7 温かい手
ずっと暗くて、何が起きているのかわからなかった。頭を丸ごと揺さぶる衝撃と、容赦のない痛みが続く。背中から壁に叩きつけられ、息がつまったところで、ようやくマリオンの視界に色が戻った。切り取られた空と、
マリオンが身をよじったとたん、大きな手が胸倉をつかんできた。そのまま壁に押しつけられて、当たっている頭と背中がいやに痛んだ。窒息しそうだと思いながらも、彼女はどうにか目を開けて、学術都市に似つかわしくない乱暴者どもをにらみつける。
「よけいなことをしてくれたもんだ」
誰かが吐き捨てる。誰なのか、など、かすんだ目では見分けられない。
「やっと変えられる。やっと変われると思ったのにな。あの魔女に乗じて今度こそ、今のグランドルをぶち壊してやろうと思ったのに」
「それがどうだ。俺たちがおさえつけられるより先に、当の魔女が死んだ。俺たちはとんだ
ざらついた声が、次々と文句を吐く。マリオンは息苦しさに耐えながら、我慢して黙っていたが、よどんだ愚痴がいつまでもやまないとわかるや、とうとう大きく息を吸った。
「勝手なことを」
もう、我慢できない。
「ルナティアの――アナスタシアのこと、なにも、知らないくせに」
「あぁ?」
男の一人にすごまれたとき、しまった、とマリオンは思った。けれど、遅い。
「彼女がどんな気持ちで、あの行動に出たのか、知らないくせに。考えようとしたこともないくせに。勝手に崇めて、調子に乗ってんじゃないわよ。そんなに今の体制を変えたいなら、自分たちの力でやったら、どうなの」
――他人のことは言えない。マリオンもまた、ルナティアの意図を知ったのは、すべてが終わったあとだった。彼女の相方が証言したこととして、あの場にいた少女から聞いただけだ。それでも、驚かずにはいられなかった。
帝国が遺した魔女のわざから人々を遠ざけるため、あえて悪者になってみせる。そんなことを考えついて実行に移したアナスタシア・スミーリの本質は、気高く清らかな女性だったのだろう。やり方は悪かったが、彼女は彼女なりに、この大陸を、そこに暮らす人々を思っていたはずだ。そんな彼女の思いを踏みにじってくる人々が許せなかった。なにか言ってやらねば、気が済まなかった。たとえ、自分にその資格がないとわかっていても。だからマリオンは、決して男たちから目をそらさなかった。
はりつめた沈黙。それを破ったのは、無言の暴力だった。
真正面の男が、強引にマリオンを自分の方へ引き寄せて、あいた手で白い頬をしたたかに打つ。一瞬目をつぶってしまった彼女は、そのまま石畳に投げ出された。抵抗する間もなく、体の上に重い物がのしかかってくる。嫌な予感に薄目を開けたマリオンは、見なきゃよかった、と胸中で呟いた。
先ほどの男の顔が、先ほどまでよりずっと近くで、ぶきみに笑っている。黒茶の瞳が暗く光った。
「威勢のいいお嬢さんだ。そういうのは、俺は嫌いじゃないがね。口の利き方には気をつけた方がいい」
影が濃くなる。三人が、にじり寄ってくる。
「少ししつけをしてやろうか」
「……何、を」
「簡単なことだ。俺たちは男でお嬢さんは女。言ってる意味がわかるよな」
マリオンは目をみはった。それから、ぎゅっとつむりそうになって、なんとかこらえる。
この男の言っていることがわからないほど、マリオンは子どもでも世間知らずでもない。それでも、こんなたちの悪い脅し文句は一生聞きたくなかった。
怖い。怖い。泣き叫びたい。なのに……声が出ない。
子どもたちの付き添いを引き受けなければよかったか。あの子たちを無理に逃がそうとしなければよかったか。よけいなことを言わなければ、よかっただろうか。
なにも知らないわけがない。むしろ、よく知っている。あの荒廃した大陸で、見ずに済むわけが、なかった。
服をひっぱられる感覚がある。彼女はまた、怖い、と叫びそうになった。小さな女の子に戻ってしまったかのように、心細くて。
泣きたい。
泣いてはいけない。
せめて、少しでも、仕返ししてやらないと――そう思ったマリオンが、男の腕を振りほどこうとしたとき。
しゅ、と細い音がした。後ろの男の、鈍い叫び声が続く。ほかの三人は、そちらに気を取られ、拘束がほんの少しゆるんだ。
