16『イージーカム・イージーゴー』
「なんだこれ」
俺が公衆電話からの不在着信に気付いたのは、身支度をして家を出た直後だった。案の定時間ぎりぎりまで目覚めなかった俺は、取るものも取りあえず家を出て電車に飛び乗った。そして疾走も虚しく、会社に続く大通りに出た所で時計を確認した所で突き付けられた、最早どうあがいても遅刻は免れないという事実。
もういいや、と逆に落ち着いたところでやっと、寝る前に断念してしまった白石さんへの連絡を思い出した。慌てて懐から端末を出してようやく、端末の先端についているランプの明滅が目に留まったのだ。
1人1台以上端末を持つことが常識になって久しいこのご時世に、深夜わざわざ公衆から掛けてくるような物好きを知り合いに持った覚えはない。それも僅か3分の間に4回も掛けてきているのだ。ただでさえ大学時代記憶を失い人間関係をリセットしている以上、自分の番号を知っている人間などごく限られている。
『公衆から、深夜に、立て続け』
その特異さが、名の見えない電話の主を浮き彫りにした。
――恐らく鏑木だろう。彼は何らかの理由で自分の端末を使うことが出来ず、どこかにある公衆電話を見つけて、やっとの思いで俺に掛けたのだと推測出来る。帰宅してから麻痺していていた切迫感が、だんだんとその緊張を取り戻してきていた。
しかし、掛け直そうにも相手が公衆電話なのだからどうしようもない。走りながら考えているうちに会社が見えてきてしまった。
「とりあえず、白石さんに電話だ」
急いで端末をタップしようとすると、突然画面が切り替わり、見慣れない番号が画面に浮かぶ。
(なんだよこんな時に!)
苛立ちながらオフフックのボタンを押すと、スピーカーから聞こえてきたのは予想だにしない声だった。
「石井さん!今何時だと思ってるんですか!」
相手がわからないまま取ったせいで、いつもならばうんざりしながら聞き流している甲高い声が直撃して思わずよろけた。
(三吾?!)
「なんで――」
番号を知っているのか、そう続けようとした俺の言葉は、彼女のさらなる怒声にかき消される。
「もう5度目の遅――」
そこで不自然に言葉が途切れる。丁度エントランスのドアを潜るタイミングだったので、いっそこのまま切ってしまおうと考えたが、この後すぐに顔を見る羽目になるというのに自分から激昂の種を蒔くのも考え物だ。エレベーターのボタンを押しながら無言で続きを待つと、幾分平静を取り戻した彼女の声が続いた。
「……いや、今はそんなことはいいです。とにかく早くオフィスに」
声にまとわせていた怒りが消え、そこで初めて彼女の声に焦燥が混じっている事が伺えた。
そこまでこちらを急かしたいのだろうか。この時間ならば朝礼はまだ始まったばかりのはずだというのに。
「もうエレベーター乗りますから、課長にうまく伝えてください」
籠の中は電波を遮断する造りになっているので、これ以上会話を続けるのは無理だ。結局白石さんへの連絡が出来なかったことに嘆息を付きながら、俺は端末を耳から離した。
「その課長が――」
懐に戻す途中、三吾がさらに何かを続けようとしていたような声が漏れ聞こえてきたような気がしたが、特に気にも留めずに電話を切って、4階のボタンを押す。
そういえば、何故彼女が自分の連絡先を知っているか訊ねそこなった。仕事上の連絡は全て営業用に支給された端末で行っているので、余程密に私用の連絡を取る間柄――それこそ、俺には鏑木くらいしかいない――以外でプライベートの番号を交換する必要などない。
そもそも奴には頼まれたって教えたくはないのに……昨日俺が帰った後、改めて課長にでも聞いたのだろうか。
(だとしても、何の為に)
答えの出る筈がない疑問に囚われているうちに籠が止まる。俺がいつものように慌てて来た感をどう演出するかを考えながら扉が開くのを待った。
――が。
「あれ?」
