10『貴方の風邪(?)はどこから?』

「今日も一日お疲れ様でした。これから夕礼を始めようと思います」


 17時半のチャイムが鳴り、外勤が全員戻るのを待ってから、何時ものように椅子を課長の席へと向けての業績の報告がを始まった。


(もう空が昏くなりはじめてる。だんだん日が短くなっていくなぁ)

 俺はというと相変らず視線を外して窓から景色を眺めているわけなのだが、いつだかのようなプレッシャーを感じる事は無くなっていた。

 先月の末に藤沢総合病院で(唯)一仕事を終えた為、これで来四半期まではお咎めを流すことが出来る身分と化している。


「次、石井」

「はーい、ありませーん」


 そんなわけで、もはやボウズを意味する受け答えすらも雑なものになっていた。一瞬だけ視界の端に捉えた課長がぐっ、と苦虫を噛みつぶす表情を浮かべるのが見えたが『文句があるなら結果を出せ』という自分の口癖を恨んでほしい。

 他の人の成績に興味がないのでロクに見ちゃいないが、今期も俺の成績は上の方から対して下がらないだろう――


「なんだ鏑木!お前もか!」


(あれ)

 苛立ちの募った課長の怒声に、正確に言えばその内容に驚いて思わず振り返ると、机を叩いて幼稚な語彙で叱責を飛ばす課長と、黙って俯きながらそれを受け止める鏑木の姿があった。


(珍しいな、鏑木が見込み先情報もなしとは)

 俺の心情とほぼ意味を同じくする囁きが始まり、やがてそれは擁護の声へと変わって課長の荒息を沈めていった。彼は未だ立ったままの鏑木を一瞥し「もういい。明日は頑張れよ」と短く告げて椅子を回して背中を向ける。夕礼が終わった合図だった。

 皆がそれぞれデスクへと姿勢を戻していく。その中でワンテンポ遅れて腰掛ける鏑木の表情が一瞬だけ俺の眼に入ってきた。その顔に違和感を覚えて、一度通り過ぎた俺の視界が再び彼にフォーカスした。


(……?)

 どうもあれは成果がなくて凹んでるというより、疲れが溜まっているような感じだった。それも並大抵のレベルじゃない。目の下の隈は濃いし、改めて顔を覗くと夏に比べて若干やつれた気もする。

 大体いつもならば成績が芳しくなくても自分から軽口の一つでも叩いていなすような性格なのに、今日は延々と黙りこくっているだけだった。座り直してところで何かを始めようとする気配も一向に感じない。普段滅多に叱責を受けることがない人間には課長の雷はキツかったのだろうか。


「災難だったな」


 周りが再び立ち上がり、残業だの帰る準備だのを始めたのにもかかわらずまだボケっとしているので、流石に心配になり声をかける。普段と逆の様相だ、明日は雨でも降るかな。

 しかし当の鏑木はこちらに向き直るどころか、相槌の一つも返してはこない。俺に対して何か思うところでもあるのだろうか。


(――まぁ、俺のせいで怒られた節もあるしなぁ)


「ごめんね。俺が課長をイラつかせたばっかりにさ」


 片手を上げ礼の形を作って謝っても、やはり反応なし。流石の俺もこれには苦笑い。というか2回も無視する程怒るような事だろうか。背を丸めている鏑木の顔色をうかがうべく少し屈む。

 何時もより細くだが、目は開いている。寝ているわけではない。


(けど――)

 なんというか、顔色がない。無表情とも違う虚ろさを漂わせて、焦点の合わない目でただ机の一点を見ている……どんだけ疲れているんだ。それとも季節の変わり目に風邪でも引いたか。


「鏑木?」

「ぅあっ!?」


 心持ち声を大きく耳元で呼びかけると、やっとのことで彼は弾かれたように丸めた背中を伸ばした。ガタンと派手な音を立てた彼の椅子に、オフィスに残っている何人かがこちらを向いて、「またあいつらか」とすぐに視線を戻すのがわかった。


