2 秘密と本

「帰ったよ」

 ルゼの声は、はりがなくても大きい。小さな家の中には、すぐ響いた。奥の方から煙のにおいがする。少し顔をしかめたものの、すぐいつものように、ルゼは家へと駆けこんだ。すると、珍しく父がいて、真剣な顔をして本を読んでいた。息子に気づくと顔を上げ、柔和な笑みを浮かべる。

「ルゼか。お疲れ様。今日の仕事はどうだった?」

 父のそばへ歩いていっていたルゼは、いきなりの質問に声を詰まらせる。もっとも教えたくないことを訊かれてしまい、つかのま戸惑う。けれど、嘘をついたところでなんの得もないし、ルゼの嘘など父や母はあっさり見破ってしまう。しかたなく、ルゼは、小声で答えた。

「……減点、一。くらっちゃった。新聞、言われた数を売れなくて」

「おや」

 父の声がわずかに裏返る。もうなんとでも言ってください、という心地で、ルゼはうつむいていた。が、少しして頭に温かいものが触れる。父の手は、ルゼの頭をくしゃくしゃにした。彼が顔を上げると、父はにっこり笑って言った。

「また、次、がんばればいいさ。――な?」

 穏やかにそう言われれば、自然とうなずいていた。そこへ、元気な声が割って入る。

「ルゼは消極的すぎるんじゃないかしら。もっと自分から売りこんでいったらいいんじゃない?」

「売りこむって……新聞を?」

「新聞を」

 ルゼは奥から出てきた母を見やって苦笑した。母は、見た目こそしとやかそうだが、実はとても気が強い。今も、緑色の両目に闘争心の光を爛々とたぎらせている。実際に売るのは母ではないのに。いや、だからこそだろうかと、ルゼはかぶりを振った。

「ううん、まあ、がんばってみる」

 ルゼは笑って答えた。

 それができりゃ苦労しないって――心をよぎった言い訳がましい一言を、奥にむりやり押しこめて。

 母は、「よし、その意気!」と拳をにぎって言うと、また台所にひっこんだ。いいにおいがしてきたから、今日はもう夕飯ができあがったのかもしれない。ルゼは、椅子をひいて父の向かいに越しかけた。両手にもった帽子をまんじりとながめたあと、読書にいそしむ父を見る。

「なあ」と言うと、父は顔を上げて首をかしげた。ルゼは、軽くかぶりを振って「なんでもない」と言いなおす。そのとき、外の方から甘い猫の鳴き声がした。気がついたルゼは、立ち上がる。風の吹きこむ窓を見やると、茶色の毛に白いまだら模様の子猫が顔を出していた。

「トリス!」

 ルゼは瞳を輝かせた。父も本を閉じて、手を振る。

「やあ、トリステス。散歩は楽しかったか?」

「なあなあ、父ちゃん。入れてやってもいいよな」

「もちろん。けど、目を離さないようにね」

 りょーかい、と元気よく言ったルゼは窓際に駆けよって、子猫を抱き上げた。同時に、今日の夕飯が卓上に並びはじめた。


 どうして、街の子どもたちはときどき、変な目でこちらを見てくるのか。

 訊きたかったが、訊けなかった。

 否。正確には以前、質問したことがある。

 そのとき母は、いつもどおり栗鼠りすのように両目をくりくりさせて、「なんでだろう」と言った。「ルゼは人に嫌がられるような子じゃないんだけどなー」とも、今日、消極的だと指摘したときと同じ調子で、言っていた気がする。釈然としなかったが、母の方は本当に知らないのだろうと思った。問題なのは父の方だった。父は、ルゼの訴えと質問を聞くなり、悲しそうにして一言、「ごめんな」と言ったのだ。

 なんで謝るんだ。何がそんなにいけないんだ。何をおれに隠してるんだ。

 少年の疑問は、ふくらみつづけている。

 

