9.黄昏に浮かぶ甘い夢


 彼は、ネズミと呼ばれるのが本当は嫌いだった。

 ネズミなんて、汚い場所をちょろちょろと歩き回って食べ物を盗む。猫なんかの天敵に怯えながら暮らしている小さな汚い動物だ。自分が、時折そんな風に、父の正妻たちから陰で呼ばれているのを知っていた。

 いつまで経っても大きくならないね、あの子ネズミは。ちょろちょろと本当に目障りだよ。

 あんな汚い子ネズミなんて、海で溺れて死んでしまえばいい。

 けれど、彼は言ったのだ。

「ネズミっていうのは、本当に怖い生き物だ」

 そんなことを言う緋色のダルドロスは、別にからかった風もなかった。

「なんでも食っちまうし、病気をまき散らしもするし、放っておくと凄い勢いで増えちまう。本当に恐ろしいもんさ。しかし、全く船にいなきゃそれはそれで怖くてな。ネズミが逃げる船は必ず沈むって昔っから言うんだ」

 さらに、海を見ながらダルドロスは言った。

「東の国には、象の顔をした神様がいてな。結構人気のある神様なんだが、乗り物がネズミなんだ。ネズミを押さえつけられる力のある神様っていうことなんだよ、それは。それほど、ネズミっていうのは怖いものなんだ」

 目を瞬かせている彼の肩に手を置いて続けて言った。

「だから、なんて呼ばれても気にすんな。お前も、いつかそんな怖い男になるってことなんだ。今お前を馬鹿にしている奴が、知らないだけのことなんだから」

 不意に強い風が吹いて、ダルドロスの帽子を揺らした。あっと彼が声をかける間もなく、ダート=ダルドロスの帽子は彼の頭巾と共に海風にさらわれていった。

 淡い緑の煌めく海と白い帆の間に、彼は別の色彩を見ていた。


 *


「さあ」

 川辺の緩やかな風に、男の赤い髪が揺れる。

 ゼダはふと我に返って目の前の男を見た。アイード=ファザナーは静かに続けた。

「よかったら聞かせてくれよ。ネズミのボーヤ」

 アイード=ファザナーは、少しいつもの彼と違った雰囲気を身に纏って夕暮れの川辺にたたずんでいる。かすかに小首をかしげるようにして視線を向けるのは、いつも通りの穏やかさに他ならなかったが、その視線を向けられたゼダに明らかに回答を迫っていた。

 シャーはまだ身を潜めて様子をうかがっていたが、目の前で繰り広げられる場面にやや面食らってもいた。

 アイードも七部将の一人。常識人で苦労人で、そのくせにサボリ癖があって頼りない男ではあったが、しかし、決してそれだけの男ではないとは知ってはいる。そんな男なら将軍の地位を守っていられないからだ。だが、それにしても、こういう表情はあまり見たことがない。

 何故だ。不思議な威圧感がある。今の彼には。

 こんな威圧感のある彼を見たのは初めてだ。

「そ、そりゃあ……っ、かっこよかったからに決まってるだろ」

 ゼダが、その静かな迫力に思わず口を開く。

「それに、ただかっこよかっただけじゃねえよ。強かったし……」

「でも、今じゃお前さんのが強いかもよ? カッコイイってのも、奴は結構伊達男気取ってたせいもあるしさ。義賊って言われてたけど、ただ不殺掲げて私掠してたら義賊扱いされただけってこともある。そんな奴はゴマンといるぜ」

「そういう問題じゃねえの!」

 ゼダはアイードを睨みつつ言った。

「見かけとか、実際に強いとかそういうんじゃないんだよ。……オレが知ってるダルドロスは、すげえ優しい男だった」

「優しい?」

 アイードは鸚鵡返しに尋ねる。

「そうだよ。優しい人だった」

 そういってゼダは立ち上がる。視線の先に夕陽に輝く川面が見えていた。

「オレだって船主の息子だから、海の男は何人も見ているさ。その中には男気があってかっこいいなあっていう奴はたくさんいた。けれど、ダルドロスは奴等ともちょっと違った感じだった。あんな奇妙な服装をシャレた感じに着こなせていたっていう伊達男さもあって、でもって強くて、どことなく上品で。それでもって優しかった」