「何があった」
「あ……なんだ、あのガキは!」
後ろで見ていた男たちのうちの一人が、マリオンからも見える建物の窓を指さした。そこから、人が顔を出している。まだ幼いといっていい男の子なのだとだけ、わかった。なんとなく、色合いがサリカに似ている気もする。
どうでもいい思考にふけっていたマリオンの意識を、別の気配が引きあげた。広がる魔力と、光。それは一瞬消えて、すぐに弾ける。絶叫が連続して、最後に、鈍い音がした。
「そこまでにしてもらおうか」
音の嵐を終わらせたのは、澄みきって、それでいて無愛想な一声だった。
覚えのある人の影が、男のすぐ後ろに立っていて。マリオンは呆然と、それを見上げていた。
※
幼馴染が暴漢に捕まったと聞いたとき、なぜそんなことになったのか、見当がつかなかった。だが、すぐに、エレノアから聞いた話を思い出した。それをマリオンにきちんと伝えなかったのは、彼らの――軍人たちと、ロトの落ち度に違いない。けれど、まさか本当に彼らを恨んでいる人間がヴェローネルにまぎれこんでいるとは、思わなかったのだ。それも祭が始まる前から。
「なんでこいつのとこに来たんだ。どうせなら、アニーのところに行ってくれればよかったものを」
そうなればこの程度の小物、あっという間に返り討ちにされただろう。妙な考えにひたりながら、ロトは、顔をゆがめて立ち上がった男と、その後ろで起きあがれないままでいるマリオンとを見比べていた。
荒れた大陸を腕っ節と魔術と連携で駆け抜けた、ヴァイシェル魔術師船団の出身者。とはいえ、当時、マリオンは十五にもならない女の子だった。ゆえに暴力が必要な場面ではいつも大人が守っていて、彼女自身が誰かと戦ったことは、ほとんどなかった。力にものを言わせる男四人に囲まれればどうなるかは火を見るより明らかだ。つくづくうかつだった、と、ロトは自分をののしった。
「小僧。てめえ、こいつのなんだ」
黒茶の目をぎらつかせる男を見、ロトは頭をかいた。彼自身はこの四人の誰とも知り合いではない。が、この四人は違う。マリオンを知っていたくらいである。『ヴェローネルの便利屋』のことなど、とうに調べているだろう。だからこその問いかけに、青年は投げやりな口調で応じた。
「弟で幼馴染でお得意様、ってところかね」
「――へえ」
まばたきした男は、そのまま視線を後ろに投げる。
「よかったじゃねえか。てめえの男が助けに来た」
それはわざと言っているのだろうか。ロトは眉をひそめた。マリオンの方から、いらえはない。言葉を返せるような状態ではないはずだ。ロトが大きく息を吐いたとき、前から後ろから、荒くれ者がにじり寄ってくる。
「で? 子どもと犬っころをおともに、英雄になりにきたか。それとも、同じ目に遭いたいか」
「……まったく、血の気が多い。『暴れ猫』も呼んでくればよかったか?」
「はあ?」
答える気のない青年の言葉に、男たちが間抜けな声を上げる。その隙に、ロトは、踏み出していた。まわりの者たちが動きだすより早く、真正面の男の顎を殴りつける。相手がひるんでいる間に、脇をすり抜けた。上半身を起こしたきり放心している幼馴染を拾い上げて、彼らから距離をとろうとする。当然、男たちは追いすがってきたが、灰色の毛玉が正面から彼らにぶつかった。
「ま、また魔物か!」
「レーシェ、深追いするなよ!」
絶叫をかき消すように叫べば、吠え声が返ってくる。驚きのこもった視線を無視したロトが、前に続く小路に駆けこんだとき、突きあたり左の曲がり角から、シオンが飛び出した。
「ロト、サリカたちが来た!」
「本当か。仕事が早いじゃねえか」
にやりと笑ったロトは、魔物の仔を呼びよせて駆けだす。さすがに暴漢たちはこりたかと思ったのだが、意外にもしつこかった。シオンの石弾で伸びていたはずのもう一人まで加わって、拳や鉄棒を振り回しながら追ってくる。もはや彼らは、追うことに躍起になって、当初の目的を忘れているに違いない。面倒くさい、と、ロトが呟いたとき。
この場の誰のものでもない魔力が、石畳に広がった。直後、男たちの足もとに方陣が広がり、消える。とたん、彼らはその場に縫い止められたかのように、動けなくなっていた。その場でめちゃくちゃにもがいているが、足だけが言うことを聞かないらしい。
