第26話4月21日 朝の音楽室

 城崎君の弟・洸夜君からの宣戦布告により、不穏な空気を残したまま僕らの吹奏楽部最後の年が始まった。あれから目立った行動もなく、ただ、淡々と毎日が過ぎていった。


 そんな、なんでもない日にそれは起こった。

朝練習のため登校して最初に教室に寄りカバンを机の横にかける。斜め前の席にはすでにヒナちゃんのカバンが置いてある。それを確認し、少し早い歩調で音楽室を目指す。数日前まで教室から見えていた桜の木も、今ではすっかり葉桜へと変貌した。


 早朝の静かな廊下を歩き、3階の音楽室へ着く。まだほんのりと肌寒い朝、ドアノブを回す。硬く回らないノブに手が空回りをした。楽器室や準備室、どの部屋にも今日が始まって1度も誰も入っていない事を示すように鍵が掛かっていた。

 廊下は、鼻をツンとさせる朝の匂いにあふれていた。


 ヒナちゃんが鍵を持って3階の廊下に現れたのは、それから数分後だった。

「冬至おはよ」と音楽室の鍵を開けながら、いつもと変わらない顔で笑いかけるが、一瞬で気づいた。こちらに向かって歩いてくる足取り。いつもとは違い、足を引きずる。来客用のスリッパを履いていた。

 ニッコリと笑うヒナちゃんの手首を掴み、今日初めて人が入るだろう音楽室へと引き込む。


「ねぇ。どうしたの。それ。」

 顔は笑いながらも、手をひねって僕の手を離そうとするヒナちゃんの動きには気づいていた。あいつらならどうする、こんなとき…

「僕には、何が出来る?」

 その瞬間、ヒナちゃんの顔から笑顔が消えた。

「負けない。まだ、頑張れる」

 ヒナちゃんの目が真っ直ぐに僕を見る。僕もヒナちゃんの腕から手を離し、その細くなった両肩を掴み、ヒナちゃんにも、そして自分にも言い聞かせるかの如く叫んだ。

「僕らは!僕らは、ずっと支えるから、味方だから…その、、頼って欲しい。」

 最後の方は声にならなかったかもしれない。でも、少しでも伝わればいい…


 ヒナちゃんの肩をつかんだまま俯いていた僕にヒナちゃんの声が降って来た。

「朝、下足箱開けたら靴が無くなってたの。最初は、探そうと思ったの。でもね、必死になって探してる私を、それをやった奴らが見たらどう思うかなって。考えたら、なんだが頭に血が上っちゃってね。靴下のままっていうのも考えたけど、一応、スリッパ借りに行ったの。」

 再び顔を合わせたヒナちゃんの顔は強く遠くを見ていた。敵わないなぁ。今も、10年後も。

「ヒナちゃん、そういや、お姉さんいなかった?確か最近高校卒業したんじゃなかったっけ?」

 僕を見つめながら、さっきとは真逆の目をする。驚き、好奇心。

「うん。学校違うけど、今年卒業したよ…それがどうかしたの?」

「もし、ヒナちゃんが嫌でなければ、だけど。お姉さん、下足捨てちゃった?」

「多分、まだ捨ててないと思う。それ使えってこと?」


「負けたくないんだよね。なら、もし、嫌でなければ。目立ってもいいなら、むしろ無くなった事が周りにバレるくらいでもいいのかもしれないって…」

 ヒナちゃんの目の中がキラキラと輝き、頬が高揚した。

「うん、面白そう!そういうやり方もあり!」

「もうすぐ夏樹が登校してくるよ。音楽室の鍵は、僕がやっとく。取りに戻れる?ヒナちゃんが靴履いてたら、今日一日きっとあいつらは面白くないだろうね」

 僕の話を聞き終わるか否かに、僕の胸の辺りに音楽室の鍵を投げつけ、ぎこちなく走るようにヒナちゃんは去って行った。冷たい風が熱くなった僕の頬を撫でる。



「盗み聞きとは趣味が悪いね。そういうわけだから、夏樹に連絡しといて。ヒナちゃんが自転車の鍵借りにくるだろうし。靴、無くなってるの気づいてたんでしょ?なら、柊也には遅刻ついで、学校中の靴探しお願いする…ってくらいでどうかな?」

 音楽室の中を振り返った僕の視界には静かな音楽室しかなかった。ただ一つ。少し空いた窓を残して。


その窓へ近寄る。


「おはよ。秋月」



 ベランダには、しゃがみこむ秋月がいた。

「ごめん。余計なこと言った?」

 何も言わずに秋月が首を振る。そのまま顔をあげ深呼吸をした。

「冬至、サンキュ。俺には、見守るってしか思いつかなかった」

 そんな秋月の手には、鍵当番のヒナちゃんが預かるのとはまた別の鍵が握られている。職員室から借りてきたのだろう。それにしても、、


「秋月、どうして今日、いつもよりこんな早いの?」


 もう少しでみんなが登校してくる。秋月からの返事を待たずに音楽室を出た。

廊下で感じたさっきまでの鼻を刺すような冷たい匂いは、無くなっていた。

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