第5相

40『帰る日常・返らない代償』

「おはようございます」


 週明け。定時15分前に営業部のドアを潜ると、俺の姿を見たなり皆一様に目を丸くしていた。

 まぁ、その反応も無理もない。理由も告げずに1週間近く会社に来なかった人間が平然と立っているのだ。

 昨日院長を通して復帰の申し入れはしたものの、リアクションとしては「わかった」の一言だけで今日まで音沙汰はナシ。むしろ俺が椅子に着くまで、理由のひとつも尋ねられなかったのが不思議で仕方がなかった。


(話は既に通っているって言っていたけど……)

 ――あれは慰留に成功したことになっているって意味なのか、それとも無断欠勤扱いなのか?

 まさか、留置所にいた事まで伝わってはいないだろうな……。

 色々と想像を巡らせながら机の上をざっと眺めるが、私物が動いた形跡はない。まるでここに戻ってくる事を知っていたように、デスク周りは俺が最後に使ったままになっていた。


(やっぱり、社長の掌の上ってことか)

 心の中で小さく舌打ちを打つ俺に、ちょうどエレベーターから降りてきた小林課長が慌てて駆け寄ってくる。


「石井さん!」


 ――まずい。驚きと心配を半々に混ぜたその声に思わず身構えてしまう。まだどういう建前で復帰できたのかが見えていないワケで、続く言葉に対して何を取り繕えばいいのかも皆目見当がつかない。


「すみません。自分の勝手で……」


 ひとまず先手を打って、開口一番頭を下げる。このリアクションなら復職と病休、どちらでも辻褄を合わせることが出来る筈だ。


「何言ってるんですか。いきなり40度も熱が出れば、連絡だって疎かになりますよ」

「へ?」


 思わず出た声と共に、「あ、そういう事なの?」と続けようとする口を慌ててつぐむ。


「え、えぇ、熱が下がった時点で連絡すべきでしたが……」


 適当に話を合わせる俺の顔を、小林課長は心配そうに覗き込んできた。


「いいえ。平日にお休みした分は、こちらで有給扱いにしておきました。正式に診断書が降りれば出勤停止扱いにしますので」

「本当、申し訳ありません」

「いえ、元気になられて良かったです。なにしろ……」


 そこで課長は不意に言葉を詰まらせた。その続きを遮るように手を口に当て、逸らした目に泳ぐ瞳がフロア中をあてどなく漂っている。

 何を言おうとしたのか気にならない訳ではなかったが、ひとまずは乗り切ったという判断を下して密かに胸を撫で下ろした。


「そうだ。病み上がりに直ぐで申し訳ないのですが、今日の業後にですね……」


 取りあえず解放されたと思いPCを立ち上げにかかったのだが、予想と裏腹に課長はまだ傍を離れる気はないようだった。もう一度視線を合わせると、どこか言い出しにくそうな、そして悲しげな表情を浮かべている。

 その顔と、そしてあれから経過している日数を頭に思い浮かべてすぐに俺は思い当たった、……思い当たってしまった。自分を取り巻く状況の激変に麻痺していた感情が、じわりと背筋を撫ぜる。


「……何か?」


 上擦った声が喉を滑る。分かりきった返答を待つ時間は、ただただ苦痛だった。


「いきなりで驚くな、と言うのも無理はありませんが……昨日の夕方、鏑木さんがお亡くなりになりました」


 ――いきなりではない。むしろ限りなく当事者に近い。そうは解っていても、改めて言葉にされたその事実が、胸に突き刺さった。

 それをあまりの驚きのあまり言葉を失っていると解釈されたのか、切り出した本人までもが悲痛の色をいっそう濃くしている。


「そう……ですか」


 歪む口から絞り出した声は演技ではなく、沈んでいた。


「週末に事故に遭われて、昨日……お通夜は今日の夜、鏑木さんの実家近くの斎場で執り行われますから、午後の仕事に見切りをつけたらそのまま向かってください」


 今にも泣き出しそうなその顔を前に、本当は事故なんかじゃないんです。隣に座っている女と、ここの社長と、得意先の院長と。


 ――この、俺の、仕業なんです。

 力の限りそう叫びたい衝動を喉奥でぐっと押し殺す。信じてもらえる土壌がない以上、それを口に出したいと思うことは、ただ許されたいが故の衝動でしかない。


「わかりました」


 顔色を悟らせないように俯きながら返し、背中を見送ってから椅子を引く。その後直ぐ、それこそこちらを密かに伺う三吾と目が合う前に朝礼のチャイムが鳴ったことは幸いだった。

 いつもの調子で何を言われても、胸ぐらを掴んでいたと思う。






 ※     ※     ※






 時計の針が11時を差しても、院長からの呼び出しは無い。つまるところ復帰したところで今日も俺の仕事は皆無だった。だが、今の俺には暇を嘆く余裕はなく、そして無情にも、いつまでも悲嘆に暮れている猶予もなかった。

