8.海の欠片の香る街

 彼女は彼の帰りを待っていた。

 このところ、戦闘が激しいことなどがあって、彼は帰りが遅いことがあった。そういう時、彼女は言いつけ通りに、安全なところでおとなしく待っていた。せっかくだから教えてもらった剣術の練習をしてみたりだとか、家事の練習をしてみたりだとか。彼が帰ってきたら褒めてほしいな、と思いながら時間を過ごした。

 だから、珈琲を淹れてみたりなどしてみたし、お菓子を用意したりもしてみた。

 その時のそれも、ちょっと外にお菓子を買いに行って帰ったときのことだった。

 鍵を閉めていったのに、部屋の扉が開いていたので、彼女は彼が帰ってきたのだと気づいた。彼女は素直に嬉しかった。無事に帰ってきたということだ。

「隊長、帰ってたの?」

 彼女が声をかけた時、暗い部屋の中、彼は脱力したように座り込んでいた。だから、彼女はすぐにそれが彼だとわからなかったぐらいだ。ただ、彼は額を手で押さえたままぼんやりしていた。

 けれど、異常なことだと思わなかった。疲れているのだろうし、時々、彼はそういう事が今までもあったのだ。

 声をかけると疲れていても、慌てて優しく返してくれるのが常だった。だから、彼女は警戒しなかった。

「やっぱり隊長だ。おかえりなさい!」

 彼女は慌てて用意していた珈琲とお菓子をお盆の上にのせて、駆け寄った。

「隊長。そういえば、あたし、珈琲淹れてみたの。ちょっと冷めちゃったんだけど、たまにはぬるいのもいいよね? 今日は外、暑かったでしょ?」

 何故か、その時彼は返事をしなかった。いつもなら返事はしてくれるはずなのに。

「あれ? どうしたの?」

 彼女は彼の傍に歩み寄り、そっとのぞき込んでみた。

 その時だ。いきなり、目の前でお盆が二つに割れて珈琲が飛んだ。

「近づくな!」

 部屋の中に怒号が響き、床の上に陶器の割れる音が響き渡る。

 驚く彼女に立ち上がった彼の視線が突き刺さった。はー、はーと獣のような息遣いと共に、彼は冷たく鋭い視線と短剣の切っ先を彼女に向けた。思わずぞっと彼女は悪寒が走るのを感じた。

「隊長?」

 それは、最初に彼女が彼と出会った時に感じた、死の香りを漂わせていた。

 殺される。

 本能的にそう思った。が。

「ロ、ローゼ?」

 思わず目を閉じた彼女につぎにかけられたのは、狼狽した声だった。刃物が床に落ちて、甲高い音を立てた。

 はっとして顔をあげると、我に返った彼はうろたえた様子で彼女をうかがっていた。

「あ、ああ、ローゼだったのか? だ、大丈夫か? けがはなかったか?」

 彼はあからさまに狼狽していた。彼女より、彼の方がよほど怯えているようですらあった。

「す、すまなかった。本当に、すまなかった……。お、お前だと、気づかなくて……」

「う、ううん。あたし、大丈夫だから。隊長」

 彼女は努めて明るく振舞おうとした。

「ごめんなさい。急にあたしが声かけたから、人違いしたのね? ごめん、隊長。あたし、全然、気にしてないから、ね!」

「すまない。本当にすまない。そんなつもりではなかったんだ……」

 そういったが、彼はひたすら彼女に謝りだした。元から青ざめていた顔が、蒼白になり、視線が絶えずに泳いでいた。

「本当に、……本当に、すまなかった。ローゼ」

 彼の手が震えているのを彼女は見た。それは普段の堂々とした凛々しい彼とは似ても似つかぬ姿だった。

(このままじゃ、崩れちゃうんだ……)

 彼女はふとそう思った。

(蛇王さんのいうとおりだ。あたしが一緒にいて、こんなことになったら隊長が壊れるんだ……)

 けれど、彼女はすぐに彼から離れるわけにもいかなかった。今は戦闘中で、彼女が一人で抜け出せるわけもなかった。

 それに、多分、今すぐ彼と離れてしまうと。


 彼が一気に崩壊してしまうような気がして、どうしても離れがたかった。

 

