第38章:漸進
[1] 戦役の立案
これまで南部のドニエプル河を巡る過酷な戦闘に注目が集められていたが、ソ連軍は中央軍集団に対しても攻勢をかけ続けていた。この攻勢は南部戦域と同様に重要とされていたが、大きな戦果を挙げられなかった。
10月初め、カリーニン正面軍は急襲によってネヴェリを奪回すると、中央軍集団と北方軍集団の連絡を切断し、北翼からヴィテブスクに迫った。その直後、白ロシア正面軍(10月16日、中央正面軍より改称)が白ロシアの南部で、「ゴミョル=レチッツァ」作戦を開始した。西部正面軍はヴィテブスク東部のオルシャとモギリョフにあるドイツ軍陣地をくり返し攻撃していた。
11月初め、緒戦の成功によってモスクワの「最高司令部」はバルト正面軍(10月16日、カリーニン正面軍より改称)、西部正面軍、白ロシア正面軍に対し、攻撃に移るよう下令した。目標はミンスクの奪取と白ロシア東部全体とされていた。だが、この野心的な攻勢も11月半ばには、天候の悪化とドイツ軍の頑強で抵抗に遭って失敗した。
白ロシアにおける戦況が膠着したことにより、中央軍集団は冬季戦を中止した。陸軍総司令部はこれで戦闘が一時的に休止するだろうと考えたが、南部戦域のソ連軍はそうはさせなかった。
12月中旬、ジューコフとヴァシレフスキーはモスクワからの召喚命令を受けて、クレムリンに出頭した。国家防衛委員会で開かれた戦略会議において、1943年の冬季戦はこれまでに行われてきた冬季戦のように全前線における同時攻勢ではなく、兵力を南部の戦域に集中して行うことが決定された。
主攻勢正面は第1~第4ウクライナ正面軍とし、ドニエプル河東岸を掃討するため、「最高司令部」は4つの作戦を立案した。レニングラードの解放など一部の作戦を除き、他の正面軍では補助的な作戦以上の行動は行わないよう指令が下された。
ドニエプル河東岸を掃討する4つの作戦は、以下の地点と日付が設定されていた。
1943年12月24日、ジトミール=ベルディチョフ。
1944年1月5日、キーロヴォグラード。
1944年1月29日、ロブノ=ルーツク。
1944年1月30日、ニコポリ=クリヴォイローグ。
ウクライナの冬は通常、ロシア本土よりもはるかに穏やかであった。そのため、ドニエプル河東岸解放のためのソ連軍の攻勢は1943年12月から1944年2月末まで休みなく続けられた。複数の攻勢を1つの「戦役(キャンペーン)」として連動的に実施することにより、「最高司令部」は設定した攻撃目標をある時点まで隠蔽しながら、ある正面軍から別の正面軍に必要な砲兵と戦車部隊を移動させつつ運用することを可能とさせた。
この間、ドイツ軍の後方地域ではさまざまなパルチザンが縦横に活動し、ドイツ軍との小規模な戦闘を繰り広げていた。そして、1944年初頭の南部ではソ連からの独立を目指す「ウクライナ蜂起軍(UPA)」がパルチザンの最大勢力となっていた。
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