17『足に蔦の絡むような』

「ギリギリセーフ、かな?」 


 その声に、浮き足立つ周囲と全くそぐわない爽やかさを伴いながら、鏑木は俺達の前止まった。当然周囲は一日病欠しただけの同僚の出勤など、課長の転属劇の前には気にする余裕もないだろう。しかし事情を知っている俺たちにはそれと同等かそれ以上に驚くべきものがあった。


「何々?おふたりさん仲良く呆けちゃって」


 軽く驚きながら調子よくからかってくるその表情は、俺が昨日駅のホームで見かけた奴の面影は全くと言っていいほど見当たらない。完全にいつもの鏑木に戻っている。

 周囲の目がなければ、お前は今まで何をしていたんだと大声で問い詰める所だった。隣に立つ三吾も同じように何か言いたげな顔色を浮かべていたが――


「……もう良いんですか?電話もできないほど酷い風邪を引いていたって課長に伺いましたけど」


 他の皆の目があるからか、三吾はいきなり核心に迫るような質問を飛ばさず、表向きの理由を引き出し確認を取りにいった。


「うん、もう全然大丈夫。これ以上成績落としたくないしね」

「だったらまず、その立ってる襟を直すことですね」


 呆れた様子でそう返しながら素早く鏑木の襟を正すと、たったそれだけのやり取りで俺達から離れて行ってしまった。納得のいく答えを得たからだろうか?


 ……んなわけねえべや。

 彼女にはそれが忽然と姿を晦ませた事を隠す蓑であることは、さんざん俺たちを問い詰めて知った筈だ。そのくせ俺達にはあれだけ執拗になってその嘘を暴いたくせに、当の本人に訊こうとはしない。


「どういう心づもりなんだか……」


 その背中を横目で見送った後、改めて鏑木の方を見やる。


「お前、本当に風邪だったの……?」

「あ?」


 一応誰かの耳に入る可能性がある手前、声を潜めて訪ねてみたのだが、辺りのざわめきに対して声が小さかったのか鏑木は眉を見初めて訊き返してきた。


「……いや、なんでも」

「なんだよ。藪から棒に」


(聞こえてたんじゃないか)

 もしくは、あえて流そうとしたということなのか、どちらとも取れないその対応にもう一度聞き返す気をしぼまされる。

 その上、彼の興味と視線はやはりというべきか、既に荷物の片付けを終えて布巾を掛けられている課長の机へと向けられていた。


「妙に騒がしいと思ったら……」


 到着したばかりでまだ掲示を見てないだろうが、鏑木もその光景からあらかたの察しはついたようだ。


「檜原の事務センに飛ばされるんだとさ」


 一応説明を加える。何一つ情報を加えられていないが、あの張り紙を見て更にわかることはそれくらいのものだ。


「それってモロに左遷じゃんか」 


 大声で口に出すなバカ、とその驚きを前面に出す顔を軽く叩く。大げさな声とリアクションを返してくるその姿はやはり、いつもの鏑木そのものだ。

 しかしそれが却って、何故本当のことを隠そうとするのかを余計にわからなくさせる。普段はバカがつく程に正直な性格なのに。


「これだけあからさまな処分って、課長何かしちゃったのかなぁ……いい人だったのに」


 強くなる疑問に押し黙る俺をよそに、鏑木が心配そうな声を続ける。


「お前が課内で一番喋ってたろ。何か知らないの?」


 業績第一の課長が鏑木(と、三吾)というエースの面倒を手厚く見ていたことは誰でも知っている。必然、他の人間との交流は少なくなっていた。故にフロアの空気に蔓延しているのが別れを惜しむ声でも解放の喜びでもなく、ただ不透明の事態への戸惑いだけなのだ。


「俺に言われてもなぁ……仕事の話以外はほとんど家族の話してしてなかったよ。最近でも変わった様子なんかなかったしさ」

「まぁ、そりゃそうか」


 傍から見てもこれだけ急な決定が下されている。彼の処分の原因が不祥事だったとすれば、部下に疑われる程度の隠し方をすればいいほど小さな事ではなかったのだろう。

 彼が一体何をしたのか見当もつかないまま、段々と落ち着きを取り戻してきたフロアの扉が、後任であろう見知らぬ顔に開けられ、その紹介と続けざまに朝礼が始まった。


 ※      ※      ※

 

