第6話 伏見一輝の失恋


不死鳥の失恋




「ええか、不死鳥ってのはな、自分の体を炎で燃やして、そいでその灰の中からまた生まれ変わるんや。」

「なにが言いたいんだよ。おっさん。」

 

 伏見さんの渾身の決め台詞に崇さんは軽くちゃちゃを入れる。


「つまりやな、燃え尽きて灰になるまで恋をすればまた新しい恋に燃え上がることができるという話や。」

「伏見さん。恋、したことあるんですか?」

「はあ? そんなん当たり前やろ。わいかてなんやかんやで26年生きとるんや。そりゃ、恋ぐらいするがな。なんだったら今かてしてるで、ボク、あきほちゃんのことすっきゃからなあ。」

「またあ、そんなプレイボーイ発言なんて無理にしなくてもいいですよ。」

「無理してるわけやないで、ホンマにボク、結構モテるんやから。」


 当時、よくそんな話をしていたのを覚えている。


 事実、当時の伏見さんは次から次にと恋をしていたと言われればそんな気もする。わたしのことをどれくらいの意味合いで『すっきゃ』といったのかは知らないが、当時、伏見さんは確かに恋をしていた。

 大学の先輩で、ボランティアで伏見さんの手伝いをしていた美笹涼子(みささりょうこ)という人だ。わたしが大学一年の時、大学三年で当時伏見さんのボランティアを一年くらい続けていた。色白でおとなしい。真っ黒でつやのある長い髪をボランティアの時は決まってお気に入りの赤いシュシュで一本にまとめていた。おとなしい子にはよくありがちなことなのだが、ちょっとばかり天然系で胸は張りがあって大きかった。皆は栄養が脳みそじゃなくみんな乳に行くんだと陰口をたたいていた。男子からすれば冗談で、女子からすれば妬みからだった。


 伏見さんの体を拭くとき、それはつまり入浴代わりに全身を拭いてあげる時の事だが、当然全裸にして全身を拭いてあげるわけだ。それは当然下腹部も含まれる。

 初めてそれをすると知った時、わたしは無理だと思った。

伏見さんのような筋ジストロフィーの患者に限らず、多くの障害者や老人介護に至る、ヘルパーやボランティアの仕事の大半は〝シモ〟の処理が中心だ。だからこそ多くの若者はすぐに音を上げてしまう。実際慣れてしまえばそれまでのことで、ベテランのヘルパーさんにもなると複数人がいる共同部屋に入った瞬間に〝ニオイ〟で誰がおもらししているのかわかるようになるらしい。しかしその時はわたしもボラ未経験の十八歳。決して今まで男性の下腹部に手を触れたことがないと純粋うぶことを言うつもりはない。それでもまさか他人のそれを手でつかんで洗ってあげるなんて考えてもみなかった。


そんなわたしに伏見さんの体の洗い方をはじめて教えてくれたのは美笹さんだ。

「ここを、こう掴んで……」

 美笹さんはなにをためらうでもなく伏見さんの、その竿の部分を左手でしっかりと握り、そのまま持ち上げて小さくしわしわに縮んでいる皮膚の間をぬれたタオルでごしごしとふく。「ここ、よくあせをかいているからしっかりと」と彼女は表情一つ変えず、恥ずかしがるでもないように教えてくれる。

「じゃあ、やってみて」

 ――いやとは言えなかった。さもそれが当然のことのようにまっすぐに目を見つめてくる。拒否することも、そしてためらうことすらできない。――どんな言い訳も彼女には通じないような気がしたのだ。だからこそ、そんな彼女をわたしは初め天然系だと思っていたのだ。でも、それは大きな間違いだ。彼女は天然系などではなく、天然系などではなく、それを演じる小悪魔系だった。彼女は伏見さんのその部分を堂々と掴み、それが平気なふりをしていたが、それはすべて演技だ。そうすることによって、新人であるわたしが逃げ出す余地がないようにと計算されつくしての行動だったんだと思う。彼女は決して平気などではなかった。現に悩んでさえいたのだ。

 

 よくある日常、

「じゃあ、一輝君、今日はどの子が御指名かな。」

 崇さんがふざけた感じで言うと、たいていの場合、「そんなん誰でもええわ。はよ、洗ってくれや。」というにもかかわらず、その美笹さんがいる時は決まって顔を赤らめてそっぽを向く。

