19.逢魔が時ー1


「それはそうと」

 と、急にアイードがいつもの調子に戻って話を変えてきた。

「殿下、今日、忙しいんじゃないです? こんなとこ来てていいんですか?」

「あ、いや、それだよ、それ」

 いきなり普段のちょっと抜けた感じのアイードに戻るものだから、ちょっと調子を崩しつつも、そういわれて思わずシャーは我に返る。

「夜に会議があるからさ、それをジャッキールのダンナに伝えに来たんだけど」

「あ、そういえばそうでしたね」

「そういえばって……」

 さらっと忘れていたようなことを言うアイードに、シャーは思わず絶句する。

「お前、知ってたんなら、メイシアに期待するみたいなこと言っちゃダメだろ」

「ありゃ、殿下、彼女と出会ったんです?」

 ちょっと責めるような口調でいうと、アイードがそれをするっと受け流しながら聞き返してきた。

「お前が匿ってたんだろ。オレには何の報告もなくさあ」

「あー、いや、まあ、そうなんですけどね」

 アイードは急に苦笑した。

「いやそのう、落ち着いたら報告しようと思ってたんですよ。今、大変そうなんで、お仕事増やすのもどうかなーって思いましてねえ。いや、何かと心労かかるでしょ?」

 歯切れ悪くいいながら、アイードは頭を掻きやった。

「あれー、でも、殿下、何も知らなかったんです?」

「知ってるわけないだろ。いや、メイシアのヤツどこに隠れてるのかなあって。お前が報告しないから」

「あー、いやあ、それはすみませんでした」

 アイードは軽々しく謝りつつ、

「んでも、ジャキさんには伝えてあったんですけどね。俺が匿ってることも、匿っている宿の名前も全部。いや、そこから聞いてて、てっきり殿下≪アナタ≫は知ってるモノと思っていました」

「何!」

 シャーは思わずむっとする。

 ジャッキールからもちろんそんなこと一言も聞いていない。あんなに心配して面倒も見たのに、自分には一言も話してくれていないのだ。

(あの野郎、そういうことはオレに黙ってるんだから)

 ジャッキールになんとなく怒るシャーだが、当人がいないので怒りのぶつけようもない。アイードにいったん話を戻す。

「でも、ダメだろ。夜に会議があるのに、メイシアにジャッキールと会わせる約束なんかさあ。今日なんかダンナ忙しくて絶対に会えないじゃないかよ」

「あーいや、その話なんですけど」

 アイードは人のよさそうな顔を向けつつ、

「どうせここ一週間ぐらい……、うちの叔父とハダート将軍が帰ってくるまでがヤマになりそうとか踏んでるんですが。ともあれ、今後忙しくなるじゃないですか。むしろ、これから長い期間会えないままもかわいそうなんでね。だから、今夜か明日がちょうどいい機会だと思ったんです」

 それでね、と彼はつづけた。

「で、今夜の会議、そんなに時間も早くないことですから、どうでしょう? 夕方に、俺の本宅で会わせるというのは?」

「夕方? 今日の?」

 アイードの提案にシャーは少し戸惑いつつ、

「しかし、時間そんなに取れないんじゃないかな。積もる話がありそうだろ」

「積もる話もあるでしょうが、その辺りのことは聞き分けてくれますよ。それに、会議ったって、ちょっと遅れてもゼハーヴ将軍が怒るだけでしょ。殿下もたまに遅れるじゃないですか」

 不意に適当なことをいうアイードだが、シャーも身に覚えがあるので、うむ、と唸ってしまう。

「ということで、ちょうど面識もできたことですし、殿下があの子を迎えに行ってあげてくださいよ」

「えっ、オレが?」

 シャーが思わずきょとんとする。

「お嫌ですか?」

「い、いや、嫌じゃねえけど」

 自分も何かと忙しいのだ。本当は今日は昼から一回宮殿にも戻った方が良さそうなほどなのに。

 アイードはにこりと笑い、

「まぁいいじゃないですか。あと一週間くらいは殿下も外でのんびり遊べなくなるかもしれませんし、今日は息抜きってことでね。その辺の細やかな調整は俺がしておきますから」

