11.月下泉

 夜中に夫が山野を徘徊しているらしいと知ったその晩、私は寝たふりをして事の真相を確かめることに決めた。

 お互い寝床に入ってすぐ、夫は安らかな寝息を立て始めた。暫くの間、規則的な呼吸が続く。私は今か今かと待ち構え、張り切って夫の呼吸を数えていたが、いつの間にか眠りに落ちていた。

 ふと気がつくと、夫は寝室の窓を乗り越えて外へ出ようとしているところだった。その奇矯な行動が恐ろしかったこともあるが、それ以上に好奇心も強く刺激されていたのだろう。私は布団の中で目をみはったまま、彼の姿が窓外に消えるまで声も上げられなかった。

 夫が去ってしまうと、後にはカーテンのはためく音と、虫のすだきと、毛布にくるまった私だけが取り残された。

 こうしてはいられない。速く夫を追わなくては。

 私はベッドに跳ね起き、寝巻きにカーディガンを羽織ったなり外へ飛び出した。

 人口の光が遠い山野においては、思いのほか月明かりが役に立つ。周囲を見渡すと、少しはなれたところをフラフラと歩く人影が見つかった。

 こんな辺鄙へんぴな村に夢遊病者など二人といないだろう。私はそれが夫であると信じ、不明瞭な輪郭を伸び縮みさせながら歩いていく影のあとを追った。


 夫が向かったのは、この辺りでは禁足地として知られる山だった。注連縄しめなわが巡らされ、いかにもな雰囲気を醸し出している旧い道。半ば崩れた石段には、夜露にぬらりと光る地衣類がびっしりへばりついている。

 しかし夫はそれらを意にも介さず石段を登っていった。

 あれほどふらついていれば足を滑らせても不思議ではない。しかしはらはらする私をよそに、彼はヒョイヒョイと存外に軽快な足取りで階段を進む。むしろ夫と足元を同時に気にかけなければならない私の方が、ともすれば滑落する恐れさえあった。

 ふと、目を離した隙に夫が姿を消した。

 すわ崖にでも落ちたかと慌てて階段を駆け上がってみれば、なんのことはない。石段を頂上まで登りきっただけのことだった。夫は少し前を、相変わらず浮ついた足取りで歩んでいる。

 しかし、それよりも私は周りの光景に驚いた。石段の先に広がっていたのは、一箇の集落だった。既に廃村となって入るのだろう。どの家屋にも明かりはなく、またほとんどが破れ家だ。

 こんなところに一体何があるというのかしら。

 そも、夢遊病者の行く先に、目的地など求めようもないだろうか。

 やがて夫は集落の中の開けた場所にたどり着いた。私も後から広場に入る。広場の中央には、円い枯れた泉があった。夫はそこで初めて足を停め、枯れた泉のふちに腰掛ける。

 何事かと見ていると、彼は干上がった泉の底に向かって話しかけた。

「今晩は。随分月の明るい宵だね」

「こんなに明るいと、わたくしめしいてしまいそう」

 いよいよ夫は気が触れたかと思った私は耳を疑った。

 夫と私の他に誰もいないはずの場所で、彼の独り言に返事があった。それも、涼やかな若い女の声である。

「君がめしいたら、僕が君の杖になってあげよう」

「まあ」

 私は再び耳を疑った。

 夫があんな歯の浮くような台詞を吐くなんて、結婚してからこの方、一度も聞いたことがない。

私は状況の奇異さも忘れ、ただただ嫉妬した。自慢ではないが、私は夫を愛している。彼と睦言を交わして良いのは私だ。私だけのはずなのだ。

あれほど明確に喋って、夫の意識が無いなどとは思えない。夢遊病かとばかり思っていたが、どうやら違う。ただ私を裏切って、見知らぬ女との逢瀬を交わしていただけだったのだ! このような山深く、考えてみれば秘密の関係を作るにはうってつけではないか。

私は激情が身を支配するに任せ、夫に駆け寄り思い切り彼の背を蹴り飛ばした。

「うわ」

 夫は間抜けな声をあげて泉へと転がり落ち、ぼちゃりと音を立てて沈んでいった。

 なぜ水がある?

 地べたに転がった夫を心行くまで罵り抜いてやろうと思っていた私は、慌てて彼に手を差し伸べる。しかしすんでのところで夫は私の手を滑り落ち、そのまま濁った水の中に消えた。

 何かの間違いだろう。もしかすると、夢に遊んでいるのは私の方かもしれない。

 私は暫くぽかんとその場に座り込んでいたが、気を取り直し、家に戻って眠ることにした。


 翌朝、私は目を覚ますと布団に独りで横になっていることに気がついた。

 無用心だから玄関の鍵は閉めたが、夫が出て行った窓は開け放しておいた。閉ざされていないところを見ると、結局昨晩から夫は戻っていないらしい。

「泉へ行ってみようかしら」

 私は布団を出て朝食の用意をしながらぼんやりと考えた。

 そうだ、それが良い。消えた場所をまず探すのは至極真っ当な順序である。

 今日で見つからなければ明日、明日が駄目なら明後日、明々後日……。見つかるまで探し続ければ、必ず見つかるのだ。

 私は一人自己満足的に頷き、糠漬けの茄子を一本切った。


 夫は未だ見つからない。




〈了〉

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