 ふくらんでふくらみきった疑問が弾けたのは、その日の夜だった。家どころか街全体の明かりが落ちて静まりかえったころ、ルゼはとうとう眠れなくて体を起こした。そばで丸まっていたトリステスが、不思議そうに見上げてくる。ルゼは目もとを手で覆い、ため息をついた。

「なんなんだよ、もう」

 いつもなら笑って受け流すこともできた。我慢しようと、思うこともできた。けれど今日は、今日に限っては、そうはならなかった。とうとうたえきれなくなったルゼは、音を立てないよう部屋を出ると、出口に置いてあった角灯をつかんだ。トリステスが後からととと、とついてくる。鳴き声を上げる彼を振り返り、ルゼは唇に指を当てた。

 家をずんずん進み、家の隅、床の板戸を慎重に開けた。太い梯子はしごに足をかけて、慎重に降りてゆく。冷たい空気が、容赦なくルゼの全身を突き刺してきた。地面に足がついたと感じたルゼは、梯子から手を放して、かわりに角灯へ火を灯した。そこに、トリステスがひらりと飛び降りてくる。高いところをものともしない猫が、少しうらやましくなって、ルゼはくすりと笑った。

「ええっと……あれは、どこにあるのかな」

 小さな我が家の地下室を、ぐるりと見回す。野菜や塩漬け肉が保存されているさらに奥、違和感を抱かせる木の箱を見つけ、ルゼは目をみはった。「あった」と、鋭くささやいて、箱に駆けよる。はやる気持ちをおさえて、箱をそっと開けた。中から古びた紙のにおいが襲ってきて、数冊の本が姿を現す。そのうちの一冊を手に取ったルゼは、装丁を優しくなでた。

 今夜、ルゼが落ちついていられなかったのは、この本たちの存在を思いだしたせいでもあった。父がときどき、懐かしそうに開いている本。けれどルゼは、一度としてそれを読ませてもらえていなかった。なぜか、いつも、この古本たちが自分から遠ざけられているような気がしてならなかった。だからだろうか、何かを隠しているふうな父親の姿と、結びついてしまったのは。

 ルゼは息をのんで、改めて本を見た。そして、驚いた。

「なんだ、この文字」

 表紙に躍っていたのは、まったく知らない文字だった。ルゼは読み書きが得意ではないが、まったくできないわけではない。たとえば、いつも配っている新聞に書かれていることくらいは、だいたい理解できる。なのにこの文字は、理解どころかどう読んでいいのかすらわからない。

「父ちゃん、これが読めるのか? すげえな……」

 あるいは、ただ単に見ているだけなのかもしれない。どきどきと、大きく響く心臓の音を聞きながら、ルゼはそっと本を開いた。黄ばんだ紙の上に走るのは、やはり知らない文字。そして、見慣れない絵や図形。そのひとつに目をとめたルゼは、あやうく叫びそうになり、口をおさえた。トリステスがみゃあ、とないたので、なだめる意味で頭をなでてやる。猫をなでながらも、目は本の方へ向いていた。

 円の中に、不思議な記号と細かい文字がびっしり描かれたもの。ぱらぱらとめくってみると、本のいたるところに似たような図形があった。

「これ、知ってる」

 本の中にある、そのものを知っているわけではない。けれど、ひと月前、ちらりと見たのだ。地下にある墓地の壁に刻まれた、大きな図形――

「魔術に使う、方陣」

 なんで、と問う声が、自然と口からこぼれていた。小さな指が、ざらざらした紙をなぞり、消えかかった方陣に触れる。

 そのとき――突然、方陣が光った。

 最初は見間違いかと思った。けれど、光は一瞬で、強くなった。ぎゃあ、と叫んだルゼは、本を手放し飛びのいた。全身の毛を逆立てたトリステスが、低く、大きな声で鳴く。その一声は、間違いなく家じゅうに響いただろう。すぐ、騒がしい足音が聞こえてきた。