 ゼダはため息をついた。

「あの時、オレなんかただのチビの無力なガキだったが、あの人はそんな俺を励ましてくれた。別にあの人ぐらい強かったら、オレみたいな奴のこと、目に留める必要なんかなかったのにだ。オレは、軍隊に参加してないから、著名な英雄とかあったことないけど、本当の英雄とはこういうものかって思ったんだ」

 アイードは、ふっと笑った。

「そっか。はは、確かに世の中にはもっと一杯カッコイイ奴もいるかもしれないのになあ」

「でも、オレには一番の英雄だったんだ」

 むっとした様子でアイードを睨むゼダは、ふと憤るような口調になった。

「だから、今回の件は絶対、偽者に決まってる! 絶対それを暴いてやるんだ」

 ゼダは急に深刻そうな顔になった。

「偽者?」

 きょとんとして尋ねるアイードに、ゼダは頷いた。

「ダルドロスは海賊だったけど、現役の時だって義のない悪事は働かなかった。……そんな小悪党の密入を手伝うようなことなんてしねえよ。河岸で噂集めてみた。確かに、ダルドロスの噂がちょっとあって……、でも、運んできたのは理由のありそうなやつじゃなくて、ロクでもねえ奴だったみたいな話しかきかなかった。ダルドロスも落ちたもんだってさ……」

 ゼダは少しだけ不安そうなそぶりを覗かせたが、すぐに顔をあげる。

「でも、絶対に偽物だ。ダルドロスを見たってやつに聞いたけど、その特徴聞いただけで俺にはすぐにわかる」

「え? なんでだよ。ダルドロスって、覆面してたって話だろ。顔わかんねえんじゃないのかい?」

 きょとんとしてアイードは小首をかしげる。

「オレは見たことがあるんだよ。顔」

「えぇっ? マジで?」

 アイードは意外そうに声を上げる。

「一瞬だけだったけど、でも、本物か偽物かぐらいはわかる! 絶対的特徴があるんだ」

「そ、そっか。そりゃあ、たのもしいねえ」

 アイードは苦笑して、

「でも、ちょっとは不安なんだな。そんな感じの顔してるぜ。ガキの時に信じていた英雄が、本当は小悪党だったんじゃねえかって、ちょっと不安になってるんだろう?」

 アイードは首を振った。

「いやだよなあ。大人になるって……。ガキの時にはわからなかったそういうのが、何かとわかっちまう」

「別にそんなんじゃない」

「いーんだぜ。俺がそう思っただけだから、あんたが不安じゃないっていうならそうだろう。ただ、俺はそういうことがあった。ガキの頃、憧れをもってた相手に幻滅させられるってことも、大人になるとよくあることだ。でも、……ガキの頃の憧れた気持ちまで否定することはないんだぜ」

