20『悪夢は瞼(まぶた)を越えて』

『悪い、楓からすぐに帰れって連絡が入った。会計は済ませておいたから、お前ももう店を出てくれ』


(30分以上待たせてそれかよ!)

 こっちはその間、答えの出ない疑問を堂々めぐりして悶々としていたというのに……!

 反論する間もなく切られた通話に、思わず睨み付けた端末の画面。そこに映る時刻は23時前を指していた。

 もう家に続く乗換駅への特急は無くなっている。帰る頃には日付をまたぐのは確実だろう。急いで帰りたいという気持ちはもちろんだが、もどかしい気持ちを持ち続けたまま過ごした30分が徒労に終わったとあってなお、駅まで足を動かす気力が湧くはずもなかった。


「タクシー呼ぶか……」


 住所を確認するためにもう一度バーテンに掛けようとした声が、ふと思い当たった心配に引っ込む。


 ――そういえば、追加注文した分の支払いがあるんじゃないか……?

 目の前にはつまみに注文したナッツの空き皿と、二度取り換えられたカクテルのグラスが置かれている。

 カクテル3杯とナッツ。オーダーを確認してからさりげなくバーテンに見えない角度で財布を開き、中の札を見る。


(まさか、足りないなんて言うことはない……よね)

 正確にはこの計算にタクシー代も加味しなければならない。もう一度カクテルメニューを確認してみるも、どれもこれもこじゃれた名前がついているせいで自分がどれを注文ししたかすら記憶に怪しかった。


(そもそも、会計ってどうやんのよここ)

 連れられて店内に入ってきたときに見渡した限りでは、普通の飲み屋なら入り口付近にあるべきレジが見当たらなかった。もしかしたら、目の前のバーテンに頼むシステムなのかもしれない。


「あの、すみません、お会計……」


 おずおずとバーテンに声を掛けると、グラスを拭いていた手を休めてゆっくりとこちらに向き直った。


「ああ、チェックですね。既にお連れ様から頂いております」


(チェックってなんだよ……)

 柔らかな笑顔を浮かべてから、ゆっくりと奥に消えたバーテンを悟られないように睨み付ける。

 ともあれ、これは席を立っていいということだろうか。追加注文について何も言われないという事は、鏑木がカードの番号でも伝えていたのか。


「ありがとうございました」


 荷物を持って立ち上がっても、伝票を差し出すような気配はない。なるべくおどおどとした態度を気取られないように、自分でもやけにゆっくり感じる程遅い歩みで、出口の前まで歩く。


(あ、タクシー呼ぶの忘れてた……いいか、外で)

 住所がわからなくても店の名前を告げればどうにかなるだろう。とにかく早くこの慣れない空間から解放されたい一心でドアに手を掛ける。

 ――と。


「あの、お客様」

「はひ」


 ほっとして店を出ようとした矢先に背中から声を掛けられ思わず声が上ずった。振り返ると先程のバーテンが何かを手に持って立っている。

 なんだ、やっぱり鏑木が払った分じゃ足りないとかないだろうな……。


(そういえば、高級な店にはチャージ料とかいうものが――)

「こちら、お連れ様のものではございませんか?」


 ――セエエーフ。

 胸を撫で下ろしながらバーテンが握ったものを見やる。さっき鏑木が目元をぬぐうのに使っていたハンカチだった。


「ああ、多分そうです」


 すみません。そう続けようとした時、その布を握るバーテンがどこか落ち着かないことに気付いた。まるで自分が持っているものを早く誰かに渡したそうにそわそわしている。


「お連れ様、どこか体調を悪くしておいででしょうか……?」


 その質問の意味が解らず、とりあえずうろんげに応えて受け取る。


「あ、ありがとうございます」


 礼を述べながらハンカチを畳もうとする俺の手が、急にぬめりのある水気を感じ取った。

(なんだ……?)

 店の外へと出て、タクシーを待ちながらもう一度、街灯の下でハンカチを手に取り――俺は再び言葉を失った。

 そりゃ、無理もないだろう。広げた麻の布は、今やその身に半分以上をどす黒い血に染みこませて、光を鈍く透かしていたのだから。






 ※     ※     ※






 玄関のドアが小さな音を立てて俺と外を分断すると、ひとりでに体から力が抜けて行った。


「あー……」


 ドアにもたれかかりながらずるずるとしゃがみこみ、喉から声を漏らす。タクシーが来るまでしこたま辺りを走りまわったおかげで、既に二日酔いにも似た気持ち悪さが俺を支配している。

 秋の始まりを告げる夜風も、酔いと発汗を覚ますほどの冷たさはまだなかった。


(結局、鏑木は見つからないし……)


 ここの所あいつの姿を探して奔走ほんそうしてばっかりな気がする。恐らく俺にメールを送った時点で奴は既に店から離れていたのだろう。くらくらする頭でタクシーの窓からも懸命に彼の姿を求めたが、それも悪酔いを加速させるだけに終わった。

 這いずるようにリビングへとたどり着き、体を締め付けるスーツを脱ぎ捨て、そのはずみに端末が内ポケットから飛び出し床を滑って行った。

 ……ああもう。ソファに投げ出そうとした体をどうにか動かして拾い上げる。相変わらず通知のランプは光っていないようだ。


(で、連絡もなしと)

 何度も電話したのに、と愚痴る脳内を今度は痛みが支配し始める。低いうめき声を上げながらダイニングの冷蔵庫へと手を伸ばし、中に入っているテュエ・リベを一本取り出した。


(疲労も二日酔いも、似たようなもんだろう)

 これを開けたら、今度は白石さんにも連絡を取ってみよう。そう思いながらスクリューを捻じり、胃の中から伝わる嫌なものがせりあがる感覚ごと一気に飲み下す。気のせいか少しだけ体が軽くなった気がして、なんとか腰を上げることが出来た。


「よし」


 ちいさな気合と共に端末を手に取り、画面をタップしようとした矢先、低い振動が掌を伝わってきた。


(こんな時間に……電話?)

 表示されたのは番号だけで、アドレス帳の登録はない。番号にも見覚えがない。首を傾げながらもとりあえずオフフックのボタンを押し、耳に当てる。


「はい石井――」

「      」


 声か、音か、スピーカーから放たれた何かが、俺の鼓膜を揺らす。

 それを知覚するかしないかのうちに、俺の体は糸の切れた人形のように乱暴に崩れ落ち、意識はぶつりと途切れた。

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