「ルゼっ!!」

 怒声が空気を打った。

 そう思ったときには、ルゼは後ろから腕をつかまれていた。振り返れば、父がいた。

「父ちゃん……」

「何をしたんだ、答えなさい!」

 父の声は、今までに聞いたことのない厳しいものだった。

 父の顔は、今までに見たことのないほど怖かった。

 ぶるりと震えたルゼは、本を指さして答える。「ほ、本を開けて、あの図形、触った」

 古い本は――本の上の方陣から発された光は、いまだにやんでいなかった。稲妻のように細くなって、暴れ狂っている。まわりのものを壊す感じでないのが不幸中の幸いだった。それを見た父が、愕然として本とルゼを見比べる。そして、間もなく我に返ると、少年の細い腕を、ぐっとひっぱった。

「とにかくここから離れなさい」

 父が厳しくささやく。ルゼは、答えられなかった。

 血の気を失った唇がわななく。

「なんで」

 ルゼは知っていた。

 父が頻繁に本を開き、母もそばへ寄っていって、一緒になって見ていることを。息子に知られないようにと、気を配っていることも。二人ともが、本のページに何度も手を触れていることも。

 二人は平気だった。けれどルゼは、得体の知れない現象を引き起こした。

「なんでだよ」

 漏れ出た声は、今までになく低かった。それまでひたすら本を警戒していたトリステスが、少年を振り仰いだほどに。

「父ちゃんは、これを隠してたのか。ひょっとしたら母ちゃんも」

「ルゼ」

「なんで隠してたんだよ。言えばよかったじゃないか。本が危険だってことも、ちゃんと説明してほしかった。おれだって、受け入れられないほど、子どもじゃないよ」

 不安定に揺れる声が、まくし立てた。ルゼは、ほんのわずか、目を閉じる。

 月夜に列をなす猫の影。静謐せいひつな地下墓地。凄惨な昔を語る老人の背中。猫たちの、歌うような声。そして祈りと――いつも、さびしげな顔をしている青年の姿。

 ひと月前に目にしたものが、なぜかいっせいに、頭の奥で弾けた。この本が「何」なのか、この家が「何」なのか、唐突に理解した。

 父と、上からのぞく母を振り返った少年の瞳に、烈火がはしる。

「――魔術師であることは、魔力を持ってることは、そんなに恥ずかしいことなのか! 二人とも、そんなふうに考えてたのか!?」

 突然の少年の怒鳴り声に、両親がすくんだ。同時に、本の上で激しく躍っていた光がおさまる。濃い闇がじわじわと、地下室を侵してゆくなかで、ルゼは、父が息をのむ音を聞いた。

「違う、ルゼ、そうじゃないんだよ」

 父の言葉に、けれどルゼは首を振る。つかまれた腕を強引に振り払った。「もういいよ」と吐き捨てて、駆けだす。制止の声も聞かず、逃げるように家を飛び出した。


 街は今日も静かだ。空のむこうには星ぼしと半月が見えて。あとはすべてが安息の闇の中にある。夜風が髪をなでていくのを感じ、はじめて彼は、我に返った。家から離れてしばらく歩き、空家の軒先に力なく腰を下ろす。もう、どうにでもなれ、と思っていた。

 鳴き声が聞こえる。振り向けば、見覚えのある子猫がこちらへゆっくりと歩いてきていた。ルゼの足もとにたどり着くと、ひげをひくひく動かしながら、彼を見上げて小首をかしげる。

「トリス、ついてきたのか」

 顔をほころばせてささやいたルゼは、トリステスを持ちあげて、膝の上に乗せる。

「――何、してんだろうなあ、おれ」

 自嘲的に呟いた少年は、ぎゅっと、子猫を抱きしめた。

 トリステスは、何も言わない。鳴きもしない。大人しく、されるがままになっていた。ルゼはなぜか、胸を針で刺されたような気がした。

 

 ああ、出会わなければ、知らなければ。

 苦しむことも、悲しむこともなかったのに。

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