#02 水の少女(02)

 大きく伸ばした手がむなしく空を切る。私の手は何もつかめなかった。夜明け前が一番暗いというけれど、私の身体は暗闇の中に吸い込まれていく。トカゲ人間から逃げるため、ひたすら上に逃げていたのが一気にツケとなって返ってきたみたいだ。

 ああ、私はここで死ぬんだな……。

 後は地面に叩きつけられるだけ。次に触れる物は私の人生に最大の衝撃を与える訳だ。

 かなりの速度で落下しているはずなのに、体感時間がものすごく長く感じられる。神さまって残酷。私は訳の分からない世界に連れてこられ、訳の分からない死に方をするんだ。私の一生って、結局何もできなかったんだな。

 トカゲ人間たちが騒いでいるのが聞こえる。こうなるんだったら、あなたたちの餌になってあげた方がマシだったかもね。美味しくないと思うけど……。

 こんなことを考えてしまう自分が情けなかった。ちょうど山間に光が差してきた。

 私は、静かに、眼を、閉じた……。

 陽の当たる場所で死ねるのがせめてもの幸いなんだろう。ただ、私には別れの言葉を届けるべき人がいないのは幸いだったのかもしれない。それでもあふれ出る涙を止めることはできなかった。

 「あきらめるなぁぁぁぁ!」

 とうとう幻聴が聞こえてきたらしい。

 「こっちを見ろぉぉぉぉ!」

 「えっ?」

 幻聴ではない。眼を開き、声のする方向を見るとひとりの少年がいた。彼は信じられないことにほぼ垂直に切り立った崖を駆け上がっていた。段々と明るくなる日差しの中、彼は確実に私の方に向かってきていた。

 「そうだ! そうだっ! いいぞ!」

 重力に逆らう少年は、私にそう呼びかける。私は手を伸ばすけれど、彼は遙か遠くで届きそうにない。しかし彼の視線は確実に感じられる。死を迎えるだけだった私が今、彼に希望を見いだしていた。

 「た……助けてぇぇ!」

 「待ってろっ!」

 彼はそう言うと、崖を蹴り大ジャンプを敢行する。大きな放物線を描いた彼の軌跡は、ゆっくりと私の方に近づいてくる。

 「手を、手を伸ばせぇぇぇぇ!」

 少年の必死の声が聞こえてくる。私は彼の方に手を伸ばした。が、あまりにも距離が離れすぎている。意味のない行為に思えた。

 「いくぞっ! コーディッ!」

 その声を合図に彼の身体はグンッと不自然な飛び方をした。不自然ではあるのだが、とんでもない跳躍であった。はるか彼方にあった彼の身体が一気に私に近づいた。

 「手を、手を伸ばせぇぇ!」

 それでも彼に届きそうにない。二人はともに自由落下に入った。このままでは地面に……。

 そうだ! 私は手を伸ばすのを止め、肩にかけていたスポーツバッグを手に取る。

 「神さまっ! お願い!」

 私はスポーツバッグの持ち手を離さないようにしっかりと握りしめ、彼の方に放り投げる。わずかに身体が彼の方に移動した。もう一度!

 バンッ!

 彼の手がバッグをキャッチした。今、私と彼はバッグを通して繋がったのだ。

 「よしっ! いいぞ!」

 彼はバッグをぐいと引き寄せ、私の腰に腕を回した。

 「しっかりつかまって!」

 「はいっ!」

 私は言われるがまま、彼の身体にしがみついた。もう地面がそこまで近づいている。

 「頼むぞ! コーディッ!」

 「あいよっ!」

 彼が叫ぶと、グイグイッと何かに引っ張られるようにふたりの身体が崖に近づいていく。ものすごい力だ。何が起きているのかまったく理解できない私は、必死で彼にしがみついているだけだった。

 グンッ! グンッッ!

 何度も彼の身体が空中でジャンプしているような感覚。今、私は奇跡というものを体感しているのだろう。近づいてきた崖を彼は器用に蹴って勢いを消して、不思議なジャンプを幾度となく繰り返して地面に着いた。

 「ふぅ、助かった。大丈夫か? あんた……あれ?」

 昇る朝日に少年の笑顔が浮かぶ。そしてそっと大地に降ろされた時、私は安堵のあまり腰が抜けてしまった。

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