『孤影悄然』

 60を数えた銃声が鳴り止み、ストックから頬を外す。

 真一文字に結んでいた口から、勝手に深いため息が出た。得点を表すモニターを見るまでもない、今日の調子は、最悪。

 こと射撃において、集中力の如何は得点に直結するといって過言ではない。昼間の一幕が心に立てた波風を、思っていた以上に引きずっていたようだ。手に取る的紙の束に穿たれた穴のばらつきが、更に苛立ちを募らせていく――悪循環だ。

 今日はこれ以上スコアが伸びることはないだろう。早めに切り上げた方がいいかもしれない。


「536点か、まぁ、そういう日もあるさ」

「先生」


 レンジから1歩下がると同時に声を掛けられ、慌てて振り返る。そこにはいつもと変わらず、薄く皺が目立ち始めた顔に柔らかな笑みを浮かべるここの責任者がいた。


「無意識だろうが、少し肩に力が入りすぎていたね。それに、射撃の間隔がいつもより早かった」


 的紙の束を捲りながら静かに続ける指摘の言葉には、しかし決してこちらを責める意図を感じさせない。故に委縮も反論もできない私は、視線を泳がせてしまう。


「……学校で何かあったのかい?」

「あ――」


 図星を突かれた瞳が動きを止める。そうして伏し目がちになった私を見た先生はそれだけで何かを感じ取った様子だった。しかしそれ以上の追及はなく、代わりに暖かい紅茶の入ったペットボトルを手渡してくれた。


「ありがとうございます」


 受け取るって掌からジワリと伝わる熱と、満足そうに目を細める先生の様子が、少しだけ私の心を解きほぐしていく。


「遅くまで頑張る子へのご褒美だよ」


 その柔和な笑顔に釣られるように、照れながら笑いを返す。今の私にとって先生だけがストレスを感じずに会話のできる唯一の相手だった。

 正直な話、この場所と彼の存在のお陰で、1日々々をを何とか耐えしのげていると言っても過言ではない。目下、彼だけが私の能力を――いや、私そのものがここにある事自体を――認めてくれる。その事実は泥沼のような毎日の中、自分が頭まで沈まぬようにしがみ付ける唯一の綱になっている。


「なら、もう少しだけ練習していこうかな……」


 和らいだいらつきと頑張りを認めてくれる先生の言葉。体を包んでいた倦怠はいつしか意欲に変わり、寄りかかっていた壁から身を離させた。


「それは構わないけど、帰りの足は大丈夫かい?」

「迎えを呼びますから」


 答えると共にすっと短く息を吐き、気勢を再び集中へと練り上げていく。


「そうだ、月島さん」


 そうして戻ってきた良い緊張感を失わないうちにレンジに立とうとする私を、先生が不意に呼び止めた。


「そろそろ段位を取るつもりはないかい?今日だっていくら調子が悪いといっても、2段のボーダーは超えているだろう?」


 そう言って先生は壁にピン止めされた段級審査兼大会のポスターを指さす。


「う……」


 言葉が詰まり、折角纏った集中が霧消していく。

 この話題になると私はいつも困ってしまう。射撃を始めて1年と少し。自分と的、そのふたつだけに意識を集められさえすれば、体力を始め他の能力は問われないという性質が私に合っていたのか、私の腕前は協会が認定するライフルの段位どころか、記録に迫るレベルらしい。

 公的に与えられる肩書きにより、誰の目にも明らかに自分の力を認められる事は確かに魅力的に映る。にも関わらず、私が初段すら持っていないのは――


「……やっぱり、人前で撃つのは嫌かい?」


 小さく頭を下げる。私が半年前にこのレンジで高校生記録を塗り替えるスコアを叩き出してからというもの、幾度となくこのやり取りを交わしているせいで、彼は私の答えを待つことなく先を述べるようになっていた。


「自分と的以外のものが目に入ると、今みたいに集中出来る気がしなくて……」


 持って回った言い回しだが、結局のところ意味するところは、自分が衆目の前では緊張のあまり実力が出せないという情けない欠点だ。


「元々選手になりたいとか、大会に出たいとか、そういう動機があったわけでもないし……」


 弁明を続ける。決して謙遜ではない。

 そもそも始めたきっかけなぞ単にこの競技を知った時、を扱うという、ストレスの解消に適していそうだと感じただけに過ぎない。

 高潔な精神を良しとするスポーツの教義において、この考えはあまりにも冒涜的だ。

 長続きしている理由などはもっと口憚られる。自分に備わるたった一つの長所であると自覚していた集中力と凝り性な性格、そして他人が介在せずに苦手な運動も必要としない教義の性質がたまたま噛み合ってスコアに繋がるのが快感であるというだけである。

