第3話 螺旋階段の少女



「あら、もうこんな時間だわ」

 母親の声に、子供は焦り始める。せっかく面白くなってきたというのに。せっかく楽しんでいたというのに。

 その台詞は、おしまいの合図。

「**ちゃん、お家に帰りましょう」

 母親が、足元で呼ぶ。子供は、聞こえないふりをして、階段を駆けあがる。

 嫌だ、もっと遊びたいのに。

「**ちゃん、降りていらっしゃい」

 母親が呼ぶ。なんと言う、理不尽な大人達だろう。子供は、ふてくされる。

 勝手に連れて来て、勝手に遊ばせて、自分達は、勝手に立ち話をしておいて。楽しくなったら終わりなんて。

「**ちゃん。言うことを聞かない子は、お母さん、嫌いですよ」

 そんな脅しには慣れている。子供は、聞こえないふりを続けようとする……けれど。

 そんな子供を見る、他の子供達の目は。友達の目は……。

「ばいばい。また明日ね?」

 螺旋階段から降りた子供を、母親が捕まえる。ばいばいなんて、したくないのに。もっともっと、遊びたいのに。

 けれど、子供はもう諦めている。友達は、諦めている。せいぜい不機嫌な顔をして、不満そうな顔をして。

 ――ばいばい。また明日。


 マンモス団地の非常階段。夕焼け色の螺旋階段。

 家への角を曲がるとき、子供は、残した心を振り返る。


          **



 真冬の解剖学実習ほど、嫌なものはない。

 第一に、夜にならないと、家に帰ることが出来ない。寒空の下を、郊外に住む俺は、独りで歩いて帰らなければならない。

 第二に、解剖する動物の体臭が、俺の服に染みつくのだ。今夜はウサギ。昨夜はネズミ……また、おふくろに愚痴を言われそうだ。

 午後十時。コートの袖口のにおいを嗅いで、苦虫を噛み潰しながら、俺は夜道を急いでいた。

 二十二にもなる男が、いまさら門限も何もないのだが。眼鏡のレンズも凍る寒さだ。

 おふくろの愚痴より、あたたかい布団の誘惑の方が強かった。

 いっそ、悪友どもと飲みにいった方が良かったと思えたが。

 俺は、ホルマリンの匂いのする両手に息をかけると、コートの襟を立て、両手はポケットに突っ込んで、凍ったアスファルトの道を急いだ。

 背中を丸め、真っ黒なコートの裾を翻して歩く姿は、葬式の帰りと疑われても、文句は言えなかったろう。

 それでも、家の近所まで帰り、少しは気分も和らいでいた。

 俺の他には、人っこひとり見えない通り。立ちならぶ団地の棟が落とす影の闇をぬうように、俺は歩いていた。

 巨大なコンクリートの固まりに、靴音が反響する。ところどころに点もる灯が、あたたかく見えた。

 もうすぐだ。

 俺の家は団地ではなく、その向こうの住宅街にある。最後の棟を通り過ぎて角を曲がれば、突き当たりだ。

 心細さに足を速め、勇んで街灯の下へ歩み出た――時。

 俺は、ギョッとして立ち止まった。

 肝が冷えたと言っても過言ではない。それほど、威圧的な建物の影は、俺を怯えさせていたのだ。

 けれども、俺はすぐ、自嘲気味に苦笑した。

 なんだ……。

 円錐を伏せたような傘のついた街灯の、うす黄色の光の中に、浮かび上がるように立っていたのは、小さな女の子だった。

 黒髪の、おかっぱ頭の女の子。年の頃は五・六歳。俺に気づいた様子はない。

 己の気弱さを恥じながら、俺は、そのまま通り過ぎようとした、が……。

 何かが、引っかかった。

 何かが、かかわりたくないと思う俺の足を、その場に釘づけた。――咄嗟に、そう思ったのだ。

 危険。ここにいては。この少女に関わっては、危険。しかし……。

 馬鹿な。俺は、自分を嘲った。

 何をびくびくしているんだ。相手は、小さな女の子じゃないか。

 足もある。影もちゃんとある。なのに、どうして、立ち止まるんだ……。

 ふいに。まったくふいに、俺は、彼女が全く普通ではないことに気がついた。

 年頃は五・六歳。――こんな小さな少女が、どうしてこんな時間に、こんなところに立っているんだ? 