「ああ、すまん石井か……少しボーっとしてた……」


 軽く息を切らしながら答える鏑木。今日は成果なしとはいえ、彼は相変わらず三吾に次ぐ成績をキープしている。その仕事量に加え、恋人との式を再来月に控えプレッシャーがのしかかっているのだろうか。


「少し根詰めすぎなんじゃないの?このまま頑張りすぎて式の途中で倒れたら笑えないぞ」

「あぁ、いやこっちの仕事はそんなに大変じゃないんだが……」


 言いよどむ鏑木を見て、俺は二月ほど前に同じリアクションを見た事を思い出す。あまりボリュームを大きくしては迷惑だろう。


「例のバイトの方?」

「なのかなぁ」 


(そりゃこっちが訊きたいわ)

 そうだとも違うとも言い切らない、なんとも的を射ない返答。やはり単に兼業のバイトがきつくて疲れている、という訳ではなさそうだ。

 しかし、自身の体の事なのに心底不思議がる声が掠れている訳でもなく、眉間にしわを寄せる顔にも赤みを帯びてはいない。

 どうやら夏風邪ではなさそうだ……ある意味更に心配になるが。


「いやまぁ、そっちも体力的には全然大した事はしてないんだけど……最近終わると妙にダルくってなぁ」

「それは大した事あるってことなんじゃないの」


 疲れが残るってことはそういう事だろう普通。そんな俺の突込みにも彼は肯定せず、腕を組んで唸るだけだった。


「別に肉体労働しているわけじゃないしなぁ。特段頭を使うわけでもないし」


 本気で頭を悩ます鏑木に、今度はこっちも考え込む番となった。


(頭も体も使わないバイトって、会社は鏑木に一体何をやらせてるんだろ)


「あ」


 それでいて高給。俺に一つ思い当たるものがあった。


「もしかして、鏑木がやってるのって、治験のバイトか」

「それには答えられないな」


 やけに即答する鏑木。多分正解だな、これ。


「まぁいいけどさ。そういうのって体に異常が出たら申し出なきゃいけないんじゃないのか?」

「いや申し出はしたんだが、特に対応は――」


 鏑木はそこまで答えてやっと、自分が単純な誘導尋問に引っ掛かった事に気付いて慌てて口をつぐむ。彼は俺と違って素直な男です。


「……駄目だ。頭が回ってない。今日はもう上がるわ」

「お大事に」


 ゆっくりと席を立つ鏑木に追撃はしなかった。奴からしたら頭が回らないというのは追及を逃れる為の詭弁かもしれないが――


(そんなフラフラじゃ嘘になってもいないって)

 本人は気づいていないが、まるで手に持つカバンに重心を決められているかのように足が千鳥を踊っている。それも死に掛けの。


「本当に大丈夫かよ」


 さすがに危なっかしく思い席を立って追いかける。駅まで見送ることにしよう。ついでに言えばこれで俺も自然に帰る流れを作ることもできる。手早く荷物をまとめて席を立ち、エレベーターを待つ鏑木の背中に追いついた。


「そんなに心配するなよ」


 鞄も閉めずに来てしまった俺を慌てて追いかけてきたと取ったのか、鏑木は若干悪い血色の顔で苦笑する。


「いや、それかなり病人ライクな顔つきだけど」


 心配半分、帰りたさ半分で気遣いの文句を口にしようと立ち止まった拍子に鞄が手から滑り落ち、次いで足元でコトリと何か固いものが床に当たった音がした。


「ほら、落としたぞ」


 鞄は鏑木が拾ってくれたので、そのまま足元を見ると、見覚えのあるラベルを貼った瓶が床をゆっくりと転がっている。

 ――テュエ・リベだ。いつだったか買ったものを仕舞い込んだまま忘れていたのだろうか。

 腰をかがめて拾い上げ、鞄に仕舞い直そうとすると、頭の上あたりからやけに強烈な視線を感じた。

 思わず手を止めて見上げてみる。


「……鏑木?」

 