「でも、お前が行ったほうが良くないか?」

「俺は調整が色々あるんですよ」

 と、アイードはなにやら思わせぶりなことを言う。

「むしろジャッキールのダンナに直接迎えに行ってもらう方が早いんじゃないか」

「そういうわけにはいきませんよ」

 アイードは、ふとまじめな視線を向ける。穏やかな瞳に、かすかに宿る獣の殺気。

 人がいいだけの、ちょっとこじゃれたお坊ちゃん。普段のアイードはそんな感じで、今だってそんなほのぼのした空気に急に変えられて、思わず忘れてしまっていた。

 そう、さっきまでこの男は丁寧な言葉尻に、触れると切れるような鋭い気配をのせていたのではなかったか。

 思わずぞくりとしたのに気づいたのかどうか。アイードは、取り立てて表情も変えずにいった。

「今日はとにかく先に俺の屋敷に来てください。もし、万一メイシア=ローゼマリーが見つからなかったとしても、定刻には俺の屋敷に絶対にくることです」

「な、なんだ、それ」

 シャーは不気味そうに彼を見やった。アイードは、軽く微笑みながら、

「いやぁ、可能性の問題ですよ。あの子、何かとチョロチョロ外出しちゃうので。もし、迎えに行っていなかったら、それはそれで俺の部下が連れてくるようにしますんで。でも、ジャキさんとあの子の再会の際には、是非殿下も同席していただきたいんです」