 どうして、団地の建物なんかを見上げている?

 団地の影を。――俺は、寒気がした。

 彼女が、この真冬に、薄いTシャツとスカートしか穿いていないことに気がついたのだ。ぞっとするのと同時に、俺は、わらいたくなった。

 幽霊だと? この俺が。真冬に幽霊を見たというのか? 

 そんなはずはない。そうだとすれば、俺は狂っているに違いない。あるいは。

 あるいは……

 少女が、振り向いた。

 驚く様子はおろか、怯える気配など微塵もない。俺がそこに立っていたことを、最初から知っていたかのように。何気ない仕草で振り返り、俺を見た。

 ストレートの黒髪が、ゆるやかに流れる。俺は、茫然と立ち尽くしていた。

 夜目にも、はっとするような美少女だった。五歳か六歳そこらだというのに、すでに、その瞳は憂愁のいろをたたえ、肌は透き通るようだった。――いや。

 観る者を、鏡のように映し出す、大きな瞳。勝気そうで、それでいて、静かに俺を見つめる。

 これは、白蛇だ。

 少女の肌は、白蛇の白さだった。街灯の光につややかに、妖しく、浮かび上がる。

「ねえ」

 俺は、自分の肩がビクリと揺れるのを感じた。

 少女の声は、妙に大人びて響いた。

「ひっかかっているの」

「何?」

 俺は、目を凝らした。少女のほっそりした指が、団地の非常階段を指さした。

 螺旋階段を……。俺は、踊る心臓を、必死になだめようとしていた。

「何?」

「あそこに、ひっかかっているの」

 俺は、びくっとした。少女の手が、俺のコートの袖をつかんだのだ。

 大きな黒い瞳が、まっすぐに、俺を見つめた。

「とってきて……」

 俺の目の前で、螺旋階段が揺れたように思った。少女の瞳は……



「そりゃあ、幽霊だな」

 阿部弘樹は、実にあっさり決めつけてくれた。肉まんを頬張りながら。

 夢の余韻に浸っていた俺は、はっとして顔を上げた。

「え?」

「幽霊に違いないって言ったんだ」

 新しい恋人が編んでくれたという真っ白なマフラーを肩にかけながら、空を仰ぐ。

 大学のキャンパスには、ちらほら雪が舞い始めていた。

 もう一人の悪友、山内義雄が、相槌をうつ。

「間違いないぜ、飯島。お前の会ったのは、幽霊なんだ」

「って……そんな馬鹿な」

 俺は、呆気にとられた。夢の動揺が嘘のように落ち着いて、実にすんなり己の言葉を信用できた。

 そんな、馬鹿な話があるもんか。

「いやあ、わからんぜ?」 

 阿部が言う。黒い瞳は笑っている。口調は真面目でも、片方だけ跳ねた眉は、こちらをからかっていた。

「真冬に幽霊が出たって、別にいいじゃねえか。その女の子は、きっと、螺旋階段のどこかにひっかかって死んだんだ。それで、通りかかる人間の夢に現れては、降ろしてくれと頼む……」

「あのなあ」

 俺は笑った。芝居がかった悪友の口調に、ついに吹き出した。

 山内も、肩を揺らしていた。

「真面目に考えろよ」

「悪い、悪い」

 全然悪びれた風もなく、阿部はくっくっ笑った。半分残った肉まんを一口で頬張り、もごもご喰う。

「しかし、珍しいな」

 煙草に火をつけ、山内が、白い息を吐いた。肉まんを食べているため、阿部は口を出せない。

「何が?」

「お前が、そういう話をするとは、な」

 俺は黙って苦笑した。確かに。

 だから、季節はずれの怪談などするつもりはなかったのだ。

 しかし……。

「だから、雪なんかが降ったんだ」

「おい」

「しかし、何だな」

 ふいに、阿部が低い声を出したので、俺は驚いた。こいつの声はもともと低いが、その声には、さっきの笑いなど、かけらも含まれていなかったのだ。

 強い力を宿す瞳が、すうっと細められる。阿部?

