2 犬のしつけ
隙間なく立ち並ぶ家いえの列の間を、まっすぐに、時に蛇のようにうねりながら走る道。敷き詰められた石の上には、どこからやってきたのか、あふれんばかりの人々がひしめきあっていた。軽く通りを歩くだけで、いろんな声を、においを、色を受け取る。華やかさを閉じ込めた箱庭は、今日もまた変わらず、王国各地の人々を迎え入れては抱いていた。雪に似て白い肌に、氷海の瞳、すっと高い鼻と鋭い目をあわせもった少年は、その箱庭の中にあって、明らかに異質な空気を振りまいていた。道行く人が時折ぎょっと振り返る程度には浮いている。
木彫り細工を売る浅黒い肌の男が、大声で話しかけてくる。けれども少年、ロトは、それを無視して歩を進めた。その後も続く、ありとあらゆる声がけに、眉ひとつ動かさない。都合よく、言葉のわからない外国人のふりをして、通りすぎた。
熱をまとった風が吹き抜ける。見慣れぬ紫色の衣をまとった女たちが、複雑に編みこんだ黒髪を揺らしながら、歩いてゆく。独特の香にひきつけられたロトは、顔をしかめてかぶりを振ると、香りを追い払い、誘惑をはねのけた。
「なんだかな」
呟く声を聞く者はない。声をのみこむざわめきは、少年をさらにいらだたせた。
※
「どうする? 試験、受けてみるか?」
まっすぐな、刃のような問いかけに。ロトはつかのま固まった。すぐには言葉が出てこなかった。
情報院。軍事機密から王族にまつわるものまで、ありとあらゆる『情報』を取り扱う機関。そのくらいはロトも知っている。そこに、『魔術部』と呼ばれるところがあって、魔術の研究などをしているということも。
この国の人々は、ロトたち異邦の魔術師の知識を欲しがっている。おそらく、誰かは情報院に引き抜かれるだろうと、ロトもほかの仲間たちも思っていた。ただロトは、それが自分自身だとは予想していなかった。
「え……と。情報院の、それも魔術部の試験って、鬼のように難しいって、聞いたことあるんだけど。俺が受かるのか? そんなの」
「グランドルの人々からすれば『鬼のよう』だがな。君ならば問題ないだろう」
ロトが苦し紛れに問いかけると、エレノアはからりと笑う。いつもの笑顔だ。しかし、どこか空虚な感じもする。ロトは、うなり声を漏らした。
「この大陸と、君たちの住んでいた大陸とでは、魔術師の質が違うんだ。魔力も、その知識の豊富さも、君たちが圧倒的に上だ。こちらの魔術師のほとんどは、むこうの大陸では無能扱いだろうな」
「だから問題ないって、言いたいのか?」
「君なら、な」
同じ言葉を繰り返し、エレノアは不敵な笑みを刷く。真意の読めない瞳に見つめられ、ロトはついつい眉根を寄せた。
目を閉じる。思考に深くもぐった彼は、いくつかのものを天秤にかけてみる。それは損益だったかもしれない。あるいは
ロトはため息をつくと、机の天板をてのひらで叩いた。
「ちょっと、考える」
言うなりロトは立ち上がる。扉の方へつま先を向ける。それからふと、振り返ってみれば、エレノアは笑っていた。
「そうか。……そうだな、しっかり悩め」
エレノアは怒らなかった。それどころか、ほっとしているようにも見える。ロトは舌打ちをこらえて、准将に背を向けた。
「どこかへ行くのか?」
「王都の大通り。気分転換に」
「ひとりでか?」
「悪い?」
ロトは、案ずる声を叩き斬るように問い返す。エレノアの顔は、見えない。ただ、相手が肩をすくめたような気がした。
「いや――気をつけて」
彼女はきっと、ロトが図書室から出るまでその場を動かなかった。走り去る彼の背中を見送りながらも、何も言わなかった。それは彼にとって、ありがたくもあり、心地の悪いことでもあった。
本を棚に戻すのを忘れたことに、扉を閉めてから気がついた。が、今さら中へ戻る気にもならず、ロトはそのまま廊下を駆けた。
※
「だいたい、おかしいだろ」
喧騒の中。誰に向けるでもなく、ロトはひとりごつ。
「なんで、こんなガキを。しかも海のむこうから来た異民族を。国の情報機関に入れようなんて話になってんだ。意味わかんねえ。絶対なんかある。ぜったい、じじいどもの差し金だ」
不審を並べ立てる声は、ささやきのように小さい。おかげで、通りすぎる誰にも聞かれずに済んでいる。
情報院へ推薦することじたい、『じじいども』ではなくジルフィード本人の提案であることをのぞけば、彼の言葉は的確に、推薦の裏事情を言いあてていた。が、もちろん、当の本人がそんなことを知るはずもなく。
ざわめきに混じる不自然な音を聞いたのは、通りの幅が少し広くなった、と感じたときだった。さざめきのような声も、不安をまとったものに変わる。足を止めたロトがあたりを見回せば、人々はこわごわと身をひいて、ある一点を見つめていた。
また、不自然な音がする。ロトはその正体に気づくと、首をかしげた。
「……犬?」
少しだけ、近づいてみると、わかる。それは、犬の吠え声と爪が石畳をひっかく音、そして人の情けない声――「待ってよ、頼むからあ!」というような言葉がえんえん繰り返されている――が重なった音だった。だいたいの事情を察したロトは、おおげさに息を吐くと、身をひねって、小さな人だかりをくぐり抜けた。