*

 

「寝過ごしちゃったな~」

 メイシアは着替えて泊まっていた宿屋の部屋の外に出た。

 他の連中はどこかに出かけてしまったのか、周りには人気がない。

 メイシアもリリエスと合流してからは、それまで泊まっていた宿屋を引き払い、彼らの案内する宿舎に泊まっていた。宿舎といっても、結局宿屋には違いないが、それなりに手を回しているらしい。普通の宿屋に泊まると足がついてはいけないから、ということのようだ。

 彼らと合流してから三日。

 メイシアとしては、あの怪しい三白眼にもう一度挑戦してみたいと思っていたのだが、リリエスに単独行動を止められていたこともあって、結局あまりカタスレニアの方に足をのばすことはなかった。彼女は特に、この宿屋周辺しか行動を許されていない。最初はそれでも川べりを探索したりして楽しかったものだが、流石にもう三日目ともなると飽きてきていた。

 メイシアはあくびをしながら、窓の外に顔を出した。

 大きな川辺に立つこの建物からは、川向までが一望できた。所狭しと船が岸壁に並んでいる。その様子はなかなか壮観だ。なんでも、この王都の川は運河になっていて、太内海たいないかい大外洋だいがいようと繋がっているらしく、それで船が多いらしい。この王都が商業都市としても成功しているのは、そうした理由もあるのだろう。

「本当船がたくさんねえ」

 そんなことをつぶやきつつ、メイシアはリリエスの話を思い出していた。

(そういえば、ダルなんとかって言ったっけ? あの人たちを運んできた人)

 メイシアと同じく雇われた傭兵たちは、王都の門の検査で引っかかりそうな連中ばかりで、そういう事もあって水路で運ばれてきたのだそうだ。そして、彼らを運んだ中に、海賊が混じっているというのだが、その一人が”緋色のダルドロス”と名乗っていたらしい。

 メイシア自体も太内海の沿岸部出身であるので、海賊についてはまるで知らないわけではなかったが、その名前までは把握していない。

「おい、ターリク」

 そんなことを考えていると、向こうで乱暴な声がした。

 ひょこんと覗いてみると、男たちが向こうでなにやらはやし立てているようだ。その男たちは、どうやら海賊の一味らしいのだが、メイシアには正直海賊と傭兵の区別があまりついていない。強いて言うなら埃っぽいのが自分と同じように雇われた傭兵たちだな、とわかるぐらいのものだ。どっちも人相は悪いし、こんな出どころ不明の仕事に乗る者たちなどカタギじゃない連中ばかりだ。

 しかし、その中の一人は、明らかに他の傭兵や海賊たちとは雰囲気が違う。長身でほっそりとしている。長い黒髪に髭をたくわえたなかなかの優男だが、目つきが鋭い。着ている服は上等のもので、派手ではないがどこかしゃれている。

「おい、相変わらずシャレ者だなあ、”玄海げんかいの狼”さんはよ」

 からかうようにそういうと、ターリクと呼ばれた男はふっと笑った。

「シャレ者といえば、テメエんトコのカシラはどうしてんだよ? あの臆病者のダルドロスの奴は?」

「そうだ。ラーゲンの親父にやられて以降、もう随分と姿を見ねえってよ。テメエも一緒に行方くらましたんだと思ってたが、今更ノコノコ出てくるとはな」

 男たちはターリクにそう絡んだが、ターリクの方は肩をすくめるばかりだ。

「相変わらずてめえらには品がねえな。アーノンキアスの野郎も、いまだに変わってねえと見える」

 言葉遣いはともあれ、ターリクの口調や態度は、他の海賊連中よりはいくらか理知的だ。

「ダルドロスの兄貴は、テメエらみたいな低能の相手なんざあしねえよ。今ンところは、俺一人で十分だってことだ」

「何だと?」

 冷静にそう言われて男たちは、大げさに反応する。多分喧嘩をしたいだけなのだろう。

 が、ターリクの方は、男たちの思惑を読んでいるらしく取り合わない。

「おい、こんなところで問題起こすつもりかよ? お前等んところのアーノンキアスの野郎が、ここに船を出せねえというから、ダルドロスの兄貴が手を貸したんだ。いわば、お前等は俺達の船に乗っかってきただけだぜ。そこんとこ忘れるなよ」