「少女の霊ってのが、いただけないな。あと、せめて十五歳としとっているんなら、俺も観に行くところだが」

 あのな……。

 俺は、言い返す気力を無くした。山内が、息を切らせて笑っている。

「お前、ロリコンだったのか? 飯島」

 俺は、阿部を殴りそこなった。


          *


「ねえ!」

 強い力で袖を引かれて、俺は我に返った。深夜だ。

 俺を捕まえた少女は、小さな子供に独特の、いらいらした口調で訴えていた。

 何?

「ひっかかってるの。あそこに。取ってきて……一緒に、来て」

「え?」

 何だって?

 俺は、茫然とした。そんな馬鹿な、と言いかけて、口ごもる。何だったんだ? 今のは。

 夢? こんなところで、こんな時に。あんなにリアルな……まさか。

 俺のコートを掴んだ少女は、大きな黒い瞳で、じっと俺を見上げていた。黒い瞳。阿部と同じ、山内と同じ、力のある、静かな……。

「……判ったよ」

 俺は、不思議に落ち着いた気分になった。ぞっとするような冷静さが心を支配して、ささやくように答えていた。

 これは、夢じゃない。

 少女は――この女の子は、何かを、あそこに忘れたのだ。だから、それが気になって、家に帰ることが出来ずにいるのだ。

 何かは判らないけれど。

 寒そうに震えている少女の肩に、俺はマフラーをかけてやった。こんな夜中に、少女を置いて帰るわけにはいかない。

 俺の紺色のマフラーを、彼女はぎゅっと握りしめた。

 一瞬、俺は、阿部の白いマフラーを思い出した。

 馬鹿げている。俺は自嘲した。阿部に、恋人などいない。さっきのような既視感を、感じる理由がない。

 しかし、少女は懐かしかった。いつか、どこかで見たような顔だと思った。

「どこだって?」

 少女は、俺を、螺旋階段へと引っぱっていく。俺は仕方なく、彼女についていった。

 街灯に下から照らし出された階段は、巨大な骨格のようだった。俺は、一段目に足をかけた。

「お……おい?」

 ところが。とたんに少女は身を翻し、駆け出してしまった。団地の、正規の階段の方へ行ってしまう。

 俺は、苦虫を噛み潰した。

 そこから行った方が早いとでも言うのだろうか? 俺は少女の後を追った。

 小柄な少女は、夜の妖精のように、身軽に階段を駆け上っていく。Tシャツもスカートも黒髪も、闇に沈み、白い肌が浮かびあがって見えた。

 俺の靴音が、コンクリートに反響する。何を履いているのか、少女は足音を立てなかった。

 八階建ての建物の四階まで、一気に駆け上った。息を切らせて踊り場に出た俺は、少女の後姿が、闇の向こうに消えて行くのを見た。

 非常階段――螺旋階段。

 少女は、上りきれずに立ち尽くしていた。俺を振りかえる瞳は、夜目にも吸い込まれそうなほど、澄んでいた。

 そして。

「わっ! うわっ!」

 皮肉を言う暇はなかった。物も言わずに俺の腕を掴んだ少女に引きずられて、俺は、階段に飛びこむ羽目になってしまった。

 子供とは思えないほどの力だった。

 足をとられた俺は、見事にすっ転んで、階段に頭をぶつけてしまった。

 痛い……いってえ! うめき声を噛み殺し、階段の手すりに掴まって頭を上げた俺は……目を、瞠った。

 女がいた。

 階段の途中に、俺と同じように尻餅をついて、彼女がいた。素っ裸で。少女の姿はどこにもない。

 街灯の光に、白蛇の肌が、妖しく浮かびあがる。長い黒髪が肩をこぼれ、胸へと流れている。見開かれた目が、凝然と俺を見詰めた。

 その、黒い瞳……。

 俺は、身震いした。こんなことがあるもんか! と、理性が悲鳴をあげる。

 喉が、浅ましい音を立てそうになる。俺は――

 少女が、一瞬で一人前の女に成長するところを、俺は見たのだ。俺の中の理性、常識、その他もろもろの決まり定まっていたものが、一斉に叫び声をあげた。

 馬鹿な!