 彼の表情は相変わらず弱々しいものの、その中央にあるただならないほど強く濁った瞳が、微動だにせずに俺の右手に握られた瓶を捉えている。

 疲れが溜まった体にこれが魅力的に写った、というには少し度が過ぎる気もするが――


「……よければ、やろうか?」

「いいのか?!」


 いや、そんなリアクション返すほどのものじゃあるまいに。その大きさに少しこちらが気圧されてしまうくらいの声で答えるなり、半ば強引に俺の手から瓶をひったくっていた。……こいつ、こんな粗暴な奴だったっけか?


「いやぁ助かるよ!家の買い置きがもうなくてさ。わざわざ買いに行かなきゃならないところだった」

「あ、あぁ……」


 まだ蓋も開けていないうちから打って変わって溌剌と喋り出す鏑木。彼はポケットにしまい込むや否や、ぽかんとする俺を置いていそいそとエレベーターに乗り込んでしまった。

 いかに鏑木とは言え、ここまで態度をくるくると変える奴と狭い空間に閉じ込められるのは少し気が引ける。一緒に乗るかどうかを迷っているうちに、結局扉はさっさと閉まってしまった。


「……一体なんだってんだ?」


 ひとり残されて思わず口から率直な不信感が滑り出る。

 まさか本当に、やばい薬でも試されてるんじゃないだろうな。


(いや、でもうちは仮にも最大手だし、下手な研究をわざわざ社員で試す訳もないか。国の認可を受けてるとか言ってたし……)

 動物実験では予期しえなかった副作用が、実際にヒトの体に取り入れる段階で発現することは珍しいケースではない。だがそのような事例が報告された場合、それは直ちに開発の失敗を意味する。それがもし臨床試験の第2段階――実際の病人への投与だ――で起こったならば、その報告数次第で患者ごとの体質や病状による例外かどうかの調査を重ねたうえで研究が続行されることも稀にはあるが……鏑木はこないだの健康診断でも異常はなかった。

 健常者を対象にした第一相臨床試験で万一にも副作用が出るような薬は使い物にも売り物にもなりえない。不良社員の俺ですら諳んじられる知識を、まさか鏑木が知らない訳はないだろう。しかし彼が言うには何の対応もなされない、つまるところ開発は続行しているということだ。


(いったい何の薬を作ってるんだ?)


「うーん……」


 考えているうちに次のエレベーターも行ってしまったようだ。相変わらずドアの前で突っ立ったまま眉を潜ませている俺に再び視線が集まっていた。

 そりゃエレベーターを二回も呼んでおいてスルーするような奇行に注目するのは当たり前だ。人の事言えないかもしれない。


(げ)

 そして、その中にこちらをじっと見る三吾の姿があった。その感情を覗かせない、ただ観察するような視線に晒され、はたと我に返る。

 下手につかまれば厄介だ。帰るタイミングもなくしてしまうかもしれない――


「ちょっと」


 そう判断するや階段に向かおうとした俺に、無情にも背中から彼女の声が掛かった。

 ……時既に遅し、か。無視してさっさと下ってしまおうかとも考えたが、そこでやっぱり飲み屋で言われた鏑木の一言が頭をよぎって、どうにも冷たい態度に出られない。あれから一月あまりが経つが全く俺の扱いは変わらない辺り、9割9分勘違いだというのに。

 鞄を拾うだけ拾って止まるという中途半端な態度をとってしまった俺に、三吾はつかつかと歩み寄ってきた。あゝ、久々の説教だらうか。


「彼、大丈夫なんですかね」

「へ?」


 ぽつり呟く三吾。罵声の一つでも浴びるものと身構えていた俺は、意表を突かれて間抜けな声を出してしまった。


「あ、あぁ……調子悪そうでしたね」


 慌てて言い直すと、彼女は息を1つ吐いて顎に手を当てた。そのポーズは鏑木を心配しているというより、何か別の懸念について考えを巡らせているように見える。


(しかし改めて見ると)