 意図がわからず、シャーは怪訝そうに彼に視線を向けた。

「どういう意味だよ」

「そんなに深い意味はありません。その方がメイシアもジャキさんも気が楽かなーって思っただけのことですよ。ほら、殿下がいると、空気が軽やかになりますからね」

 とても軽やかとはいいがたい気配を漂わせながら、アイードはそんなことを言う。

「なんにせよ、ジャッキールさんにもそういう風に話を通しますから、ですから、夕方は必ず俺の屋敷にきてから、一緒に宮殿にいきましょう」

「そこまでいうならわかったよ」

 シャーがちょっと気おされつつ同意すると、アイードはにっと笑った。それから先は、いつものアイード=ファザナーだったのだが。

「わかっていただけて幸いです」

 そういって、彼は目の前の衣装箱の蓋をしめる。ばたんと音をたてて蓋はしまった。アイードはそれに鍵をかけず、ふらっと立ち上がる。

 その彼の手には、まだ例の剣、ステラ・マリウスが握られていた。アイードはそれを無造作に腰の帯に落とし込むと、シャーがいないかのように出口にまっすぐに向かった。

 シャーが声をかけようとした時、ふとアイードが入り口に手をかけていった。

「それでは、どうぞよろしく」

 ちらっと彼を振り返るアイードは、わずかに口の端に笑みをのせていた。

「待てよ、アイード」

 シャーが声をかけたが、アイードは無視して外に出ていく。

 シャーは慌てて後を追いかけようとしたのだが、

「おっ、それはいいのではないか?」

「い、いや、しかし、ちょっと派手では?」

 不意に場違いなほどのんきな声が聞こえて、シャーは足を止めた。

 隣の部屋。てっきり誰もいないと思っていたのに、いつの間にか人の気配がある。

 いや、人というか、この場合、だれであるか簡単に特定できた。

 ちらっと部屋をのぞくと、大柄の男が二人、様々な服をとなりにかけながら、あれこれ言い合っている。

 特に、ジャッキール。彼にしては珍しくセンスのいい服を着ている。どう考えても、一人で選んだものではなさそうだ。

「何やってんだよ、あんたたち」

 思わずそう声をかけると、二人がのんきにこっちを見た。

「おう、小僧。そんなところにいたのか」

「な、なんだ、いるならいるといえ!」

 さすがにファッションショー真っ最中のジャッキールは恥ずかしそうなそぶりを見せる。

「いや、それはオレが聞きたい。こんなところで何やってんだよ」

「何って、衣装合わせだ!」

 見てわかるだろう、と言わんばかりのザハークだ。

「いや、なんで衣装合わせなんだよ?」

「今日はなんぞ、お前のところで重要な会議とやらがあるらしいではないか」

「うん、そうだけど」

「ところが、コイツときたら、いつものダサイ服しか持っていないというからなあ」

「お、お前に言われたくない!」

 ジャッキールは妙にムキになりつつ、

「俺は今までもちゃんとした服装でそれなりの場所に出て行っていた。いつものでいいと思うのだが」

「しかし、人間第一印象が大切だからなあー。最初の一発目で、できる男度を出しておかないと、後々なめられるぞ」

 第一印象を一番気にしていなさそうなザハークがそんなことを言う。

「エーリッヒは、一度、なめられると壊滅的だからな」

「うるさい」

 痛いところを突かれるジャッキールだ。

「それで、カワウソのヤツに相談したら、ここに色々服があるというので出してもらっていたのだ。母屋の方におすすめのがあるというので、取りに行ってもらっていたんだぞ」

「え、そうなの?」

 さっき、アイードが屋敷の方から入ってきたのはそういうことなのだろうか。

「やはり、選んでもらったものが一番似合うだろう、なっ!」

「いやー、でも、意外と派手では……。こんなに装飾的なところはいらんだろう」

「黒いから大丈夫だろう?」

 そんなことをいいあう二人に、シャーは小首をかしげる。

「そういや、アレ、ダンナ、会議のこと知ってたの?」

「ああ、アイード殿に聞いたぞ」

(えっ、アイツ、さっき忘れてたみたいなこと)

 シャーが思わず不機嫌になるのをよそに、ジャッキールは告げた。

「そういえば、お前はなぜここに? 忙しいのではないのか?」

「いや、忙しいんだけどっ、忙しいけど、重要な会議の打ち合わせとか、あるからさ!」

 思わず腹がたって乱暴な物言いになるシャーだ。

「せっかく親切心で話にきたのに、どっかのオッサンがのんきに散歩とかいっちゃってさー。あー、腹立つったらありゃしねえ」

「お、おお、そ、そうだったのか?」

 さすがにシャーが怒っているらしいことに気付いたのか、ジャッキールがやや態度を軟化させる。

「そ、それはすまなかったな。いや、俺も色々忙しくて……」

「散歩が忙しいって? 本当、おめでてーな、ダンナは」

 シャーは辛辣にいいながら、ふうとため息をついた。

「まあ別にいいけどさー」

 ジャッキールは乾いた笑みを浮かべつつ、

「そ、それはそうと、お前はこんなところで何をしていたのだ? 隣の部屋で話し声が聞こえたが?」

「オレは、ちょっとアイードをみかけたから……」

 ザハークに尋ねられて、シャーは思い出したように外を見た。

 アイード=ファザナーの姿はもう見えなくなっている。

(アイツ、よくわかんねえなあ)

 シャーはため息をついた。

 それにしても、あの剣、ステラ・マリウスとかいう剣。

 アイードは、封印していた衣装箱からアレだけを何も言わずに持ち出していた。なぜ封印していたもののなかからさりげなくアレを持ち出したのだろうか。


 *


「なあ、そんなケチなこと言わずにくれよ。例のヤツさあ」

「なあに、タダでとはいわないさ。あ、そうだ、ついでに俺たちとちょっと遊んでくか。メシぐらいおごるからさあ」

 アーコニアは、目の前の男二人をみやりながらつくづくうんざりしていた。

 彼女の前にいるのは、傭兵の男二人。大男と優男の二人組。確か、ワズンとフルドとか言った。彼らはリリエスがメイシア=ローゼマリーと同時に雇った傭兵たちだった。

 彼らの目標はシャー=ルギィズではあったが、メイシア以外の連中は、ほかの任務も与えられている。リリエスが指示を何かとだしているので、アーコニアももちろん彼らのことを知っているのだが。

(なんなの、ゴミくずばっかりじゃない!)

