42『閉じた棺と心の内側』
「え、え」
声が上ずり、ひとりでに体がびくりと震える。彼女はいつの間にか鼻先に迫るまで距離を詰め、じっと俺を見上げて来ていた。
「おかしくないですか。顔も見せてもらえないなんて」
いつからかその表情からは悲しみすら消えていて、感情を映さなくなった顔の真ん中に鎮座する、底の見えない濁りきった瞳がその中心に俺を捉えている。僅かな動揺すら見逃さないとばかりに瞬きひとつせず、ただじっとこちらを覗き込んでくる様が、異様な息苦しさを連れてきた。
「それは、事故でひどい状態だから――」
「だからって、死に化粧も施さず、家族すら棺を開けることが出来ないなんて、ありえますか?」
悲嘆にくれるような声のか細さはとう消えていた。代わりに宿っているのは、問い詰めようとする、知ろうとする硬い意志だ。
「石井さんなら何か知っているんじゃないですか。最後に直人さんと会った石井さんなら」
「俺は、何も――」
再び言葉を遮られる――今度は声ではなく、胸ぐらを掴む腕と潤む瞳で。
「何も知らないなら、どうしてそんなに目が泳いでるんです。どうして最後にあなたと会っていたんです。どうして私じゃなくて石井さんなんです」
彼女の口から発せられる無数の「どうして」が胸を抉る。どうすれば続くこの痛みから解放されるのか。
存在しないと解りきっている答えをなおも問う以外、俺には何も出来なかった。真実を告げても信用なんてされる筈がない。かといって納得できる嘘がつける平静さもない。
白石さんの頬から伝う涙が顎の先から落ちて、俺の胸倉を握る拳を濡らした。それでもなお離そうとしない指の間へと涙の筋が走り、やがてじわりと生暖かい感触が広がる。
彼女の痛みも、俺の痛みも、何時まで続くのだろう――。
「あのっ、彼は何も知りません」
いつまでも続くかと思われた弾劾の時間は、突如ベンチの後ろから響いた声に寄って終わりを告げた。聞き慣れているその声色に、聴いたことのない動揺を乗せている。
「あ、あなたは……」
俺より先に声の元へ振り返った白石さんが、涙を拭いながら尋ねる。
「突然失礼いたしました。この度はお悔み申し上げます。私は三吾恵美。鏑木さんやこの人と同じ、BE=SANGO営業部です」
営業用とでもいえばいいのか、なおも色のついた声で自己紹介を述べ、俺の胸元を掴む腕を離す。
「繰り返しになりますが、本当に彼は何も知らないんです。鏑木さんと逢った翌日から、高熱で会社を休んでいましたから」
「でも――」
「彼は最初に鏑木さんがどこかへ行ってしまった時も、捜索に尽力していました。今だって事情を良く飲み込めずにいる筈です……れなのにわざわざ隠し事をするとは、私には、思えません」
白石さんの方を向き直った三吾が告げる。その目は震え、端には涙を浮かべていた。彼女の顔を目の当たりにした白石さんの腕から力が抜け、だらりと下がった。
「……親戚の方があなたを探しておいででした。戻った方が、よろしいかと」
頬に流れる、白石さんのものと比べて随分と透明なように見える涙に指も当てず、三吾は言い聞かせるように、そして同時に反論を許さない形で告げた。
「は、はい……取り乱して申し訳ありませんでした。石井さんも辛いはずなのに」
「いえ、俺は――」
「私達も戻りましょう」
ひとりでに開きかけた口を遮られ、強制的に出口へと体を向けられる。同時に振り返った三吾の横顔は、まだ拭っていない涙が不釣り合いに見える程、いつもの仏頂面へと戻っていた。
――果たすべきことがある。そのためには。
応接室でのやりとりを思い出す。徹底したその演じ分けは彼女の言葉に偽りがない事を物語っている――そう思いかけた俺の目が、その口元が僅かに歪んでいるのを捉えた。よく見れば、小刻みに震える程に唇を噛み締めている。
「白石さん」
突然三吾がぴたりと足を止めて振り返り、斎場に戻ろうと遠ざかる足音へ声を掛けた。白石さんの足は止まったものの、返事はおろかこちらに向き直る様子もない。三吾はそれでも構わずに続ける。
「勤務時間外のこととはいえ、事故の責任は彼に仕事を負わせ過ぎた弊社にもあります。会社を代表して、というのはおこがましいかもしれませんが、社長の娘として、お詫び申し上げます」
三吾の声色は沈痛そのものだったが、それを単に過労死への謝罪の定型文としてしか捉えられなかったであろう彼女は、振り返ることなく再び歩き出した。三吾はただ静かにその背中を見送る。
「……ものは言い様ですね」
白石さんの姿が完全に見えなくなってからやっと歩き出した三吾の背中に向かって、あの一言の真の意味を知る俺が口を開く。
「嘘は言っていない。それより、あれほど余計な事は言うなと」
ごみを払うかのように涙を拭うしぐさを見せた三吾の声は、見事なまでに本来の無味乾燥なものに戻っていた。俺にはその切り替えの早さが、白石さんに並び立てた言葉に宿る嘘を強調しているように思えて不愉快さが募る。
「言っていないでしょう。あんたこそ良くあんなことがつらつら言えるな」
――心にもねえくせに
棘を込めて続けた一言に、それまで速足で歩を進めていた彼女の足が止まる。そして、いつものように俺を睨んだのだが。
「犠牲を厭わない事と、犠牲に対して何も感じない事とは違う」
一段と低いその声と、未だに震える口元だけが、いつもの彼女とは違っていた。
失言をしたと思ったわけではない。が、彼女が胸の内に渦巻く何かを押し殺していると解った途端、心の中に僅かな罪悪感が湧き上がった。
「……言い過ぎました。助けてもらったのに」
あのまま彼女の助け舟が無ければ、俺はまだあのベンチで胸ぐらを掴まれていただろう。普段の応酬とは打って変わって素直に頭を下げたのが意外だったのか、震えの止まった瞳を一瞬丸くして、三吾は声のトーンを戻した。
「――別に。探していたらたまたまあの場面に出くわしただけ。時間を取られたくなかったし」
「探していた?」
鸚鵡返しに訪ねる。この口振りでは偶然鉢合わせた、と言うわけではなさそうだ。
彼女が俺を探す理由。ひとつだけ浮かんだ心当たりに、思わず顔が上がる。
「貴方にも連絡が行っているはずだけど、電源をずっと切っていたでしょう」
そういえば、斎場に向かう前に端末の電源を切ってそれきりだったことを思い出した。電源を通知すると、スタンバイの終わった画面に1件の着信があったことを示すダイアログが表示された。
――掛けてきたのは、藤沢院長。
「……まさか」
「そう。ステージⅢへの移行が危惧されている被験者が見つかった」
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