 決して競技そのものに魅力を覚えたわけではない。伸びる実力と先生さえいれば、例えば握るものがグリップから竹刀に変わったところで一向に構わない。


「ふーむ……意外とストイックなんだね」


 続く短い間と歯切れの悪い口調から、彼が言葉を選んでいる事は明白だったが、それでも決して私を否定しない。的外れなフォローに感謝しながらも思わず苦笑を浮かべてしまった。

 ストイック、か。そんな恰好のいいものでもない。他人が、他人の目がどうにも苦手なだけだ。

 事実こうして皆が帰った時間にしかここに来ることはできないし、競技が個人のブースで行われるものではなく、ここと同じく衝立ついたてのひとつすら存在しないことを知ってから、毎度このやり取りを否定で終わらせている。


「……このまま悪い癖がつくといけない。フォームを直してみようか」


 話を切り替えるためか、先生は打って変わってはきはきとそう告げ、私の集中を妨げないようにブースからかなり離れた椅子に腰かけ、老眼鏡を掛けた。その姿から目を離し再び構えなおす。

 彼の目は好奇のものではないと分かっているから、見られていても影響は少ない。一度大きく息を吸い込んで、ストックを持ち上げた。


「しかし、これだけの腕を僕だけしか知らないというのも、何かもったいない気がするなぁ」


 構える直前に聞こえてきた独り言のような小声。私は言を返さずに、そのままトリガーに指を掛けた。






※      ※      ※






 私を下ろした終バスが走り去る。迎えを呼ぶ、というのは先生を安心させるための方便に過ぎないかった。私にとっては会話の全くない車内で過ごすより、1人夜道を歩く方が心の負担が少ない。


「ただいま」


 ドアノブをひねりながら、返答を期待しないまま呟きを漏らす。誰の声も返ってくることはない。

 ……いつも通り、慣れたこと。そう自分に言い聞かせながらローファーを脱いで下駄箱にしまう。明りの漏れるドアまでの距離が妙に遠く感じるのも、普段と変わらない。1歩進むたびに、射撃と先生との会話で軽くなった心はいつもの重苦しさを取り戻していった。

 僅かにに浮いていたドアは音もなく開く。やがて視界の隅に映った、ダイニングでパソコンに向かう母親の背中を一瞥して通り過ぎた。


「あっ……お帰りなさい」


 ソファに座り込む音で、初めてモニターから目を上げたのだろう。こちらに駆け寄る音に続いて背中へと声がかかる。

 その僅かに速い語調から振り向かなくとも読み取れる、慌てた様子の母親に生返事を返すと、足音はピタリと止んだ。

 明言こそしなかったものの、拒絶の意思を汲み取ってくれたのだろう。


「ご飯は?」

「食べてきた」


 正面に回り込むわけでもなく、ただ背後からおずおずと訊ねる母親に、取り付く島の影すら見せない口調で返す。


「そ、そっか……お風呂、沸いてるからね」

「うん」


 決して、礼は述べない。こちらの敵意は明確に汲み取るくせに、私が欲しいのは便使じゃないということは分からないらしい。

 やがて、こちらに来るよりも幾分か落ちた歩調の足音が遠のいていく。勝手に漏れた溜め息を隠すように、ローテーブルの上にあるリモコンを手に取りテレビを点ける。

 沈黙が続けばまた余計な声を掛けられるかもしれない。そんな理由で眺めているものだから内容なんてどうでもよかった。

 しばらく適当にザッピングしていた私の指が、ある局の放映するドラマで止まる。画面の中では私と同じくらいの年恰好をした女の子の頬を、その母親らしき女性の掌が強かに張っていた。


『遅かったじゃない』

『どこ行っていたの』

『心配したんだから』


 短い口論の後、腫れた頬を押さえながら大粒の涙を流して泣きじゃくる女の子を、顔をくしゃくしゃにした母親役が抱きしめている。理想のウソを作り出す物語の中には、まこと私の欲しい言葉や行いが溢れ返っていた。


「……いいな」


 ――あの子はちゃんと見てもらえているんだ。

 無意識に漏れたその呟きも、モニタの中の世界に戻っていった私の母親には届くことはない。これ以上テレビを直視するのも、この場にいる事も苦痛しかもたらさないだろう。

 テレビを消して、ソファから立ち上がり、リビングを後にしても、母親からはお休みの一言も届くことはない。私も私で、最早何らかの感慨を抱く事すらない。

 それも飽きるほど繰り返された、日常泥沼の一幕に過ぎなかった。

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