1 望郷
灯火の類を置いていない図書館は、けれど、壁に
図書館の一角。学生たちを多く見かける区画で、学生ならざる青年が、備え付けの梯子に足をかけていた。彼は淡々と本を選びだし、手に取ると、器用に梯子を降りてゆく。そして、下で待たせていた別の本も一緒に抱え上げると、飴色にみがかれた机へと、それらを運んでいった。
積み上げられた本、その一番上の表紙を、静かな深海色が見つめる。大陸各地の民話を収録したそれは、比較的新しい活版印刷の本であった。ふだん、街の片隅で便利屋を営む彼は、椅子を引いて座ると、無言で本を広げた。
依頼の関係で図書館に来ることもままある。しかし今回は、個人的な調べ物だ。ひょっとしたら王国全体に関わるかもわからない――限りなく
どれほどそうしていただろう。ふいに、ロトの前に気配が割り込んできた。
「本当に資料が少ないんだね」
「こんなんで、発表なんてできるのか?」
若い男女の会話。図書館であるから、まわりを気遣ってひそめられていたが、紙をめくる音とわずかな足音しかなかった空間で、ロトの意識が引きつけられるには、じゅうぶんだった。
見れば、十代半ば、二人の少年と二人の少女がそこにいた。どこかの大学の生徒だろう。胸のあたりに見覚えのある紋章の飾りがついた、濃紺の長衣をまとっている。彼らの前の天板には、歴史と地理と、なぜか船にまつわる本が、雑多に広げられていた。青年の視線に気づかず、彼らは机の一方の席を独占してしまうと、本をめくり、書きつけをとりながら、にぎやかに言葉を交わす。
ロトは、みずからも資料をめくりながら、ときおり四人の様子を観察していた。彼らが交わす言葉と、垣間見える文字から、何について調べているかは、すぐに知れる。
シェルバ人、およびヴァイシェル大陸の文化、歴史、技術。
まだ、このエウレリア大陸にはほとんど伝わっていないであろう情報を、わずかな文献からすくいあげようとする若者たち。その表情は、いずれも真剣そのものだ。黒茶の、あるいは薄い青色の瞳には、加減こそ違えど探究心の炎がちらついている。
ややして、少女の一人が、ペンを動かす手を止めた。
「なんかさあ、同じことばっかり書いてあるね。おもしろくないというか、厚みが出ないというか」
それはそうだろう。ロトは、心の中で呟いた。グランドルの、あるいはこの大陸の人々が得られる北海の大陸の情報など、たかが知れている。航海技術の進歩著しいこの時世、王国の支援を受けて、北の海へ赴く者は少なくない。けれど、彼らが得られた成果は微々たるものだと、軍関係者から聞いたことがある。凍てつく海の厳しさが、南育ちの人間どもを翻弄しているに違いない。身をもって知っているロトは、やるせない気分になった。手慰みにめくった本の一ページ、探していた女性名を見つけると、気を取り直して羊皮紙の隅に書きうつす。
その間にも、学生たちは好き勝手に話をしていた。
「なあなあ、今からでも課題変えないか? 今、ヴァイシェルを調べるのはきつすぎるって」
「僕はこのまま調べ続けたいね。せっかくだし。おもしろいじゃないか」
「私もそう思う」
木々のそよぐ音を聞く気分で本をめくっていたロトは、しかし、次の瞬間に顔をあげた。
「でもさ、ヴァイシェルの貿易船団が来るのって来年の夏ごろなんでしょ? 今取り上げる必要なくない?」
息をのむ。切れ長の目は見開かれ、唇はわなないた。
「その一報が発された今だからこそ、取り上げる価値があるんじゃないか」
「でも、でも。まだほとんどの人が知らないだろうしー。まあ、ひと月以内には知れ渡るだろうし、貿易船は気になるけど」
「あーんな遠い大陸から商品積んだ船がくるんだよな。やっぱ、船には魔術とか、しかけてあんのかな。見てみたい」
指と指の隙間から、ざらついた感触が消える。ロトは、はっと机を見やった。手を離れたページは、大人しくもとに戻って、文章をさらけ出している。
