまう自分の生真面目さが憎かった。

 あの熱意の前に晒され、一時苦しさを忘れていた心も、家に帰って独りに戻り、眠れない夜が2度明ければ、とうに普段通りの沈痛さを取り戻している。

 ベッドから這い出て、カーテンの締まったうす暗い部屋の中で無意識に右腕に目を向ける。夜中に台所の包丁で手首を切らなかったのは、未だそこを掴む彼女の温度が残っている錯覚に見舞われていたから……とは、思いたくなかった。

 とかく、おかげでまた苦痛の1日を過ごさなくてはならない。教室にはもう一片の救いもないと知った今、クローゼットから制服を取り出す事すら無上の苦痛だ。

 もう家を出なければ始業に間に合わなくなる時間を迎え、なお瞼をこする気力も沸いてこない。


「行きたくない」


 呟く私の耳に、能天気なインターホンの音が聞こえてきた。ついで応対した母の驚くような声が聞こえ、階下がにわかに騒がしくなる。

 やがて階段を上る足音が近づいて、私の部屋の前で止まり――。


「み、美影?起きてる?」


 母が、本当に久々に母が私の名前を呼んだ。それだけで眠気の残る目は限界まで見開かれる。


「お、起きてる、けど……何?」


 下で何が起きたのかすらわからず、とりあえず返事をして説明を求める。


「お迎えが来てるの、三吾さん、っていう女の子が」

「……は?」


 戸惑いを多分に含んだ声で返ってきた答えに、思わず間の抜けた声を上げる。

 昨日別れた時、家は全く逆方向だと言っていたのに?

 意味も解らず開けたドアの向こうには、落ち着かない様子の母が立っていた。突然の事態に私同様に浮き足立ちながらも、その頬が僅かに緩んでいる。

 いつも眺めているのはダイニングに座る後姿か、ハンドルを握る横顔。こうして正対するのもいつ以来の事だろう。


「お友達?」

「そんなんじゃ――」


 妙に弾む声を即座に否定しようとして、言葉に詰まる。

 ――私と彼女は今、どんな関係なのだろう。

 今、この状況だけを切り取って見れば友達という表現は適切なのかもしれない。しかし昨日までは無意識にとはいえ私を害する、紛れもない敵と認識していた。それが私の死を止め、今朝になって学校とは真逆の私の家まで迎えの足を伸ばしている。


「美影ー?。まだ着替え終わらないのー?」


 返答に窮しているうちに、階下から彼女の声が聞こえてくる。

 私が家から出てくることを前提にしているのもそうだが、いきなり下の名前で呼ばれた事に、彼女との関係性の名を求める頭は更に混乱を深めていく。

 渋面を浮かべる私に対して、三吾の声を聞いた母親は嬉しそうに笑っていた。恐らく自分の中で私と三吾はであると結論付けたのだろう。

 それを喜ぶという事は……


「もうそろ8時!間に合わないよ!」

「あぁ、もう」


 心なしか近づいて来ているような声に思考と逃げ道を塞がれ、急いでコンタクトレンズのケースを手に取り、ブラウスに袖を通す。


「ご、ごめんね、うちの子がもたもたしてて……」

「あ、すみません朝から叫んじゃって……」


 母親の視線が急に階段の方を向き、律儀に一礼を返す頭の先が覗いた。

 ……気のせいではなかった。


「なんなの急に!行くって一言も――」

「ほら、早く」


 そうこうしているうちに、駄目押しとばかりにとうとう部屋の中まで押し入って来きた三吾は、私の反論をすがすがしい程に聞き流して私の腕を掴む。


「あ……」


 再び、そして上書きされたその温度に拒絶の意を引っ込められ、結局是非もないままに家を出る羽目になったのだった。

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