麗奈―Night Mare

石燈 梓(Azurite)

第1話 夢なら醒めろ!


 「いつ」ということが、はっきり判っているわけではない。

 ただ、感じるのだ。

 何もない……いや、『存在』に埋め尽くされた闇が、あたしの周りから薄れていくにつれ、退屈な光が、代わりに幻を運んでくる。

 手を伸ばしても届かない。触ることすら出来ない物を、あたしの周りに積み上げていく。

 用途も何も判らない、それら……。うずたかく積もった物の谷間で、あたしは、膝を抱えて目を開く。

 沈黙の、中で。

 あたしには、判っている。まだ時間がある。まだ早い……。

 遠く、何本も並んで闇をへだてる冷たい棒の向こうに見えている、四角い光の割れ目が、もっと強く、眩しく輝くまで、この沈黙は続く。この幻は続くのだ。

 けだるい時間が通り過ぎて行くのを、あたしはじっと、オリの中で待ち続ける。

 やがて、遠い窓にあふれる白い光が、昼近い黄金色を帯びてくる。はしゃぐ小鳥の声が聞こえてくるまで……あたしは、じっと待ちつづける。

 足音が、聞こえるまで。

 重たげな靴音に、あたしは顔を上げる。同時に、頭の上の方で、大きな羽ばたきの音がする。周囲の気配が動き始める。

 皆、同じものを待っているのだ。

 聴きなれた声に、あたしは耳をたてる。鉄の棒を手でつかみ、正面のドアへと身を乗りだす。そんなことを、する必要はないのだけれど。

 やむにやまれない衝動が、いつも、あたしを動かすのだ。

 ドアが開く。

 あたしの視線の高さで見えるのは、黒いズボンを穿いた足が二組……三組と、白衣の裾が少しだけ。それ以上うえを見ようとすれば、頭がオリの天井にぶつかってしまう。

 それでも、精一杯、あたしは期待をこめて見上げる。

 低い男の声が笑い、冗談を言い、皮肉を応えながら歩いていく。そのうちに一つの声を聞き分けて、あたしは喜びに『たてがみ』を逆立てる。歯を剥きだして呼ぶ。

 一組の足が、近づいて来る。

 あたしは、『彼』が好き……他の誰より、どの生き物よりも、『彼』が。

 彼がいつものように近づいて、いつものように撫で、笑うような優しい声で呼びかけてくれると、あたしの体は歓喜にふるえた。

「寂しかったか? う~ら。」

 鉄格子ごしに、大きな手が、軽くあたしの額をこづいた。あたしははしゃぐ。その指をつかみ、彼の顔を見上げる。



「きゃああああ~!」

「わっ! うわっわわわっ!」

 あたしが出し抜けに叫んだものだから、あたしの隣りで眠っていた『彼』は、驚いて目を覚ました。

 狭いベッドから、あやうく転がり落ちそうになる。

 普段ほそい眼を大きく開け、まじまじとあたしを見た。

 あたしは、茫然と、夜明け前の窓を見つめた。

「何だ? どうしたんだ? れ~な」

「あ……」

 青白い光が、ブラインドの隙間から漏れている。

 目覚まし時計を確認していまいまし気に訊ねる彼の声に、やっとあたしは我に返った。

 エアコンの効きすぎた空気が、素肌に寒い。

「あ……夢……?」

「ゆめえ?」

 呆然とつぶやいたあたしの声に、彼は、ひょいと片方の眉を跳ね上げた。心配を通り過ぎた、呆れ声。

 不精ひげだらけの顔を、あたしは振り向いた。

「うん。夢……」

「また、かよ……」

 彼は舌打ちした。肩をすくめ、再度、恨めしげに時計を見た。

 午前五時三十分。さすがに恐縮した。

「ごめんなさい。朝ご飯、作ろうか?」

「ああ。まだ、いいよ」

「でも……」

 反論しようとしたあたしの口を、唇でふさぐ。……ほんっと、タフ! 