 ゼダが見上げると、アイードは軽く頷いた。

「その時、感じた憧れは別に嘘でもなんでもないんだからさあ」

 振り返り、アイードは言った。

 風のある夕方。空に髪の毛が赤くたなびき、別人のようにのびやかに彼はにやりと笑う。その色は何かを思い出させそうなほどに鮮やかに目に映る。

「ま、緋色のダルドロスが、お前さんを幻滅させるような男かどうかは俺は知らねえけどな。お前が偽物だって思うなら、しばらく信じておいてやんな」

 ゼダはしばらく彼を見上げていたが、ふと呟いた。

「あんたさあ……。ひょっとして、関係者の人?」

「え? 関係者? なんで?」

「いやその……」

 と急にゼダは口ごもる。アイードはあくまで静かで穏やかだ。

「……いや、なんでも」

 苦笑してゼダは立ち上がった。

「あんたもちょっと変わってるよな。なんか、カワウソって呼ばれてるの、わかる気がするぜ」

「もうちょっといいように言って欲しいもんだな」

「無理だろ。……ま、いいや。また、アンタの店寄せてもらうよ。じゃあな」

「そりゃあありがたいね。うちの店儲かってないから」

「もうちょっと努力しろよな。店もあんたも存在感なさすぎなんだよ」

 ゼダはそう毒づくとにやりと笑って立ち去っていく。川面に涼しい風が吹く。その風はどこかしら海の香りがするようだ。

「まったく、厄介な人ばっかりだねえ」

 ゼダの背中が見えなくなって、アイードがため息をつく。その時、いきなり肩を掴まれてびくりとする。

「話終わった? カワウソ兄さん」

 いつの間にか、シャーが茂みから出て背後にたたずんでいた。

「な、なんです? いきなり。やめてくだいよ」

「それはオレがいいたい。何やってんだよ、こんなとこで」

「そ、それこそ、こちらの台詞ですけどね」

 シャーに呆れたように声をかけられて、アイードは苦笑した。

 すでにゼダは去って行ってしまっている。シャーはもはや遠慮のない口調だ。

「オレさあ。自分が自分だから、あんまり偉そうには言うつもりないんだけどよ、アンタ仕事あるよね?」

「えええ、あああ、まあ、これも仕事の一環でしてね」

 冷や汗をぬぐいながらアイードは言った。

「で、殿下こそ、お人が悪いなあ。知ってるなら、声をかけてくれればよかったじゃないですか」

「それはアンタにも言いたいね。アンタ、最初からオレがココにいること知ってたんだろ」

 そう指摘されて、アイードは開き直ったように笑いだす。

「い、いやあ、はっは。バレましたかね?」

「あたりめえだろ」

 シャーは憮然とした。

「オレの話するときに、声がでかくなったクセに。わざとだろ、あれ」

「い、いやあ、そういうわけじゃあ……」

(しまった。思わず聞えよがしに言っちまってたか)

 アイードは気まずそうに苦笑する。

「いや、俺も、殿下の前でネズミの子とこういう話をするつもりはなかったんですが」

「その殿下ってのやめろ!」

 シャーが間髪入れずに突っこみ、睨み付ける。

「ソレ、他人に聞かれると七面倒なことになるって言ってるだろ?」

「す、すみません。いや、呼び慣れてないものですから……」

 珍しく本気でにらんでくるシャーに、アイードは慌てた様子で弁解する。シャーは拗ねたように皮肉っぽく口をゆがめる。

「いーんだぜ。陰じゃオレのこと三白眼のボーヤってんだろ。いーぜ、ボウヤって呼べば?」

「そ、そんな畏れ多いことをおっしゃって……」

 アイードは、再び冷や汗をぬぐいながら苦笑した。

「で……じゃなかった、そりゃそうと三白眼の人は、どうしてこんなところにいらっしゃったんです? もしかして、ジャキさん探していらっしゃるとか?」

「事情はお前も知ってるだろ。オレは寧ろなんであんたがここにいるかを知りたいね」

 いまだに冷たい視線を浴びせてくるシャーだ。これはマズイと思ったのか、アイードはごまかすように笑う。

「い、いや、俺もお仕事ですって。ダルドロスの件と侵入した不審者の件、調べるって言ってたでしょ? 部下に任せておくのもいいんですけどね、あの通り、特にゼルフィスなんかはやることが派手で情報収集に向かないんですよ。で、俺の方が逆にいいかなあって……」