まさか、学生の言葉に、我を忘れるほど気を取られるとは思わなかった。青年は出かかったため息をこらえ、分厚い本を閉じる。向かいのかしましい気配を無視して、続く一冊に手をのばした。
ロトが図書館を出たのは、すでに、かなり日の傾いた時分であった。西へ退く橙色の光が、色鮮やかな家並みの瓦を照らし、軒先には紺色に近い濃密な影が落とされている。制服も年齢もさまざまな学生たちが、戯れながら走り去ってゆく中、青年はひとり静かに歩いていた。口を開けば言葉のかわりにため息がいくらでも出そうな気がする。だから、唇もかたく引き結んだままだ。
まったく嘆かわしいことに、調べ物に途中から身が入らなかった。おかげで得られた手がかりはほんのわずかである。『便利屋』の貴重な休みにこの
――実際、ロトはまじめにそこまで考えていたわけではない。ただ、調べ物が手につかなかった原因をたどれば、学生たちの声が脳裏にこだました。
「ヴァイシェルの貿易船、か」
航海術の進歩著しい時世。同時に、船も少しずつ改良がすすめられている。それはエウレリア大陸に限った話ではなく、他の大陸でも形は違えど、技術の進歩は見られるのだろう。
貿易船がやってくるようになった、ということは、凍てつく海からこの大陸へ無事にやってこられる確率が跳ねあがったということである。荒波をうまく切り抜ける方法、あるいは切り抜けるのによい時期が少しずつわかってきたのだろう。
それはつまり、海路の安全性が上がったということ。
今すぐには無理でも、いつか大陸間を民間人が行き来することができるようになるかもしれない。そうなれば、ロトたちが、また故郷の地を踏むことも、できるかもしれない。
だが、考えた青年の口もとに浮かんでいたのは、穏やかな嘲笑だった。
帰郷して、どうするのだろう。
帰る場所も、待ってくれるはずの人も、失ったというのに。
あの日生き別れた人々が、まだ生きているとも限らないのに。
「ま、でも……ユーリア先生だったら、顔くらい見せに来いって、怒るかな」
幼馴染の師匠の姉。魔女に近しい偏屈な女魔術師は、ロトには何かと気を回してくれていた。それゆえに、ひどく厳しくされたこともあったが。それでも、深い感謝の気持ちはある。
もしも、帰れるようになるのなら。彼らに挨拶に行くくらいは、するべきだろうかと、ほほ笑んだ。
「今、考えてもしかたねえか」
つま先で、石畳を蹴りつけて。ロトは静かにひとりごつ。ひとつうなずき、上着の裾をひるがえし、自分の家に向かって歩く。
家路の途中、見上げた空はまだ青く、西の端には炎のような残光が照る。そのはざまにある上弦の月は、白く、さえざえと光っていた。
控え目に家の呼び鈴が鳴ったのは、図書館での想いがけない出来事から数日後のことであった。ちょうど、朝方に警察の来訪を受けていたロトは、ため息をついた。『市民街での暴力事件について』という物騒な題名の資料を、黙って本棚の隙間に押しこむ。注意喚起ついでに、「それとなく様子を見て、場合によっては仲裁に入ってくれ。お金出すから」などということを遠回しに依頼されたのだった。その関係の客でないことを祈りつつ、戸口に向かう。
短い秋が終わり、冬にさしかかろうとしている時期だ。開いた扉の隙間から、涼風というには冷たすぎる風が吹きこむ。顔をしかめそうになるのをこらえ、いつものように「いらっしゃい」と口にしたロトは、動きを止めた。
「あのう……。便利屋さんって、ここで合ってますかね?」
今にも逃げだしそうな様子でそう訊いてきたのは、濃紺の長衣をまとった少年。数日前、図書館で遭遇した四人のうちの、一人だった。
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