9.今日の献立

 すり鉢状に座席が並んだ講堂の一番後ろで、僕は開いたノートに汗が落ちないよう手巾ハンカチで額を拭うことに腐心していた。きっと空調設備が壊れているに違いない。あまりの暑さにだだっ広い講堂内はほとんどサウナだった。よく見れば、壇上の教授の額にも玉の汗が浮かんでいる。

 汗は拭いても拭いても流れてくる。僕は根気良く左手で額をおさえながら右手で板書を続けていたが、ノートをおさえる手が無いとどうにも綺麗に字が書けない。教授がいかにも重要らしく恭しい手つきで描いたなんらかの数式を表すグラフも、到底正しく製図できない。

 僕はため息をついて鉛筆を放り出し、手巾を右手に持ち替えて椅子に深々と座り直した。どうせこんな有様ではまとも頭に入るまい。額から雫が垂れるのを防いだとしても、どの道腕にかいた汗でノートのページは既にふやけている。授業の一度くらい板書をしていなくたって、後で誰か捕まえてコピーでも取らせてもらえば良いのだ。

 黒板に引かれる白線を無為に眺めながら、真面目にノートを取っていそうな知り合いを幾人か思い浮かべていると、胸ポケットに入ったスマートフォンが震えてメールの着信を告げた。どうせ教授も最後列に陣取る僕のことなど気にしてはいまい。

 僕はメーラーを起動した。


〈鴨居が折れた。〉


 僕の恋人からのメールには、それだけが書かれていた。

 なるほど、また失敗したのだな、と僕は考えた。

 彼女が今朝頸を括ると宣言したときも、大体が安アパートの安普請なのだから、成功するわけがないとさえ思っていた。

 なんと返信したものか逡巡しているうちに、恋人から重ねてメールが届いた。


〈鱗っぽい。〉


 またも素っ気ない文面だったが、写真が添付されていた。

 そこには恋人のやたらと生白い頸筋に、まだ血が滲んでうっすらと桃色をした縄目痕が巻きついている様子が映っていた。よく映っている。相当、盛れている。

 返答に窮したので、僕はひとまず今晩の献立の希望を尋ねておいた。

 放課のチャイムが鳴り、暑苦しい講堂から外に出た僕は、厳しい日差しに更に痛めつけられた。水でも買おうと自動販売機に近づいたとき、恋人から返信があった。


〈うなぎ。〉


 僕は胸中でそれを却下して、自宅の冷蔵庫の中身に思いを馳せた。特に買い足さなくとも何かしら作ることは可能だろう。僕はスーパーに寄らずに帰宅することに決めた。

   

 *  *  *

 

 家に帰り着いてみると、キッチンと居間の境の鴨居がものの見事に折れていた。

「戸が閉まらん」

 恨みがましく呟いた僕に、ソファに寝そべり漫画を読んでいた恋人が言った。

「うなぎは?」

「ねえよ」

 期待をかけて半身を起こした恋人は、不満げに唇を尖らせる。

 頸筋の鱗は、いつの間にか鬱血し、青黒く変色しているようだった。



〈了〉

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