「で、なんか情報わかったのか?」

「その辺は後でまとめてご報告しますけど。まあ、ぼちぼちと収穫はございますよ」

 本当かよ、とシャーが疑いの目を向けるが、アイードはもはやその視線に取り合わない。

「そりゃそうと、俺は今から一ッ風呂浴びに行くんですが、一緒にどうです?」

「何のんきなことを。オレはなあ、あの陰気な顔の旦那探すので忙しいの。んな、のんびり風呂入ってる暇なんざねえんだよ」

「いや、そのこともあって、風呂にいくんスよ」

「はあ? なんだそれ?」

 シャーが素っ頓狂な声を上げる。

「あれ、そっち探してないんです? いや、俺はあの人とは短い付き合いですけどね。あの人、凄い綺麗好きじゃないですか?」

「ああ、まあそうだけどさ」

「ですからね。いくら気が焦ってるっていっても、身ぎれいにしてないわけないんですよ。根性で断食できても、不潔なままで二日とおれないでしょ、あの人。今の王都からは出るのも大変だし、王都にいるんだとしたら、質のいい銭湯があっちこっちにあるわけです。そんな環境で不精なことはしないでしょうからねえ」

 シャーは思わず絶句する。

「そんなわけで、ここんところ方々の銭湯で話きいてたんですよね。そしたら、どうも目撃されているらしいので、ちょっと探りを入れてみたというか……」

「そ、そうか……。いわれて見りゃ確かにそうだ……」

「で、どうです? 一緒に行きませんか?」

「そ、そうだな。じゃあ、行ってみるか」

 シャーはにやにやしているアイードに、ちょっと悔しそうにしながら同意しつつ、

「でもよ、なんでお前がダンナのこと調べてるわけ?」

「そりゃあ、その……。俺も事情きいちゃったですし。結構気の合うお客さんだったんで……」

「それ、本職と関係ないじゃん……」

 シャーは、髪の毛をかきあげながらため息をつく。

「まあいいけどさ……。本当に、カワウソ兄さん、緊張感ないっていうか」

「俺としちゃ、あなただけにゃ言われたくないんですけどね」

「アンタよりマシだよ」

 シャーは、ブツクサいいながらアイードの後を歩く。

 目の前の彼はすでにいつもの頼りないアイード=ファザナーだ。

 沈む夕陽の赤い色に溶け込むような髪をたなびかせ、彼は何でもないように長身をゆらめかせて歩く。七部将きっての常識人だが、同時に軍人らしくもない。彼はその目立つ姿と裏腹に、地味で堅実な男だった。

 だけど。

(でも、なんだったんだ。さっきの……)

  シャーは、ふとゼダの前で見せた彼の表情が気になっていた。しかし、それを目の前の彼に尋ねたところで、明確な答えは返ってくるまい。


 *


 太陽がすっかり傾き、空が徐々に赤くなりつつあるのをメイシアはしょんぼりと見上げていた。

「あー、とうとう夕方になっちゃった……」

 一通り歩き回って、ようやくにぎやかな通りに出たところだったのに。大通りでメイシアは途方に暮れていた。

「色々楽しかったのは楽しかったんだけど」

 と、メイシアはため息をついた。

「川沿いにすごくきれいな場所は多かったし、何だか古い建物とか見て楽しかったけど、お目当ての可愛いもの売ってるお店にたどり着かなかったなあ」

 観光はしたけど、求めていたのはこれではないのだ。メイシアは腕組みした。

「あたし、もしかして方向音痴なんじゃないかしら……」

 そういえば、今までいたところは割と田舎ばかりだった。都会と言っても地方都市だったし、こんな大きな街に来たことはなかったのだ。

(このまま、隊長に会ったら、田舎娘って思われちゃいそう)

 そんなことを考えて、メイシアはもう一度ため息をつく。

(今日は帰ろうかなあ)

