『鬼哭啾々』

 ――そして今、私はここに立っている。

 気の早い走馬灯を済ませるなり、足が早く前へと踏み出せと急かし立ててきた。

 さあ、行こう。地面にぶつかる一瞬の痛みなど、思い返した苦しみに比べれば無も同然だ。

 最後の息を大きく吸い、吐き出すと共に足を冷たい地面から剥がそうとして。


「凄いなぁ」


 背後のドアが開く音と同時に聞こえた、間の抜けた声に止められた。

 心臓を掴まれた心地で振り返れば、フルートを片手に持った女子がドアの入り口からこちらへとゆっくりと歩み寄る姿が見えた。


「ちょっと寒いね。コート持ってくれば良かった」


 人間が目の前から飛び降りようとしている。そんな危急の光景にも拘らず動揺の欠片も見えない振る舞いは、どこか現実離れした様相すら伴っていた。

 その目、その声、その姿、忘れるはずがない。


「三、吾……」


 思わず一歩、足を淵から離す。そんな私を見てその瞳が僅かに細まった。そのまま何の躊躇いもなく柵を乗り越えてきた三吾は、半ば呆けている私の横に並び立つ。


「高っ……私にはこれ以上は無理だな」


 爪先から景色を見下ろして、今更とも言える身震いと共に呟いた三吾は後ろ手で柵を掴んでしゃがみこむ。

 そうして視界に収めた、私の靴の間に収まる封筒を手に取り、これまた遠慮のひとつもなく中を開けた。


「な……」


 無遠慮を遥か通り越すその行いに、彼女が中身に目を通し終えるまで、吐くべき言葉すら失って立ち尽くす。


「うわ、凄い……こんなの葬式の場で見せられたら、当人たちにとっては堪らないだろうね。何人か道連れにできるかも」


 ――本当に、凄い。

 読み終えて立ち上がり、改めて繰り返す三吾。そこには一片の煽りも籠もっておらず、ただただ純粋に心底から感嘆していることは、その声色から伝わってくる。

 まるで己は関係ない、とでも言いたげに。

 その態度が他人事を眺める衆目のそれと同じに見えた私は、即座に詰め寄り乱暴に封筒を奪い返す。


「どの口が……っ!」


 堪らず叫ぶと同時に、左手は彼女の胸倉を掴み上げていた。

 きゃ、と三吾が小さな声を上げたその拍子に抱えていたフルートが宙を舞い、一拍遅れてその身を砕く音が風に乗って届いた。


「あー……あれ備品なのになぁ。後で一緒に謝りに行こう?」


 小さな為息に続くその言葉が、どこまでも私を侮辱していた。

 三吾は私がここで死ぬ事はないという前提の元、話を進めているのだ。襟元をひねりあげる腕に一層の力が籠る。


「馬鹿にしてるの……」


 喉から絞り出した声は乾ききり、自分でも理由が分からず震えている。


「どうせ飛び降りる度胸なんてないって、あんたも私を馬鹿にするの!」


 喉が避ける程に張り上げた声が一層手に力を送り、とうとう締まる襟が三吾の首筋に食い込んでゆく。


「違うよ。でも、もう飛べない。私を見た時、あなたはこちらに一歩歩いた。その瞬間、決意は折れたんだよ」


 それでもなお、彼女は泰然としていた。静かな口調を崩すことなく、まるで私よりも私の内側を見知った風に語りかけてくる。


「構わず飛べば良かっただけなのに」


 蔑まれている?

 いや、

 そう判断した頭が逆上に滾り、全身が一瞬で温度を上げた。


「勝手な事を!」

 

 ――ならば今すぐ飛んでやる。

 目の前でこの頭が割れる様を見せられれば、そのすかした表情もあっさりと崩れ去るだろう。彼女の心に傷を与える最大の手立てを思いつき、もう一度両脚を縁に掛ける。


「あ、あれ……?」


 しかし地面に目を向けた途端、凍り付いたように体が動かなくなった。思わず上げた声に震えが戻る。足を踏み出すどころか、三吾から腕を離すことさえ出来ない。


「どうして」


 何故だ。さっきまで私を祝福していたかのようなすべての景色が、どうして今になって牙を剥いてくるか。不測の事態に頭の中が真っ白に塗りつぶされていき、あれだけ鮮明に描いていた空に身を躍らせる自分の姿を打ち消していく。


「せっかくの決心だったのに、残念だったね」


 腕を掴む力が緩むのを、三吾も感じ取ったのだろう。続くその声は、事態が収束に向かっていることを確信した、どこまでも静かなものだった。

 それがまた、私の心を惨めさのきわへと追い込んでいく。


「誰が、誰が私をここまで追い詰めたと思っているんだ!」


 せめてもと再び張り上げる声の大きさは、その言葉が目の前の三吾ではなく、その背中越しに映る、私をすり減らしていった全てに向けた呪詛じゅそであることを示していた。

 三吾に直接何かをされたわけでは無い。彼女がした事と言えば己の学力をただ磨いて、実力テストに反映させただけだ。こんなふうに彼女が責められる謂れも、私がこんなことを言える道理もない。

 彼女はいわば、向けられた悪意を勝手に投影されただけだ。だからこそ最後に残った理性で、あの封筒には三吾の事は書かなかった。

 ――だが、それを今になってこれほど悔やむとは思っていなかった。

 しかし今はただ、目の前に立つこの女が誰よりも憎い。

 死を選んだ私の前ですら、涼しげな顔で立っているこの女が憎い。それが羨望の裏返しであると自覚しているからこそ、思いが一層募っていく。

 重ねた努力、積み上げた研鑽は決して劣っていないというのに。


「どうして」


 力なく膝が折れていき、襟をつかんでいた腕が三吾の体を撫でる様に滑り落ちていった。


「どうして」


 私はお前のようになれなかったのだろう。

 お前は私のようにならなかったのだろう。

 いったい、何が違ったというのだろう。

 クラスの奴らのように誰かを害するわけでもなく、家族のように誰かに無関心でいるでもなく、先生のように誰かに身勝手な期待を寄せたわけでもない。

 誰にも助けを求められないまま、たった独りで、死に物狂いで。

 ただ、自分が自分であろうとしただけなのに。


「狡いよ、狡いよ」


 三吾の胸元に顔を埋める形になって、喉から声を絞り出す。

 先程から既に意味をなさない言葉の羅列を、三吾はただ黙って聴いていた。碌に見知ってもいない相手からこんな支離滅裂な文句をぶつけられれば、普通の人間ならば戸惑うことしかできないだろう。


「ごめん、言い方が悪かった」


 だが、彼女は違った。


「私がここに来たのはたまたまじゃないよ。最初からあなたを止めに来たの」


 声と共に感じる、背中を包み込む腕の感覚。

 そこから柔らかく伝わる温度が、噛みしめた奥歯を緩ませていく。


「え……」


 俯いたままの私へ、彼女は少し照れくさそうに続けた。


「だって、ずっと見てきたからね。月島さんの事」

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