四人ともがわめき散らす。そこへ、悠々と、一人の老人が歩いてきた。
「こら、君たち。ヴェローネルを騒がせるのはそのあたりにしなさい。女性を怖がらせるのも感心しない」
靴音が止まる。膝まであるコートが、優雅にひるがえった。
「な……誰だてめえ!」
「教会に通うのが日課の、ただの
老人、トーマス・クレインは、荒くれ者の怒声にひるんだ様子もなく、にこりと笑った。ロトでさえ、彼を呆然と見てしまう。しかもその足もとに、見覚えのある黒猫がいることに気づき、苦い顔になった。
「あ、あんたな……」
「やあ、便利屋のロト君。暴力を使わず事を収めようとする君の姿勢には感心するよ」
「のんきに感心すんな。せめて猫じゃなくて人を呼べ、人を」
唖然としているマリオンを気にしながらも、ロトは、足もとだけ土台に固定された彫像となった四人をながめた。
「だいたいあんた、術は苦手とか言ってなかったか」
「苦手だとも。たったこれだけの方陣を編むのにも、かなり時間がかかってしまった」
「だったら無理に出てこなくてもよかったのに」
「なあに。日ごろのお返しだよ。君にはお世話になっているからね」
クレイン老人は、ほがらかに笑いだす。ロトはもはや、呆れることしかできなかった。幸か不幸か、そのとき、軍靴の音と鋭い声が聞こえてくる。声のなかにはエレノアのそれも、混じっていた。後は彼らに任せた方がいいだろう、と判断したロトは、クレインを振りかえる。
「そういえば、街の奴が呼んでたぞ。赤毛の、女の人。祭の手伝い頼まれるんじゃないか?」
「おや、本当かね。それは行かないといけないね。教えてくれてありがとう」
伝えることは、伝えた。とりあえずこれで終わったか、と肩を落としたロトのそでを、かすかな力がひいた。
「ねえ、ロト……」
青ざめた顔のマリオンが、見上げてきている。
「どうした」
「あんた、顔が広いのね」
それは今言うことか、と言いたくなったが、ロトは黙って肩をすくめた。
「ご、ごめんなさい……ごめんなさい……うええ」
「なんで君が泣いてるの。鼻水出てる。かっこいいのが台無しよ」
泣き叫ぶ子どもたちをマリオンがなだめている。その横では、赤毛の女性が、「落ちついて。この後一緒にデムさんのところに行こうね」と、さらになだめていた。そんな光景をロトは近くで他人事のようにながめている。そこへ、ひょっこりと顔を出した人がいた。金髪に三つ編み、大きな碧眼が目をひく少女である。
「なんで私を呼んでくれなかったのー」
「おまえが出てきたら絶対やりすぎるだろうが。怒られるのは俺なんだ」
「むぅ」少女は頬をふくらませる。もちろん、彼女がふてくされているのが、首を突っこめなかったからではないことは、ロトも承知している。彼女とほかの三人は、騒動を聞きつけるやいなや、「マリオンさん大丈夫!?」と、半泣きで転がり込んできたのだから。
魔術師部隊と警察が出てきて、事態はひとまず収拾した。さすがに男たちも、自分たちがしでかしたことの大きさに気づいたのだろう。一気に大人しくなって、連行されていった。この件に関わった人々は事情聴取を受け、つい先ほど解放されたばかりである。とはいえ、当事者が全員女性と子どもだったこと、その例に含まれないロトは状況を知らないことから、あまり時間はかけられなかった。警察官の態度がマリオンに対してだけ、やたらと優しかったのは言うまでもない。
二人の少年が、赤毛の女性に連れられて去ってゆく。それを見送ったあと、ロトはやにわに立ち上がった。静かな足取りでマリオンの隣に行くと、不思議そうな彼女をじっと見下ろす。
「マーリオン」
「え?」
彼女が首をかしげた瞬間、ロトは軽くにぎった拳を黒い頭に落とした。鈍い音と、「いたっ」という声が重なる。三つ編みの少女も含め、まわりが唖然としたのはわかっていたが、ロトはあえて、気遣うことをしなかった。ただ、幼馴染だけを見る。
「まずは謝りたい。ああいう連中がいるかもしれないと、きちんと注意しなかったのは、すまなかった」
「殴ってから言うこと?」
涙目の抗議を、青年は得意の仏頂面で受け流す。