 リリエスにバレて探されていたら面倒だし、ちょっと疲れてしまった。そう思って踵を返そうとした瞬間、

「ふふ、お散歩は楽しかった? メイシア=ローゼマリー」

 不意に声をかけられてメイシアは、どきりとして顔をあげた。

 そこには、まっすぐな長い髪を下ろした白衣の少女がたたずんでいる。けれど、どこかで見た気がした。相手も間違いなく自分を知っている。メイシアは少し警戒した。

「あなたは? どうしてあたしの名前を?」

 そう声をかけると、少女はくすりと笑った。知的で静かで、年齢より大人びて見える。少し目が細いが、なかなかの美少女だ。彼女は長い髪をかきやって笑った。

「あら、私の事覚えていない? リリエス様の傍にいたのよ。私」

「あ! あの時の覆面の子?」

「ええ」

 少女は頷いた。そういえば、リリエスの傍に何人か護衛らしき付き人がいた。男は複数人いたが、女は彼女だけだった気がする。少女はにこりと微笑んだ。

「私はアーコニア。ニアでいいわ」

「ニア、ちゃん?」

 メイシアがいうと、そう、と彼女はため息をついて腕組みをする。

「メイシア。リリエス様が一人でふらふら出歩いては駄目と言っていたのに、あなたも仕方がない人ねえ」

「それはごめんなさい。でも、ちょっと暇だったし……」

 メイシアは悪びれずにかすかに舌を出す。

「ふふふ、いいわ。リリエス様には黙っておいてあげる。でも、何が目的だったの? 観光?」

「えっと、それもあるけど……、可愛い服とか売ってるお店に行きたいなあと思って……。でも、あたし、この街の事何にもしらないから、結局見つけられなかったの」

「ふふふ、なあんだ。そんなことなら、私に聞いてくれればよかったのに」

「え、ニアちゃん、よく知ってるの?」

 メイシアが尋ねると、アーコニアはくすりと微笑んだ。

「ええ、もちろん。この街には何度か来たことがあるからね。……もしよければ、案内してあげましょうか? ここから近い場所にあるのよ?」

「本当! あ、でも、もう今日は遅いから、お店もしまっちゃってるわよね」

「ふふふ、大丈夫よ。ここは大都市カーラマンだから。日没まで開いているお店もあるわ」

「本当に?」

 メイシアは目を輝かせた。

「わあ、嬉しい!」

「それじゃあ行きましょうか。今すぐ行けばまだお店は開いているわ」

 アーコニアはメイシアの手を取る。そのまま、彼女は大通りから路地へと彼女を連れて行く。


 *

 

 夕暮れ間近で客足は少なくなっていたが、その通りはまだにぎわっている。

 そこには女物の古着や小間物が多く売ってあり、客のほとんども女性客が多い。中にはまだ少女といっていいぐらいの年齢の娘も多い。

 彼は、ずっとその通りの裏でたたずんで何かを待っていた。しかし、どれだけ待っても彼の求めるものは現れない。疲労の色を顔に浮かべつつ、彼は勇気を出して通りにそっと出てみていた。

 目の前に数名の少女たちが談笑しながら歩いているのが見えた。

「あ、ああ、ちょっと。すまない。ききたいことがあるのだが……」

 道行く少女にぎこちなく声をかける。声をかけた少女たちが、彼を見て警戒している様子なので、男は慌てて苦手な作り笑いを浮かべた。

「いや、人を探しているのだが、見かけていないか教えていただけないか?」

 男が意外と紳士的なので、少女たちはふと警戒を緩めた。それを見計らって彼は尋ねた。

「メイシアとかローゼマリーという名前の少女を知らないだろうか。おそらく、同じぐらいの年頃だと思うのだが……。髪は栗色をしていて、目の大きい娘で……」

 少女たちは顔を見合わせる。

「うーん、知らないわね」

「そんな珍しい名前の子は聞いたことないわ」

「そ、そうか。いや、足を止めてすまなかった。ありがとう」

 彼に礼を言われて、少女たちはいえいえと笑いながら去っていく。その背中を見送りながら、彼は疲れたようにため息をついた。

「雲をつかむようなものだな」

 彼はつぶやいた。

「俺は、今のあの子の姿がわからないというのに。誰かに尋ねて何になるんだ……」

「ジャッキールさん」

 突然、声をかけられて、彼ははっと振り向いた。

「リーフィさん」

 そこに立っていたのは、見覚えのある美しい娘だった。酒場から抜け出してきたらしく、仕事用の服を着ている。どうやら買い物の帰りらしく、持っている籠から野菜が飛び出ていた。