開いたドアの先に見えたのは、何時もの厳かな朝礼の雰囲気とは程遠い、せわしなく往来する人たちとざわめきに支配されたオフィスだった。
「やっと来た!」
その右往左往しているうちの一人だった三吾がこちらを見つけるなり駆け寄ってくる。
「一体なんだっていうんです?」
「……やっぱり聞いてなかったんですね」
(そういや切り際、課長がどうとか言ってたっけ)
思い起こしながら課長の机に目をやると、あいにくと本人は不在のようだった。しかしその代わりに役席机の上に置いてある段ボールに、彼のものであろう荷物が乱雑に積まれている。
「これって……」
この光景は半年前、4月にも見た事がある。ある予感が浮かんだ俺が慌てて掲示物の貼ってあるボードに目を向けると、そこには未だ信じられない、といった表情の面々が一つの紙に向かってその視線を集中させていた。
『 人事異動の告示 9月29日付
9月末日を以て、下記の通り異動とする
唐津 信一郎 旧役職名 本社 営業課長
新役職名 檜原事務集中センター 事務第二課長 人事部』
「今朝、急に内示があったそうです」
驚きに目を丸くしている俺に、後ろから三吾の声が掛かる。
「人事異動?!こんな中途半端な時期に?」
それも本店の営業課長から事務センターへ。これじゃまるで――
「左遷みたいじゃないか……」
「みたい、ではなく実際そうでしょうね」
声の終わりを不自然に濁すあたり、彼女もまた課長の身に起こったことについて理解をしかねているようだ。
檜原の事務集中センターといえば、コミュニケーション能力に欠け営業で花開かなったものや、定年間近までしがみついて、それでも上へ行くことが出来なかった平社員が最後に送られる、所謂『人材の墓場』だ。
そう遠くない将来送られるであろう場所の事は詳しく調べている。その中でも殊更閑職と悪名高い第2事務課へ配属など、これが制裁人事であることは誰が見ても明らかだった。
改めて課長の席を見やると、その脇にはすでに後任の人間の者であろう荷物の山が小奇麗にまとまっており、新たな荷物が届く度、デスクの上の段ボールが運び出されていく。
その正反対さも相まって、まるで課長がいた痕跡を次々と、淡々と消されていくような光景に思わず胸が痛んだ。
別に仲が良かったわけじゃない。むしろ
それでも昨日の夕方、彼にとっては部下の、俺にとっては友人の安否を思う顔が脳裏にちらつく。彼が見せた
まさかこの人事の背景には、彼が行方知れずとなったことが関わっているのだろうか。
(例えば、鏑木の件を上に隠した、とか)
例えば監督不行き届きの叱責を恐れるあまり、部下が断りなく忽然と消えたことを上に報告しておらず、一人で事態の収拾を図ろうとして、それが露見した。
しかしその問題はまだ発生してから丸3日と経っていない。当初から事態を把握している課長や俺はともかく、上がこれを大事と判断するか否かを結論付けるにはいささか早過ぎるように思える。
――にもかかわらず、この処分の重さと速さはどうあっても不自然に思えた。それとも、俺が知りえないだけで、既に彼の身に何か起こってしまったからこその処断、ということなのだろうか。
「鏑木……」
知らず俺の口から、その名前がポロリと零れ落ちる。
「呼んだか?」
そうだ、あいつはそんな風にいつだって能天気に明るい声で割り込んで……
――って。
俺と三吾が慌てて振り返ると、いつの間にか再びエレベーターの扉が開いていた。その中から出て来てこちらに歩み寄る人影がひとつ。
派手目な色使いのネクタイをあしらい、袖口の汚れひとつ浮かんでいないストライプのシャツを身に纏い、光るピアスを揺らしてこちらに片手を上げていたのは――
「「鏑木?!」」
俄かには信じがたい光景に恐らく互いに知り合って初めて、俺と三吾の声がぴたりと重なった。
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