 白銀のネリュームと別れて、薬草を購入して来ての帰り道。

 手提げ籠に雑草にしか見えないような乾燥した薬草の束を入れた、あまりにも色気のない姿。まあ、そもそも、目立たないようにと顔を隠した服装をしているのだから色気のない姿でも問題はないのだ。

 そのはずなのに別に話したくもない相手からすぐに正体がばれてしまうのはなぜだろう。目立たないようにしているのに。

(これも、リリエス様が仕事しないからだわ)

 日頃、上司であるリリエス=フォミカの人使いの粗さに辟易としているアーコニアだった。薬を作って管理して、ついでに部下の面倒も見させられて、買い物のお使いを頼まれ、それでもって自分が雇った兵隊との連絡役まで。

(薬草買うのはいいわよ。私の専門なんだし。でも、コイツらの面倒見させられるのはちがうでしょ!)

 ちょっとは、自分でやれ!

 アーコニアは、思わずそう思いながら、ふうとため息をついた。怒る気力がもったない。

 改めて目の前の現実に目をやると、到底、魅力もない欲望全開なだけの傭兵たち。

(くそう、同じ傭兵でも大違いだわ。コイツらももうちょっと顔がよかったらムカつかなくなるのかしらね。うーん……)

 アーコニアは、思わず現実逃避に先程のことを思い出すのだった。



「なあ、そんなケチなこといわずにさあ。今夜、色々大変なんだよ。例のヤツ、もっと渡してくれよ」

 

 先程も、アーコニアは、同じような問答をしかけられていた。

 周りにいるのは人相の悪い船乗り風の男たち。要するに、アーノンキアス配下の海賊たちであるが、ともあれ、リリエスがそっちともつながっているために、そっちとの連絡役も仰せつかっているアーコニアだった。

(いい加減にしろ、あのくそ上司!)

 ”アーコニアは、そういうの得意ですよね。私はそういう細かいの嫌いなんですよ。あなたが適当にまとめておいてくださいね。よろしくどうぞ”