「ここにいたのね? シャーや蛇王さんが見つけられないわけだわ」

 リーフィはにこりと微笑んで、驚くジャッキールに対峙した。

「もしかしたら、ここにいるのでないかと思って、酒場で頼まれて買い物に出たついでに立ち寄ってみたのよ」

「な、何故、俺がここにいると?」

 そう尋ねられ、リーフィは小首をかしげて答える。

「私も、確証はなかったのだけどね。ジャッキールさんの探しているのは女の子だってきいてたから……。ここは女の子の好きそうな可愛い雑貨を売る小間物屋が多いの。王都を訪れた年頃の旅行者はよくここに立ち寄るわ。前に、ジャッキールさんと市場に買い物に行ったとき、一緒に立ち寄ってもらったことがあったから……」

 リーフィは頷いた。

「シャーや蛇王さんが血眼で探してるのに見つからないって、何だか変だなと思ったのよ。だから、全然違うところに行ってるんじゃないかって……」

「なるほど」

 ジャッキールは苦笑して首を振った。

「ははは。どうもリーフィさんには、参ったな」

 ジャッキールは自嘲的に笑ってため息をついて、道端の店を見た。珍しく優しい目をしたまま、彼は言った。

「昔、あの子、ローゼに、可愛い髪飾りが欲しいとねだられたことがあってな……。彼女は光物に目がなくて、土産に何か買ってやるととても喜んでいた。だから、まだ、彼女がこんなものが好きなのではないかと思ってしまって……」

 ジャッキールは懐から布を取り出して開いた。そこには、薄紅色の貝細工の髪飾りがのっていた。

「……俺にとっては、あの子はまだあの頃のままだった。ローゼが、本当にあの三白眼の命を狙ったのだとしたら、調べるべき場所はここではなかったのかもしれない。もっと、地下組織と繋がっている場所を探した方が、本当は効率が良かったのかもしれない。……だが、俺の知っているローゼなら、そんなところを探してもいないと思った。ここにいれば、彼女はいつかここに来るのではないかと、そんな風に思ってしまった……」

 ジャッキールは苦笑した。

「ははは、俺も甘いな。もう五年も経てば、ローゼだって大人だ。いまだにこんなものが好きかどうかもわからない。もしかしたら俺のことを、憎んでいるかもしれない。それでも……」

「ジャッキールさん、その子のことが大切だったのね」

 ジャッキールはため息をついた。

「俺には、家族というものがいなかったから……。しかし、俺に年の離れた妹というものがいたら、こういうものなのではないかと思った。戸惑いもしたが、それ以上に素直に可愛らしかった」

 うつむきながら彼は首を振って苦笑した。

「だが、それは一時の楽しい夢だ。蛇王に言われなくても、俺みたいな人間が彼女のような子に関わってはいけないというのも、本当はわかっていた。だから、彼女にはカタギとして幸せになってほしかった……」