「はーい、りょーこちゃーん、指名はいりましたー。」

 と、崇さんは伏見さんの代弁するかのように美笹さんを呼ぶ。みんな伏見さんが美笹さんのことを好きな事は気づいていた。本人は頑なに否定していたが、否定すれば否定するほどに信憑性を増した。

 美笹さんが伏見さんの体を拭くとき、決まってその大きな胸が伏見さんの体に当たる。そんな時、決まって伏見さんは下腹部を大きく膨らませた。

 戸惑う美笹さんに崇さんは決まって、

「その方が拭きやすくていいじゃないか。」とふざけて答えていた。

 

 実際、美笹さんはそんな状態に悩んでいた。

 おとなしい性格と、他の女性ボランティアスタッフから妬まれがちだった彼女はあまり周りに相談することもできずに一人で悩んでいた。

 

「ボランティアをやめたい。」


 と彼女が言った時、誰も彼女を引き留めなかった。たぶんその時、わたしを含めてみんながふざけてばかりで彼女のことを気遣いしなかったということを恥じたんだと思う。


 ―――いや、嘘だ。


 美笹さんははっきり言って美人で、男は誰もが彼女に好意を抱いていた。それはつまり、伏見さんだけではなく、崇さんも。という意味だ。彼にぞっこんだった吉澤奈緒に関しては言うまでもないし、わたしにしても他のヘルパーさんにしても、彼女の下心がないとは言わせない小悪魔的行動が我慢ならなくなることがあった。どうしてこんな演技に男どもは気づかないのかと腹立たしく思うことも多かった。

 つまりは彼女は男性全員のアイドルで、女性共通の敵だった。

 彼女がボランティアをやめたいと言い出した原因の一つは、そんなわたしたちの空気を読み取ったこともふくまれるのかもしれない。



 美笹さんはある日を境に急に来なくなった。本来ならば送別会をしたするのだが、状況も状況だけにそれもかなわなかった。

 突然いなくなった彼女について、崇さんは伏見さんに「そろそろ就活をしなきゃいけないからな。」と説明した。

 説明にはなっていなかった。当時三年生だった美笹さんは確かに就職活動を始めるころではあったが、四年生の向井千代丸(むかいちよまる)先輩だって夏休み終っても内定の一つもらっていない危機的状況にもかかわらずボランティアには参加し続けていた。


 伏見さんは納得がいかない様子だった。わたしにアルミでできたお盆(いつもここでものを運ぶときに使用している)を持ってくるように言われた。

 その時、伏見さんの手は自分の意思で動かすことは困難を極めるようになっていた。わたしは言われた通りに彼の手にしっかりとそのお盆を握らせる。

 しばらくして―――


ぐわっしゃ―――ん。


伏見さんの手からこぼれおちたお盆は大きな音とともに板場の床にぶつかった。

「拾って。」

 伏見さんの冷たい言葉にわたしは慌ててお盆を拾い、その手にしっかりと握らせた。」


ぐわっしゃ―――ん。


 再びお盆は床に落ちた。

「拾って。」

 その言葉にお盆を拾ったわたしは三度彼の手にお盆を握らせる。


ぐわっしゃ―――ん。


 その後も何度か繰り返された。

 おそらく彼なりの方法で失恋の苦しみをものに当たっているんだろうと判断し、何度も何度も拾っては繰り返し彼の手に握らせた。

 

 彼の目は涙にぬれていた。

 見てはならないと思い、なるべく別の方向へと視線をそらすようにした。


 彼のような患者は自分一人で泣くことのできる空間を持たない。


 ひとりで泣きたいことだってあるだろうに、それを許される場所はない。



 ある日、伏見さんの机の引き出しの中に、美笹さんの使っていた赤いシュシュが丁寧に保管されていることを発見した。

 おそらくそのことはボランティアの全員が知っていた事だろう。

 

 伏見さんがそれを知っていたのかどうかは知らない。


 伏見さん自身は自分の意思でその引出しをあけることもできなければ取り出すこともできない。

 

 わたしは引出しをあけ、その赤いシュシュが目に入る度に考えていた。


 果たしてこれは伏見さんが大切にしまっているもので、時折崇さんに行って取り出してもらい、じっと眺めていたりするものなのだろうか?


 それとも、彼女自身。ここに入れたままここに来なくなってしまい、そのまま放置されているだけなのかもしれないと……


 そのシュシュはそれから一年ほどそこに放置されていたままだったが、ある時気が付くと、それはどこからもなくなっていた。

 今にして考えればそれを誰が捨てたのか、わからないでもないような気がする。


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