 ほっほっほ、と中性的な笑みを浮かべながら去っていくあの男に、そのとき、アーコニアは本気で一服盛ろうと思ったものである。

 まあそれはともあれ。

「駄目よ。あれは劇薬だっていったでしょ? あんまりしょっちゅう使うと、依存しちゃって大変なことになるんだからね」

「だって、今夜色々あるんだよ。戦う前にアレがあれば、心強いからよ」

「それに、すかっとするもんな。大体、リリエスがあんたからもらえっていってるらしいんだよ」

「はあっ? なんですって?」

 この期に及んでリリエスはそんなことまで言っているのか、イライラしつつも、アーコニアはしょうがないとばかりに鞄から小瓶に入ったものを人数分渡す。

「いっておくけど、使いすぎると責任持たないわよ」

「はは、わかってるって」

「それにしても……」

 と、アーコニアは、少し怪訝な顔になる。

「今夜って何? 何かあるの? きいてないわ」

 最初は、テッキリ女とでも遊びたいから薬をよこせと言われているのだと思っていた。だが、どうも違うらしい。

「お、リリエスから聞いていないのか。今日は”作戦”があるんだよ」

「作戦?」

「ちょっとした襲撃っていうやつだ」

「襲撃?」

 そこまできいて、アーコニアはぴんときたらしく、

「なあに。陽動作戦的なものでもあるわけ? あなたたちが襲える場所なら、アイード=ファザナーの管理関係の場所かしらね」

「陸の上は専門外だし、ファザナーは元から敵なんだよ。海賊に対する監視はアイツの仕事だからな」

「なるほどねえ。うちの上司とあなたたちの上司の利害が一致したってことかしら」

 と、ふと思い出してアーコニアは小首をかしげる。

「そういえば、あなたたちのところ、ダート=ダルドロスがいるんだったわね。彼もそれにかかわるの?」

「お、ねえちゃん、興味があるのかい?」

 男が面白そうな顔になる。

「別に。ただ、なんか有名な人なんでしょ。しかも、何年も行方不明だったっていう。良く今更でてきたなって」

 ふふふ、と男が笑う。

「確かに連中は参加するぜ。とはいっても、アイツらは腰抜け揃いだからなあ。戦力には期待してねえよ」

「でも、評判だけなら、あなたたちのところの親分よりいいんでしょ」

「そりゃあ、うちのタコ坊主みたいな親分とは比べてもさあ」

「あんまり大きな声じゃいえねえが、何せ、”緋色のダルドロス”だからな。うちの親分なんかよりよっぽど強いし、男っぷりも上に決まってるだろ。一回見たことがあるからよ。すらっとしててシャレててさあ、腕もたつし、度胸もあるし」

 海賊達がそんなことをぶっちゃける。

「顔は隠しててわからなかったが、まあどっちにしろうちの親分より男前なのは間違いない」

「おいおい、怒られるぜ。全部本当の話だけになあ」

「だが、それも昔の話でな。今のダルドロスはすっかり様変わりしちまってるしさ。大体表にでてこねえんだよ」

 別の男が話を継ぐ。

「もともと、ダルドロスは部下が少ないのもあって、結構自分が表に出てきてたんだよな。交渉とか何かとうまくてよ。だけど、今出てきてるのはヤツの片腕の”玄海の狼”こと狼のターリクって男でな。アイツじゃ、何かと足りねえんだよねえ」

「なんで本人が出てこないの?」

「さて、それが問題だよな」

 男の一人が楽しそうに言った。

「果たして、今のダルドロスってホンモノなのかどうかってハナシ。実は俺たちは賭けしてるんだよな。アイツが本人かどうか」

「そうそう。アイツ、現役の時から顔を隠してたけど、今のダルドロスは、それにしても隠しすぎだろ。第一、ダルドロスは、昔、ラーゲンの大親分と抗争した時、うちの親分にボッコボコにされたことがあるらしいんだよな。それからすぐに死んじまったって噂だったんだ。でもまあ、生きてるとしてもさ、いくら船がとられたからって、昔、手酷くやられた相手にホイホイ頭下げてくるかなあって……」

「船?」

「ダルドロスが昔乗っていた船さ。停泊してるだろ、ココに。”紅い貴婦人”っていう船で、ダルドロスが死んだって後に行方不明になってたんだが、小さな港町で売りに出てるところ、うちの親分が買い取ったのさ。そうすると、それに気付いたターリクと一味が慌てて交渉にきたっていうから笑える」

「それじゃ、ダルドロス一行は、船を返してほしくて手伝っているってことなの?」

「簡単に言えばそういうことさ。だが、もう手放してずいぶん経つんだぜ? 本人が無事なら、今更躍起になるとか、なんか怪しいよなあって」

「ふーん、それもそうね」

 アーコニアは少し興味をひかれたらしい。

「そういえば、ダート=ダルドロスってなんか変な名前ね。どうせ偽名に違いないんでしょうけれど、何か意味があるの?」

「ああ、そのことか。ダートってのは北部ザファルバーンの言葉で”四”のことだろ」

「ええ、確か、そうだったわね」

 うなずくアーコニアに男が続ける。

「あの男にはちょっとした特技があったんだよ。それにまつわる名前だ」

「特技って?」

 彼はふと短剣を一本手にすると、それを人差し指に挟んだ。

「短剣や投げ矢をこうやって構えて投げて的に当てる遊びがあるだろ。だが、たまに複数本を同時に投げる大道芸みたいなことができるやつがいる。その男もそうだった。あいつはただうまいだけじゃなく、四本の短剣を同時に投げて、すべてを狙いの的に当てるっていう名人芸があったのさ。で、その国の言葉の遊びの名前を、ききまちがえから少しもじったんだとよ」