 ……普段は鬼の形相か軽蔑の眼差しを浮かべる彼女としか正対していないので、こうして静かに考え込む姿が新鮮に思える。そんな物静かな佇まいが良く似合う秀麗な顔つきは、同期はおろか社内でも人気ナンバーワンというのも、なんというか、まぁ、頷けなくもない。


「ねぇ」

「おおぅ」


 しまった。まじまじと見過ぎたか、いきなり視線を合わせられ思わずのけぞる。


「最近彼、何か変わった所とかないですか?ただの過労っていうには様子が変ですよね」


 やっぱり俺以外の眼にもそう映るよなぁ。あの振舞いは。

 とは思ったものの返答に困ってしまった。彼の疲労の原因であろう結婚の話も治験のバイトの話もやんわりと口止めをされてしまっている。

 とはいえ何か答えない事には絶対に解放してくれないだろう。そんな確信を抱いているのは、身じろぎひとつせずに俺に向いている三吾の見つめる瞳がすごく真っ直ぐで、まるで己がその視線の澱に捕えられているような錯覚すら覚えていたからだ。


「え、あー……まぁ、彼忙しいですからね」


 彼女を前にしての沈黙に覚える緊張から、背中に嫌な汗が浮かび始めた、ひとまずは当たり障りのない答えを返しておく。


「他には?身の回りで何かあった、とか」

「そういわれても……あいつのプライベートなんて俺興味もないし、関係ないし」


 ――しまった。更に突っ込まれるとは思っていなかったせいで、つい口癖が。

 後悔先に立たずというべきか、彼女の視線がいつもの調子を取り戻すように鋭くなっていくのを見て、背中だけでなく額からも脂汗がひと筋。恐らく俺の返しを最大限悪い意味で解釈し、三吾は強烈な返しの刃を繰り出してきた。


「彼が忙しいのは今に始まったことではありませんし、そもそもその原因の一端は貴方がいつまでも担当先を増やさないからでしょう。どの口が言うのやら」


 ……あれ、いつの間にか俺への小言に変わっている。気が付けばその表情もいつもの見下す蔑視べっしそのものに戻っていた。


(少しでも気遣った俺が馬鹿だった!)

 思わず鞄を握る手に力が入る。と同時に――


「痛っ!」


 指先に鋭い痛みを覚え、俺は再び派手な音を立てて鞄を落としてしまった。


「なにやってるんだか……」


 当然の如く拾おうとはせず、ただ冷たい目だけを床に向け呆れた様子で呟く三吾。残りの1いちぶが絶対にありえないと確信した瞬間だった。


「いや、急にチクッとしたんですよ。指が!」


 苛立ちと憤懣を込めて吐き出し、痛みの元を特定しようと手を開くと、指の先に砂粒より若干大きい程度の白い粒がいくつもくっついている事に気付いて、俺は首を傾げた。


「なんだこれ……?」


 指で軽くすり合わせて感触を確かめてみる。怒りが急に鳴りを潜めた俺を不審に思ったのか三吾も背中越しに俺の見る先を覗いてきた。

 指先にもう少し力を込めると、粒は僅かな手ごたえと共に崩れ、人差し指と親指がくっつく程に細かくなった。どうやら小さな粒子が連なって一つの結晶を成し、それがいくつも鞄の取っ手についていたようだ。

 ……しかし、これはどう見ても。少し勇気がいったが、指の先を舌に触れさせてみる――予想通り、辛い。


「「……塩?」」


 ぴりと痺れる舌先に顔を顰めた俺と、それを見た三吾の声が重なった。

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