 そのまま力なく押し倒すと、首筋に唇を這わせながら、低くささやいた。

「こんなに早く作って、どうせっちゅーんだ。実験は、午後からなんだぜ? 何もお前が、怖がることないだろ」

「別に、怖がってなんか……」

 ただ、夢があまりにリアルだから。何度も見るから……。

 言い返そうとしたけれど、あたしはやめた。どうせ、真面目に考えてくれるわけがない。

 第一、自分でも馬鹿馬鹿しかった。

 これで、三日目だ。確かに、彼の実験で、あたしがこんな夢を見る理由はない。だから、わけが判らなくて、不気味なのだけど。

 胸元を伝う、彼の唇がくすぐったい。――これが、現実だ。目を閉じ、あたしは、心の中でつぶやいた。

 あたしを抱き寄せる、彼の腕に、ゆだねようとする。

 あたしの乳房を口に含む彼――まるで、子供のように。その背中に腕を回しながら、あたしは、頭の芯が、どこか冷めていることに気づいた。

 これが、現実だ……。

 あたしは、駄目押しで、そう思った。


          *


 平たい底の浅いお皿にミルク。あたしは、これが嫌いだった。

 他の仲間が、床に両手をつき、かがみこんでそれを舐めるのを、あたしは黙って見ていた。

 栗毛の奴があたしのを盗っても、黙っている。そうして、待っていた。

「こら、アーヤ。他人ひとのを、盗るんじゃない」

 案の定、いつも彼の側にいるニンゲンの一人が、栗毛の頭をこづく。お皿を持ってくる。

 あたしはそっぽを向いた。彼じゃない。

「こら、ウーラ」

 ニンゲンは、怒る。あたしの首輪をつかんで、ミルクに向かせようとする。

 あたしはしゃがみこんだまま、目を閉じる。

 すると、太陽のように温かい、彼の笑い声が聞こえてくる。

「また、う~らか? 山内」

「ああ。まったく、甘えん坊め」

「貸してみろ」

 ニンゲンは、あたしの頭を小突く。でも、『彼』はそんなことをしない。

 あたしのミルクを取ると、指先をミルクに浸して、くっくっ笑ってあたしを呼ぶ。

「おいで、う~ら。ほら、ミルクだぞ」

「まったく」

 ニンゲンが、呆れている。

 嬉々として近づいたあたしをひょいと抱き上げて、彼は指をしゃぶらせてくれるのだ。彼の大きな手が、あたしの背中をなぜ、たてがみを愛撫してくれる。

 あたしは、気持ちが良くて目を閉じた。

「お前が甘やかすからだぜ、阿部」

「いーじゃねえか」

 もう一人のニンゲンの声にも、彼は笑って言い返す。あたしを胸に抱いたまま、ミルクを哺乳瓶にいれ換えた。

「う~らは美人だからな。俺は、贔屓ひいきが好きなんだ」

「じゃ、ウーラと結婚するか?」

 哺乳瓶にしゃぶりつくあたしを見ながら、ニンゲンの一人が、彼をからかった。

麗奈れいなさんに、言いつけてやる。お前がウーラと浮気してるってな」

「やまうちい~」

 あたしは、“れいな”という言葉に歯を剥き出してうなった。この音は嫌いだ。何故か。

 彼が慌てている気配が判る。

「あ。みろ。う~らが怒っちまったじゃねえか」

「ウーラと、麗奈さんと」

 アフリカオウムに胡桃を与えながら、もう一人のニンゲンが、肩をすくめてつぶやいた。

「果たして、どちらがお前の嫁さんになるのかな?」

「飯島!」



「まったくだわ」

 午前十時になって、遅い朝食兼昼食を食べる。わかめのお味噌汁をすする彼を、あたしはじとっと睨み付けた。

 あたしのマンションに泊まりに来た彼は、いつだって、小さな子供のような目であたしを見る。

「何が?」

「弘樹ちゃん、異常よ」

 彼は、黙ってご飯をかきこんだ。ずずっと、味噌汁を飲み干す。