『FROM:母親

 SUBJECT:ごめんなさい

 掃除しているときに、都大会のトロフィーを落としてこわしてしまいました。

 せっかく頑張って優勝したのに、ごめんね。もしよければ修理――』


 (いや、それ和也のだし)

 ――いつの話をしてるんだか。それに俺のは隣だよ。準優勝。

 未返信のメールが溜まる画面をポケットに突っ込み、いつものように一つ下のフロアのトイレから出て、手を拭きながら息を着く。小林と名乗る新課長にも俺の話は通してあったようで、始業後しばらくは外にも出ずぶらぶらしている俺を怪訝な目で見ていたものの、昼前にはこちらに目を向けることもなくなっていた。


(まぁ、絡んでこない所は前よりましか)

 ただ、それが素直に喜ばしいとはどうしても思えなかった。いちいち頭の中で比較するたびに、前課長に身に起こったことがどうしても気に掛かるのだ。

 引き継ぎ期間もなく、午前中も顔を見せなかったとなれば、彼は既に事務センに赴任しているということだろう。転勤しなければならない地方支社などに飛ばさなかったのは、会社側のせめてもの温情という事だろうか。


(ある意味むごいとも言えるけど)

 あくまで出世欲皆無な自分の想像でしかないが、なまじ遥か遠くの地へと飛ばされるより、過去に自分が課長というポストに収まっていた場所が近い方が苦痛な気もする。

 それも今まで自分がいた本社とは対照的な人材の墓場なのだ。プライドの高い人間にこれ以上の屈辱はないんじゃなかろうか。


「まぁ、俺には関係ないけどさ」


 というより、俺がどうしたところでどうしようもない。思考に区切りをつけてフロアに戻ろうと階段に足を掛けたところで入れ替わるように大切なことを思い出す。


「そうだ、白石さんへ連絡……」


 鏑木の顔を拝めて気が緩んだのか、再びすっかり頭から抜け落ちていた。あの様子だと一度は帰宅したようだし、彼女へ連絡を取っていないという事は無いだろうが、一応会社にも顔を出したことを報告した方がいいのかもしれない。

 階段を登りながら端末に手を伸ばすと、ちょうどメールを受信した振動が掌に伝わる。


(あ、鏑木だ)


『SUBJECT:無題

      今日呑みに行こうぜ』


 思わず苦笑いを浮かべる。とうとう仕事の件のついでですらなくなったか。一応は病み上がりという事で報告しているだろうに。

 毎度のことで月曜からは呑みたくない旨を打とうとしたところでふと思い立ち、指を止めた。頭の中に奴と交わした今朝のやり取りが浮かんだからだ。

 ――ちょうどいい。しばらく踊り場で立ち止まって文面を練る。


『SUBJECT:Re:無題

        そうだな、会社じゃ話せないこともあるだろうし』


 ……カマ掛けとしては悪くない文面だろう。思った通り返信はすぐに届いた、今朝の、というよりここ最近の行動について彼も俺に何か言いたいことがある、もしくは訊ねられる事を想定しているという事だ。


(洗い浚い聞き出してやるか。三吾みたいに)


 週末どこにいたか、治験のバイトじゃ何をやっているのか。駅にいたのはお前なのか。もしかしたら、今朝の事も何かわかるかもしれない。

 期待を胸に階段を登りきって端末から顔を上げる。


(あ)

 ――どうやら最後に思い浮かべたことは、鏑木に訊くよりも早く解りそうだ。

 上げた目線が捉えたものは、廊下の向こうから歩いてくる、課長の姿だった。向こうもこちらに気付いたのか、歩みを止めないまま眉をピクリと上げた。


「課長――」

「もう俺はお前の課長ではないよ」


 温度を感じさせないその声に俺の足が止まる。彼は歩みを緩めず、表情を一つも変えないまま、立ち止まる俺の横を通り抜け。


「――!」


 すれ違いざま発せられた一言に、腹を強かに殴られた様な衝撃を受けて、俺はしばらくその場に呆然と立ち尽くしてしまった。課長はそんな俺に一瞥をくれることもなく、静かに階段を下りていった。

 端末が手から滑り落ち、乾いた音を立てて床に転がる。その行方を目で追う事すら出来ない体が、ひとりでにかたかたと戦慄わななきはじめていた。


 ――全部、お前のせいだ――

 

(俺には関係ない事じゃ、なかったのか……?)

 課長の足音はとうに遠くへと消えている。

 それでも歯ぎしりと共に聞こえた重く低いその声が、立ち尽くす俺の耳にいつまでもこびり付いていた。

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