 ターリクはギラリと彼らを睨み付けて冷笑した。その迫力で、男たちの顔が引きつった。

「俺達は、いつでもテメエらを放り出せるんだ。あんまりでけえ面してんじゃねえぞ! アーノンキアスの野郎にも、そう伝えておけ!」

 そういうと、ターリクは彼らを軽く突き飛ばすようにして歩き出した。ターリクの後ろから、彼の手下らしい連中が二人ほど続いていく。一瞬、ターリクは正面にいたメイシアに目を留めたが、さして興味がなかったのかそのまま立ち去って行った。

(なんか、こっちも色々あるみたいねえ……)

 メイシアは、面倒そうだなあと他人事のように思う。

 ターリクに言われた方の海賊たちは、彼がいなくなってから呪縛が解けたかのように罵声をあげはじめていた。

「チッ、狼のターリクの野郎! イチイチ偉そうにしやがって! ダルドロスの一の子分だってだけのくせに!」

「ったく、大体、ダルドロスがなんだってんだ! ラーゲンの親父に尻尾巻いて逃げて十年も行方くらました奴がよ!」

 また、”ダルドロス”だ。どうやら結構有名人らしい。メイシアに海賊連中の勢力争いなどどうでもいい話なのだが、そんなに凄い人だというのなら、ちょっと興味が湧いてくるものだ。

「あ? なんだ、ガキ。まだこんなところにいたのかよ」

 不意に海賊の一人がメイシアに気づいて声をかけた。

「他の仲間連中はどっか行ってんだろ」

「ええと、ちょっと寝過ごしちゃったから……」

 メイシアがそういうと、男たちはどっと笑いだした。

「ははー、寝過しただ? 見た目通り餓鬼だなあ、お前は。本当にお前、傭兵として雇われたのか?」

「失礼ね。これでも、賞金稼ぎのメイシア=ローゼマリーって、ちょっと辺境の方だけど名前は通っているのよ」 

 子供扱いされて、メイシアはむっとして言うが、海賊たちは話を聞いていなかった。

「まったく、おめえみてえなコムスメ雇ってどうするつもりだろうな」

「雇うならもうちょい色っぽいのにしろって! こんなんじゃ、色仕掛けにも使えねえよ」

「なんですって!」

 むっとしてメイシアは睨むが、男達は、あーこわいこわい、と適当にからかいながら通り過ぎていった。追いかけて行って蹴りでもくらわしてやろうかと走りかけたところで、メイシアはふと足を止めた。

 自分の靴が目に入ったのだ。よく見ると元は綺麗な色の靴だったのに、長旅ですっかり砂埃にまみれて色褪せている。それは靴だけではない。服だってそうだ。改めて自分の格好を見てみると、男の子と大して変わらない旅衣装だった。商売柄あまり可愛い格好もできないのも確かだが、これではちゃんと可愛らしくしてるのは、髪型だけ。

「うー、そういえば、この街、いつ隊長と出会うかわからないのよね」

 はたとそのことに気づいて、彼女は困惑気味に唸った。

(せっかく隊長と久しぶりに会うのに、こんな女子力低いことしてたら、あたしのこと思い出してくれないんじゃないかしら……)

 それに、せっかく会えるなら、どうせなら綺麗になったといわれたいものだ。実際どうだかわからないけれど。

 メイシアは改めて外を見た。そういえば、ここは考えるまでもなく都会なのだ。欲しいと思えば大抵のものは手に入る、金さえあれば。

「リリエスは指示があるまでここにいろっていったけど、やっぱり退屈だし、お買い物に行っちゃおうかなあ」

 メイシアはそんなことをのんきに思いながら、急に機嫌を直して外に出ることにした。



*



 その日、シャーは昼前には酒場に入って座り込んでいた。

 その時間にはいつもの舎弟達がおらず、シャーを構うような奇特な女の子はいない。リーフィはその時間、忙しくしていたので、シャーはまさに完全に放置されていたが、その日のシャーは珍しく物思いにふけっていて騒ぎ立てなかった。