「れ~なの味噌汁は、うまい!」

「ごまかさないの」

 あたしは叱った。けれど、結局おかわりをよそってしまうのは、我ながら、優柔不断。

「あたしは、嫌ですからね、子ザルに嫉妬するなんて。ちゃんと、人間と動物――いいえ、恋人とペットっていう区別、つけて欲しいわ」

「俺が、区別していない、とでも?」

「ええ」

「……こんなに、愛してるのに?」

「くどき文句にそれ使うのは、十年早い」

 あたしは、彼の頭をお玉の柄で小突いた。ぺろっと舌を出し、肩をすくめる彼。

 あたしもくすくす笑いながら、唇を尖らせてみせた。

「まさか、その台詞、ウーラにも言っているんじゃないでしょうね?」

「冗談」

 さすがに、のほほんとした彼も、目を丸くした。

「どうして、俺が?」

「あら。信用できないわよ」

 あたしは腕を組み、ちろん、と、彼をねめつけた。

「あたしがあんな夢見るのも、あなたのせいかもしれないじゃない?」

「って……」

 ふいに彼は苦りきった表情になった。ハム・エッグをつつく箸を止め、咎めるようにあたしを見る。

「また見たのかよ。お前、一体何考えて、俺と寝てんだ?」

「だって……」

 あたしは、心持ち赤くなって口ごもった。仕方ないじゃない。

「けっこう不気味なのよ? 自分がサルになるなんて」

「そんなに気になるんなら――」

 彼は、諦めたようだった。ひょいと肩をすくめ、目玉焼きを、一口で頬張る。

「実験の終わるのは、午後九時頃だ。夜食でも作って、見に来いよ」

「いいの?」

「お前に、予定がないのならな」

 味噌汁をすする。ご飯のお替りを催促しながら、彼は、やや憮然と言った。

「講義フケて、昼から来たっていいぜ」


          *


 いつもは『彼』が来るのが嬉しいあたしも、その時は、異様な気配を感じていた。

 彼を含めたいつもの三人組のほかに、滅多に姿を現さない、もう一人が来ていた。

 そして、常に彼に付き添っている、女。

「見学に来ていただけるとは、光栄ですよ、河井さん」

 いつもは見かけないニンゲンが、女に話し掛けていた。女は、ぎこちなく微笑み返す。

「お邪魔にならなければ、よろしいんですけれど……」

「とんでもない」

 ニンゲンは、そろって首を横に振った。

 しかし、あたしは気に入らなかった。

「協力していただけるなんて、恩に着ますよ。大丈夫。あなたの講義には間に合うよう、すぐに済ませますからね」

「こら、おとなしくしろ、ウーラ」

 彼にぴたりとくっついて離れない女が憎く、あたしは鉄格子にしがみついてうなっていた。

 ニンゲンの一人が、あたしの腕に、ちいさな針を突き立てる。

 途端に、体がずん、と、重くなった。

「ごめんよ、う~ら。ちょっと手伝ってくれよ……」

 彼が、静かになだめる。オリからあたしを抱き上げて。

 あたしを覗き込んだ女の腕に、あたしは爪を立てた。

 あたしの毛に触れようとした女の白い手首を、あたしは引っかいた。やわらかい肌に、あたしの爪は造作なく食いこみ、手の甲の皮膚を、五センチばかり浅く引き裂いた。

 血がにじみ、女が、あっと小さな悲鳴をあげる。ニンゲン達が、口々に騒ぎ出した。

「麗奈さん! こら、ウーラ」

「大丈夫ですか? 麗奈さん」

「う~ら。悪い子だ」

 彼がこう言ってあたしの頭を小突いたのが、一番、こたえた。悲しげな瞳をしている女が、恨めしくなる。

 だんだん朦朧もうろうとしてくる意識のなかで、あたしは、ニンゲン達の声を聴いた。

「麻酔が効いてきたようですね」