 ぱき、と鳴る腰に伸びをひとつ。ついでに辺りを確認してタスクバーの左から2番目に表示されている検索エンジンを再び手前に表示する。始業時間以降適当な表計算ソフトを蓑にしながら、あの飛行機事故の記事を漁っていた。

 途中で幾度かまともに仕事に手がついていない様子の小林課長を手伝ったものの、最終的には全員が外訪に出る中ただひとりデスクに向かう俺が逆に心配されてしまう有様で、ほぼすべての時間をネットサーフに使うことが出来た。

 ――が。そんな努力もむなしく、目下目新しい手掛かりは見つかっていない。重要なのは事故の概要ではなく『何故自分がその飛行機に乗っていたか」という点なのでネットの情報にさしたる期待をしていたわけではないが、落胆がなかったといえば嘘になる。それならばと前後3日間の世界における出来事を漁ってみたが、出発点であるニューヨークに特段催しがあった訳でもないようだ。


(というか、そもそもこの俺が外国なんぞに何の用事があったんだ?)

 碌に英語も喋れないし、まして第2外国語の授業なぞサボった回数のほうが多いくらいなので、生まれてこの方外国に憧れを抱いた事すらもない。

 有り得る線としたら、失った記憶の中の友人と旅行、といったところか……?記憶を無くすまでの俺がそこまで社交的な性格だったとも思い難いが。

 ただ事態が時々刻々と逼迫する現状、僅かでも可能性があるならば無視はできない。ポケットから端末を取り出し、連絡帳を開き「大学」と名のつけられたグループを開く。

 表示結果は、僅かに1件。


(そういえば、高柳君以外の名前は消しちゃったんだっけ……)

 全く覚えのない名前と言うのは眺めるだけでも不気味で、しかも事故から1年経ってもそのリストからは彼以外に連絡が来る事もなかったので、卒業と同時にデリートしてしまったのだ。

 その高柳君すらも、社会人になってからは新年のあいさつすら寄越さなくなった。

 自分の迂闊さを悔やむ。いっそ大学に赴いて名簿でも調べてやろうかと思い立った矢先、突然端末が震えた。


(メール?鏑木から呑みの誘いかな)

 あまりにも自然に思い立った推論は、サブ画面に表示された『母親』という文字と共に消え去った。心にまたひとつ棘が刺さったような心地を抱えながら、待機画面に戻すと、表示されたデジタル時計がゼロを四つ並べている。

 ……ひとまずはここまで、か。課長に昼食後そのまま鏑木の家に向かう事を告げると、さっきの一幕もあってかあっさり了承が取れた。一礼して営業部を後にし、エレベーターに乗り込む。

 モーターの音だけが低く唸る籠の中で再び端末を取り出し、メールを開く。


『SUBJECT:無題

 和也から貴方と会った事を聞きました。

 お仕事の調子があまり良くないようですね?

 無理をしないように、体調は崩していませんか?』


(ちゃんと変換できるようになってる)

 お決まりの文句しか並んでいない、いつも通りの文面。なのに俺はエレベーターが止まるまでその画面を閉じられずにいた。

 自らに死が忍び寄っている自覚だけでなく、親しい者の死そのものを目の当たりにした事で嫌でも頭にちらつくようになった思い。

 ……俺はあと幾度このメールを開けるのだろう。


「これからお昼ですか?」


 知らぬうちに、文面の下にあるUターンする矢印へと伸びていた指は、1階への到着を示すチャイムと共に聞こえた声によって止められた。

 端末を懐にしまいながら顔を上げると、ちょうど外訪から戻って来た三吾が立っていた。相変わらずぱんぱんに膨れ上がった鞄を腕から提げている。


(こんな時まで仕事、仕事か)

 窮地を救われた恩と、協力していかなければならなくなったという事実に薄れていた怒りが、再び込み上げてくるのを感じた。

 その目的がなんなのかは見当がつかないが、そのためには何をも犠牲にすると息巻くこの女にとって、同僚の死すらも特に気に留める必要がないのだろう。


「……ええ」


 普段のように余計な一言を添える余裕はなかった。必要以上に口を開けば、その勢いでぶちまけてしまいそうな怒声を抑えながら、ただ頷きだけを返す。


「鏑木さんの家には、そのまま?」

 ……だというのに、どうしてこういう時に限って会話を続けようとするのか。苛立ちと共に再び首を縦に振ると、彼女はそう、と呟いて俺の脇を通り抜け、エレベーターへと乗り込んでいく。


「家族に余計な事は言わないように」


 すれ違い様、俺にしか聞こえない大きさで耳を打ったその文句に足が止まり、俺は下唇を噛んで振り返っていた。


「ってめ……!」


 しかし既に彼女の姿は無く、閉じたエレベーターのドアが怒りに歪んだ俺の顔を反射していた。

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