白い獣が走っている。三角形にほど近い耳をひょこひょこ揺らし、豊かな尾をふさりふさりと振るさまは、無邪気でかわいらしいとすら思える。しかし、小さな獣の勢いたるや凄まじく、進路上にいる人々が思わず飛びのくほどだった。これで、所有を意味する首輪がなければ、『処分』されても文句はいえなかったろう。しかし、今回は所有者がはっきりしている。小さな白い獣――子犬――よりかなり遅れて走る、痩せた黒髪の男。衣は質素な薄青色だが、かなり上質できれいにされている。そもそも犬の飼い主という時点で、金持ちなのは間違いない。ロトは思わず舌打ちした。
「かわいい……」「けど、あれ、止めた方がいいの?」などとささやきあっていた町娘たちが、ふっと横を見る。彼女らの驚きの視線を無視して、ロトは白い犬の前に踏みだした。犬は、甲高い声を上げる。警戒しているというよりは、単に嬉しくて興奮しているふうだった。その犬の頭を、軽く手で押さえる。
「待て!」
ざわつく街が動きを止めるほど、鋭い声がほとばしった。それでも犬は収まらない。ロトはもう一度、待て、と命じた。今度はいくぶんか鋭く低い声で。
シェルバ人特有の鋭い目が細められる。深海の青が稲妻に似た光を宿す。犬はひるんだように体を震わせ、それからするりと前足を地面に下ろした。
「座れ」
少年が短く言うと、白い子犬は見本のようにきれいな『おすわり』を披露した。あたりから、感嘆の声がこぼれる。同時に、ロトはしかめていた顔をふっと緩め、子犬の頭を、そして顎のあたりをくりくりとなでまわした。犬は、喉を鳴らして、石畳を尻尾で叩く。
凍りついていた街が動きだした。そこへ、息を切らした飼い主が追いついてきた。
「しょ……少年、すごいね! ありがとう!」
ぜえぜえ言いながら声をかけてきたその男を、ロトはぎろりとにらみつけ、
「犬を飼うなら、責任持ってしつけしろ!」
怒声を投げつけた。男は殴られたあとのようによろめくと、「は、はい!」と、情けない声をしぼりだす。
ロトが、グランドル王国に来てはじめて、他人を本気で叱った瞬間であった。
「いいか。犬ってのは、人間をよく見てる。そして順位をつけるんだ。今、あんたは間違いなく、この犬に『自分より下』に見られてる。つまり飼い主でなく、下僕と思われてるわけだな。だからあんたの言うことをぜんぜんきかない。このままだとあんた、犬が死ぬまで下僕のまんまだ。こいつは子どもだから、今からしつけしなおせば、まだ間に合うと思う」
「は、はい。頑張ります」
「しつけるときは厳しく、そんで、言うことを聞いたあとはたくさん褒めてやるんだ。
白い犬が駆け抜けた通りの、ある民家の軒先。ロトはそこに飼い犬と飼い主を座らせて、「犬をいかにしてしつけるか」ということを、長らく男に語り聞かせていた。もともとすなおな性格なのだろう。男は、ロトのような子どもの言うことにも真剣な顔で耳を傾けていた。ひととおりをロトが話し終えると、彼は深くうなずいた。
「君、詳しいんだねえ」
「……家に、猟犬がいたから」
「へえ。猟犬と飼い犬じゃ、勝手が違うんじゃない?」
「でも、基本は一緒だよ」
顔をそむけたロトは、そっけなくこぼす。目の前で尻尾を振る子犬とは反対の、黒い猟犬の残像から目をそらす。彼の感傷に気づくはずのない男は、「そうかあ。そうだよねえ」と、またうなずいていた。それから、子犬の頭をぐりぐりなでる。
「ありがとう。頑張ってみるよ。この子とはいい関係を築きたいから」
ロトは、がんばれ、と平たんな声を投げつけた。しかし、「王都に出てきた僕の、数少ない癒しだからなあ」という言葉に、思わず振り返った。
「……あんた、王都の人じゃないの?」
すると男は、犬をなでる手を止める。
「まあね。先月、ヴェローネルから出てきたばかりなんだ」
「ヴェローネル」
「知らない? 西の大きな街だよ。大学やいろんな教育機関が集まっていて、学術都市なんて呼ばれてる」
ロトは、無意識のうちに身を乗り出していた。学術都市、という言葉に、無愛想な瞳が吸い寄せられる。それは知を追い求める魔術師にとって、ひどく甘美な響きに思えた。
少年が興味を抱いていることに気づいたのか、男は子犬を膝にのせると、ゆっくり語りだした。
「出てきた僕が言っても説得力がないかもしれないけどさ。いい場所だよ。ほどよく便利で、騒がしすぎず、何よりいろんな知識が得られる。図書館を自由に使わせてくれる大学や学校が多いからね。そんな街だから、外の国の人も多いんじゃないかな」
へえ、と、深く相槌を打った。ロト自身は、そのことにすら気づかないほど、真剣に男の話を聞いていた。
知識が得られて、外国人がまぎれこめる街。
『魔女の呪い』の研究をしたいロトや彼の幼馴染にとって、最高の場所かもしれない。自分の考えにひたりかけていたロトは、けれど、ふと顔を上げた。
「なんで、あんたはそのヴェローネルから出てきたの?」
浮かんだ疑問を率直にぶつけると、男はほほ笑んだまま「仕事の都合でね」と、呟いた。
「出世は出世なんだよ。喜ぶべきなんだけどさあ。愛すべき学問の都から、友達から、引き離されて。寂しいったらありゃしないってのー」
ロトの問いかけが男の
「じゃあなおさら、そいつは大切にしてやんなよ。ただし、甘やかしすぎないこと」
そうだね、ありがとう――と。犬から顔を離した男は、晴れやかな顔でお辞儀をした。
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