「立って!」

 少女が――女が、突然さけんだ。闇の中で、黒い瞳が輝く。

 茫然としていた俺の腕を、裸の腕で抱えこんだ。俺は……

「急いで! 走るの! 引きずり込まれるわ!」

 女は、自分が裸なことなど、全く気にとめていなかった。尻餅をついている俺を引き起こすと、無理やり階段を上らせた。

 俺は、見た。街灯の光が、間近に迫っていた。木立の影も、団地の建物の影もない。淡い黄金色の光に、螺旋階段だけが浮かびあがる。

 俺を包んでいるのは、闇の色をした霧だった。何かの――誰かの手が、俺の足をつかむ。いくつもの赤い瞳が、闇の中で光る。くすくす笑う……。

 俺は、恥も外聞もなく、悲鳴をあげた。

 階段が動いていた。上ろうとすればするほど、俺と女を、闇の中へ引きずり下ろそうとする。

 螺旋階段が!

 俺は、わけも判らないまま駆け出した。女の腕をひっつかみ、死にもの狂いに足を運んだ。

 いくつもの見えない手が、俺の腕を、足を捕らえる。ふりほどき、息を切らせて駆け上った

 こんな、馬鹿なことがあるもんか!

「昔は……」

 俺の腕の中で、女が息を弾ませながら、話そうとしていた。ハスキーな囁き声を遮って、くすくす笑う声が起こる。

 何でもいい。俺は、正気にとどめてくれるものを求めて怒鳴った。

「何だ!?」

「……あたし……この……階段が好きだったの!」

 女はよろめいた。動く階段のスピードに、負けそうになる。

 喉が潰れたような声で叫んだ。

「ここで遊ぶのが、好きだったの。いつまでも……ずっと、遊んでいたかった。だから、かけらが……」

「かけらを、残したと言うのか?」

「違うわ!」

 女の額を、汗が流れた。激しく震える体は、俺の腕の中で、火のように熱くなっていた。

「違うわ! 捕まったの。かけらしか、帰れなかった!」

「そんな、非常識な!」

 俺は悲鳴をあげた。女の肩を抱き、くすくすけらけら起こる笑いの渦を、聞くまいとした。

 気が狂いそうだ……いや、すでに狂っていたのかもしれない。

 女と一緒に、いつまでも、車輪の中を走るネズミのように走っていた。

「こんな、非現実的な!」

「非現実的ですって?!」

 女の瞳が、燃えあがるのを見た。低い声が裏返る。喉がはり裂けそうな声だった。

「現実以外のどこに、こんなものが出来るのよ!」


          **


「ありがと」

 澄んだ、つややかな声に、俺は眼を瞬いた。

 麗奈……阿部の彼女は、呆けていた俺に、にこやかに笑いかけた。

「送ってくれて、ありがと。飯島君」

「え……いや」

 俺は口ごもった。麗奈――そう。彼女でなければならなかった。黒い髪。黒い瞳の美少女は、俺の貸したマフラーを返しながら、おどけて片目を閉じた。

「飯島君が、こんなに近所だったなんて知らなかったわ。今度、お邪魔してもいいかしら?」

「…………」

 俺は、答えられなかった。言葉は、のどの奥に貼りついていた。彼女は……。

「あたし、ここの2035室よ。いつでも遊びに来てね。おやすみなさい」

「……おやすみ」

 残した、心のかけら。捕らえられた、心……。

 俺は茫然と、彼女が身を翻し、団地の影の中へ消えて行くのを見送っていた。螺旋階段の向こうへ。

 くすくす笑う子供の声に、俺は、顔を上げた。街灯に照らし出される階段の途中に立って、こちらを見下ろしている男の子を、俺は見つけた。

 年の頃は五・六歳。黒い髪、黒い瞳の。 

 彼が笑うのを、俺は見た。俺のかけらは、俺を見て、口の隅を吊り上げた。にやりと。

 唇は、三日月型に裂け……。



 わらう。


 俺は、螺旋階段の影を、振りきって駆けだした。





~”螺旋階段の少女”・FIN~

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麗奈―Night Mare 石燈 梓(Azurite) @Azurite-mysticvalley

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