 ジャッキールはそういって顔をあげた。

「どうやら、リーフィさんや奴等には、要らぬ心配をかけてしまったようだな。俺は大丈夫だからと伝えてくれないか?」

「ええ」

「それと、もし……」

 と、ジャッキールは少しためらいがちに声をかけた。

「後で良ければ、話を聞いてくれないか? いや、一人で悩んでいても無駄だなと思ってな。女の子のことでもあるし、リーフィさんにも相談させていただきたいのだ」

「ええ、私でお力になれるなら喜んで」

「ありがとう」

 ジャッキールは微笑んでいった。

「俺はもう少しだけここでローゼを探してみるつもりだが、後で酒場に寄せていただく」

「ええ、そのときぐらいならシャーや蛇王さんも来ていると思うから。二人とも、心配してるから顔を見せてあげてね」

「わかった」

 ジャッキールの返事に頷いて、リーフィは言った。

「それじゃ、私、酒場に戻るから。後でね、ジャッキールさん」

「ああ」

 リーフィはそれを見ると安心したように、立ち去っていく。ジャッキールはその背中を見送り、もう少しここで様子を見るつもりになったのか、再び壁を背にして立っていた。

「あの……」

 と、ふと声をかけてくるものがいた。

 見ればそこにいるのは、少女だった。長くまっすぐな髪をした綺麗な娘で、メイシアと同じぐらいに見えた。

「何か?」

 怪訝そうにジャッキールが尋ねると、彼女は言った。

「聞いていたんですが、人をお探しなのですか? もしかして、私、その子を知っているかもしれない」

「何?」

 少女は微笑んでいった。

「お探しなのは、メイシア=ローゼマリーっていう名前のコでしょう? それなら、私、知っているわ」

「本当か?」

 ジャッキールは、膝をかがめた。

「もしかして、あなた、ジャッキールさん?」

「あ、ああ。そうだが」

 いきなり名前をいい当てられてジャッキールが驚くと、彼女はくすりと微笑んだ。

「やっぱりそうなんだ。いえ、メイシアから聞いていたの。……彼女も貴方に会いたがっていたから……」

「彼女は、ローゼは今どこに?」

 ジャッキールは焦る気持ちをおさえながら尋ねる。対照的に少女は冷静だ。

「今は私と一緒でないの。……でも、彼女がどこにいるか、お話はできるわ」

 少女は目を細めて微笑むと、ジャッキールの袖をつかんだ。

「もし、あなたにお時間があれば、一緒にきていただけないかしら?」

 ジャッキールはしばらく少女を見やっていたが、やがて静かに頷いた。

  

 

「わあー、すごいなあ! 可愛い布も髪飾りもたくさん!」

 路地からすぐそばの古着屋で彼女はいささか興奮していた。確かに大きな店で、品物もたくさんあったのだ。仕立てている暇はないにしろ、可愛い布もある。古着でも十分綺麗で可愛いものも売っている。

(えへー、これなら隊長も私の事見直すかも!) 

 でも、どれにすればいいかわからない。日が暮れてしまうととうとう店が閉まってしまうので、メイシアも悩んでいる場合ではなかった。欲しいものに目星をつけて、早く選んでしまわなければ。

「ねえ! ニアちゃん、どれがいいと思う?」

 メイシアは振り返って、一緒に店に入っていた筈の少女に声をかけた。が、あたりに彼女の姿がなかった。

「あれ、ニアちゃん?」

 きょろきょろと周囲をうかがってみるが、他の少女はいるにしろ、アーコニアの姿が見当たらない。店の外を見てみるが、そこにもいない様子だった。

「どうしたんだろう? あたしのこと置いて帰っちゃったのかしらねえ」

 路地の方は薄暗くなってきていたので、もう帰路につく客が多いのだろう。道から少女たちの声がきこえてきた。

「ねえ、さっきの人、かっこよかったよね?」

 楽しそうに少女が言う。

「でも、ちょっと陰気っぽくない。なんだか、怖い感じだしー。大体、こんな女の子ばっかりなとこで突っ立ってて、女の子探してるって怪しくない?」

「えー、でも、私、あの顔なら変態でもいいかもー」

 通りすがりの女の子たちがそんなことを口にしている。

(陰気でかっこいい人かあ。なんか隊長っぽい)

 そんなことを思いながら、メイシアはそっと路地の向こうを見やる。

 同じように帰路につく少女らしい姿が見えて、その後ろをどこかで見たことがある気がする長身がよぎった気がした。

 メイシアははっとして道に出た。しかし、先ほど見えた気がする人影はもう見えなくなっていた。

(でも、あの隊長が、こんなとこいるはずないもん)

 メイシアはジャッキールの性格をよく知っている。彼は絶対に一人で、こんな女性たちが好むような店に入れるような男ではないのだ。こんな通りに近づくはずがない。

「うん、……宵闇のせいね。あたしが隊長に会いたいから、暗闇がそう見えちゃうんだわ」

 メイシアはため息をつく。

 ふと冷たい風が吹きかけてきた。もうすぐ夜の帳がおりてくるだろう。

 

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