「うむ。しかし、サルでも、人に嫉妬するものなんだなあ」

「同じ女ですからね。通じるものがあるんじゃないですか?」

「そうかあ。阿部はモテるんだなあ。知らなかった」

「教授……」

 どうして? 笑いながら、彼らはあたしを、固い台の上へ、くくりつけ始めていた。

 薄れていく視界の中で、女の黒い瞳が、妙にぐらぐら揺れて見えた。ニンゲンの一人が、女に、何事か話しかけている。

 あたしは、ふいに突き上げて来た不快感の中に、堕ちていった……。



 気分が、悪かった。

 どうやら、眠っていたらしい。あたしは、人気のなくなった講義室の隅で、一人居眠りをしていたのだ。

 窓の外に迫っている夕闇を見て、慌てて校舎を出た。

 ウーラに引っかかれた左手には、みみず腫れが出来ている。やっぱり、見学になんて行くんじゃなかった。

 何だかんだ言って、彼ったら、あたしに手伝わせたかったんじゃない。

 実験に付き合ったせいか、気分が悪い。原因不明の気だるさが、あたしを居眠りに誘い込んだらしい。

 でも、夜食は作って行ってあげないと。実験の結果も気になるし……。

 彼へ恨みごとを言うのは、またの機会にしよう。――そう思いながらスーパーへ入ったあたしは、冷蔵棚に陳列した野菜を眺めているうちに、ふいに、ぞっとするような違和感を覚えた。

 昼間の、悪夢の残像。ウーラにつけられた傷が、自分でつけたもののような気がしたのだ。

 今朝、あたしをまさぐった彼の手の感触が、未だに残っている。

 これが、現実なんだ。これが現実……。

 あたしは、残像を振りはらおうとした。これが、現実……。

 しかし、めまいにも似た違和感は、ますます強くなって、あたしはうめき声をあげた。買い物カゴを提げたまま、こめかみを押さえる。

 店中のものが、ゆがみ、揺れ、ぼやけていく……。


          **


「成功だ!」

 誰かの声がした。

「こいつの脳波を見てみろ。人間そっくりだ!」

 あたしは重いまぶたをこじ開け、のしかかるように自分を見下ろしている、いくつかの顔を仰ぎ見た。そのうちの一つを見たとき、思わず、叫び声をあげた。

 それは、あたしの顔だったのだ!

「気分はどうだい? う~ら」

 彼が言った。上機嫌で、彼の傍らにいる『あたし』の肩に手を置いていた。

「君はれ~なの分身だよ。いや、う~らになったれ~な、と言うべきなのかな?」

 『あたし』は、嫌だわ、と顔を曇らせたけれど、それはあたしの台詞だった。

 冗談じゃない!

「ご協力ありがとう、河井さん」

 教授が、どう見てもあたしだとしか思えない女に、握手を求める。

 『あたし』は、疲れた苦笑を浮かべていた。

「貴女のおかげで、記憶の転移実験は成功です。この顔を御覧なさい。ウーラには、知性がある。間違いない」

「このサルが、あたしと記憶を共有していると思うと、あまり良い気持ちはしませんけれど……」

 『あたし』は教授に握手を返しながら、静かに答えた。咎めるように横目で彼を見たので、一同は笑い出した。

 あたしは台にくくりつけられたまま、動こうにも動けない。手も、毛むくじゃらのサルのものであるのを見て、あたしは悲鳴をあげた。

 たすけて! 弘樹ちゃん!

 しかし、彼らはさらに嬉しそうに笑っただけだった。あたしの顔をした『あたし』も、恥ずかしげに微笑する。

 そんな!!



 二度と出られない悪夢の中に、あたしは閉じ込められてしまった……。





~”夢なら醒めろ!”・FIN~

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