「けど、おまえも悪い。自分一人が囮になるなんて、勝手なことしやがって」
「ぐっ。でも、そうしないとあの子たちが……」
「俺とシオンが間に合わなかったら、どんな目にあってたか……知らないわけじゃないだろ!」
つい語気が荒くなる。ロトが歯を食いしばって目を細めると、魔術師の女は瑠璃色の瞳を見開いて、息をのんだ。
知らないわけがない。隣人が、友人が、ひどい目にあったあげく殺されていくさまを、二人ともが幼い頃に、まざまざと見せつけられた。今さらながら、まっ赤な炎と一緒に、その残像が脳裏に浮かぶ。
記憶にのまれかけている自分に気づいたロトは、深呼吸して気持ちを落ち着かせてから、もう一度相手を見た。
「俺も監獄塔で無茶した手前、強くは言えない。けど――頼むから、もう、こういう無茶はやめてくれ。とりあえず」
ひと呼吸置く。少しだけ目が泳ぐ。ロトは顔をそらしてから、呟いた。
「おまえはそろそろ、自分が女だってことを自覚しろ」
浮かんだ言葉を形にしてしまうと、急に恥ずかしくなった。ロトはそろりと前を見て、まばたきする。マリオンが、信じられないものを見た、とばかりの表情で固まっていたからだ。けれど、その意味をロトが尋ねる前に、彼女はうつむいた。しおれた花のように縮こまると、「ごめんなさい」とささやく。
青年は、とりあえず、小さな頭を優しく叩いた。
それまで凍りついていたまわりの人々が、少しずつ、動きだす。戻ってくるざわめきに混じって、わざとらしくはやし立てる声が聞こえた。ロトは知らないふりをした。
そこへ、三つ編みの少女と、なぜかエレノアがやってきた。ロトがマリオンを叱っている間に、近くに来ていたのだろう。
「なんか、私が遺跡で怒られたときのこと、思い出した」
少女が歯を見せて陽気に笑う。一方、エレノアは、マリオンに歩み寄って何事かをささやいていた。マリオンは唇を変な方向に曲げていたが、何も言わずにエレノアから目をそらす。
少将は魔術師から離れると、かたわらの青年を振り仰いだ。
「さて。とりあえず、君はマリオンを連れて帰ってあげるといい。いろいろあって疲れただろう」
「俺はそこまでじゃないけどな。ま、とりあえずお言葉に甘えさせてもらう」
ロトは軍人に向かって手を振ると、幼馴染と連れだって、その場を後にした。
祭へ向かう学術都市の喧騒は、いつもとまるで変わらない。先の騒動などなかったかのようだ。大量の木箱を抱えて駆け抜けてゆく大学生を目で追いながら、ロトはいつもの足取りでいつもの道を進んでゆく。違うことといえば、マリオンが隣にいるくらい。それすらも彼にとっては慣れたこと。ときどき声をかけあいながら、青い三角屋根の前まで戻ってきた。
手紙や荷物が来ていないか確かめて。扉を開けて、連れを先に入れてから、扉を閉める。直後、ロトは右腕をのばして、その場でよろめいたマリオンを背中から支えていた。
「大丈夫か」
「う、うん。ありがとう」
マリオンはうなずいたが、顔色はいちだんと悪くなっている。足もとも定まっていない。手を離せば、そのまま転んでしまいそうだった。
「ごめん。なんか、今になって、震え……」
それでも気丈にふるまおうとする「姉」を見て。ロトは軽く息を吐いた。左腕も彼女の背中に回して、そのまま、あやすように叩く。
「当たり前だ。さっきの場所で、泣いてもよかったくらいだ」
「い、嫌よそんなの。かっこわるい」
「かっこわるいって……格好つける必要ないだろうに」
ロトは、右手をマリオンの頭において、それを自分の肩に押しつけた。くぐもった声を聞き流し、淡々と、ささやくように言う。
「ここなら、誰も聞いてない。こうすれば外にも漏れないだろ」
返事はない。かわりに、
「痛かった……怖かった……怖かったよ……!」
「うん、頑張ったな。よく我慢したな。遅くなって、悪かった」
ささやきながら、背中を叩く。泣き声も、涙の温度も、青年はただただ受け入れる。
「無事でよかった」
最後にそうささやいたきり、彼は黙って、マリオンが落ちつくまで、その背をさすっていた。
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