「意味はだから四本の短剣とか、四本の投げ矢とか。やつも現役のころは、そういう旗を目印にしてたもんさ」

「へえ、意外。そんな意味なんだ」

「なんだ、興味があるのか?」

「まあすこし……。あまり太内海西岸のことは知らないのよね」

 アーコニアが素直にそう認めると、そうか、と男がなれなれしく肩に手を置いた。

「ちょっと付き合ってくれるなら、話してやってもいいぜ」

 下卑た笑みを浮かべる男に、アーコニアはきっとにらみつけてバシッと手を払う。

「冗談じゃないわ。私は忙しいのよ」

「おっと、つれねえな。忙しいって、その雑草みたいなやつを持って帰る仕事かい?」

「雑草って失礼ね、これは……」

 といいかけたアーコニアの手から、男の一人が籠ごと薬草をひったくった。

「ちょっ、返して! 何のつもり!」

「あっと、手が滑ったー!」

 男がそう叫ぶと、さっと籠ごと空中に投げた。近くには橋があって下には運河が流れているのだ。籠は運河の方に落ちていく。

「あああーー! な、何するのよ!」

「ははー、悪いな。ねえちゃん。また頼むぜ」

 そういって男たちはアーコニアをからかいながら帰って行った。

「ちょっと、マジでなんなのよ! アレ、結構高いんだからね!」

 アーコニアは、橋の欄干に駆け寄った。

「あー、落ちちゃったかなあ」

 半分あきらめながら下をのぞき込んでいる

 と、橋の欄干の下の方に籠が引っ掛かっているのを見つけた。どうやら中身も飛び出ていないらしい。

「あ、良かった。でも、とれるかしらね」

 欄干から身を乗り出しても、アーコニアの背丈ではかなり腕をのばさなければならなさそうだ。とにかく、手を伸ばしてみる。

「うーん、もうちょっとなんだけど……」

 アーコニアはぎりぎりのところまで身を乗り出してみた。手を伸ばすと、あと指先一つぐらいのところまで近づいている。

 よし、と思ったとき、不意に声が聞こえた。

「な、何をしている!」

 へ、と怪訝に思った瞬間、男が一人走り寄ってきて慌ててアーコニアを引き上げた。

 きょとんとしているところに、黒い服を着た男が慌てた様子で口を開く。

「何をしているのだ。見ればまだ若いようだが。いや、何があったか知らないが、あたら若い身でこんなところで……」

「へ、いや、私はただ、その籠を……」

 どうやら身投げと勘違いされているらしい。顔を上げてそう否定しようとしたところで、男の顔が視線の先にあった。顔が近い。

 長い睫毛、切れ長の目、少し薄い色の瞳、高く整った鼻梁。

 アーコニアはまじまじと顔を見ようとして、ぎくりとした。

「ああ、もしや落としたものを取ろうと?」

 聞き覚えのある声。男がきょとんとした様子で彼女を見た。

「ひゃ、ひゃい!」

 思わず声色を変えなきゃと思ったことと、心の動揺から変な返事をしてしまう。

 心持ち離れたところで背の高い彼を見上げて改めて観察したところで、アーコニアは目の前の男の正体に気づいて余計に動揺した。

(うわわわわわー、エーリッヒだぁあああああああ!)

 そう、目の前にいる男。聞き覚えがあるような気がしたのも、気のせいではない。

 目の前にいるのは、例の傭兵ジャッキールに違いなかったのだ。

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