 店の子、特に若いサミーなどは気持ち悪そうに彼を遠巻きに見ていたものだったが。

 ふいに、ことんと音がしてシャーが顔を上げると、目の前に紅茶が置かれてあった。

「お疲れ様」

 視線を上げると、リーフィがかすかに微笑んで立っていた。彼女はそのままシャーの向かいに座った。

「リーフィちゃん。お仕事、今いいの?」

「ええ。ちょうど手が空いたところよ」

 リーフィは、ほんの少し表情を曇らせた。

「その感じだと、ジャッキールさん、まだ見つかってないみたいね」

「うん、そうなんだよ。ったく、家にも帰ってやがらねえしさ。近所の人に聞いても見てないって……」

 腕を組み、シャーはため息をつく。リーフィの淹れてくれたお茶に早速手を伸ばしつつ、

「オレも、あのオッサンのいそうなとこ、結構当たってるんだけど、どうも尻尾が掴めないんだ」

 シャーは難しい顔になる。

「蛇王さんも探してくれてるんだけど、どうしてかねえ。あのダンナ、そんな潜伏性能高くねえんだけどなあ。基本的には目立つ男だしさ」

「そうねえ。あれから、もう三日だものね」

「うん。ったく、世話の焼けるオッサンだよ!」

 シャーは不機嫌にそう言い放ち紅茶を啜るが、意外と熱かったのか、小さくあちっと声を上げた。リーフィがそれを見て苦笑した。

「シャー、ジャッキールさんのこと、心配してる?」

「えっ? い、いやあ、そんなわけないって」

 シャーはぎくりとしたようにしたが、慌てて取り繕う。

「あ、あんな狂犬じみた野良犬放置してたら、周囲の被害が心配になるだけだから、探してるだけだよ」

 シャーは急にそんな捻くれたことを言う。

「そうかしらね」

 リーフィはくすりと笑うが、すぐに表情を戻した。

「けれど、ジャッキールさんが探しているのは、シャーを襲った女の子なのでしょう? カタスレニアに近い路地で襲われたのなら、彼女だって、そう遠くは行っていないのでしょうけれどね」

「うーん、それなんだよね」

 シャーはため息をついた。

「あのはオレを狙ってる筈なんだから、当然もう一度ぐらい襲ってきてもおかしくない。それなのに、この三日、全く動きがないんだよね。わざと尾行されやすいようにうごいてるんだけど、全然ひっかかってくれないんだよね。何がダメなんだろうか……」

「警戒されちゃったのかしらね」

「うーん、それはあるかもしれない。こうなるんだったら、もうちょっとやられてあげても良かったんだけどなあ」

 シャーは左手で頬杖をついて反対の手で前髪を掻き混ぜる。

「リーフィちゃんもあの時、蛇王さんからあの子の話聞いてたでしょ?」

「ええ」

 リーフィは頷いた。

「彼女は、さらわれた奴隷の生き残りだったそうね。……たまたま商人たちに頼まれて征伐したのが、ジャッキールさんだった」

 シャーは再びため息をついて顎を撫でやる。

「普段だったら、幼な妻買ったのー? ってさんざからかってやるところなんだけど……」

 と断りつつ、シャーは言った。

「旅の傭兵の身のくせして、助けた奴隷娘がどうしても見捨てられなくて、後先考えずに引き取っちまうとか。あのダンナらしいよ」

「そうね。……でも、それだけに色々大変だったんじゃないかしらね」

 リーフィが目を伏せる。シャーは目を瞬かせた。

「大変って?」

「蛇王さんの話だと、戦場までついてきてしまったんでしょう、その子。だとしたら、見ているのは普段のジャッキールさんの姿だけじゃないはずよ」

「まあ、そうかも。……蛇王さんの話だと、あの頃のダンナは相当ヤバかったって話だし」

「でも、それで傷ついているのは、多分、寧ろジャッキールさんの方じゃないかしらね。彼はそんな姿を人に見られるの、ただですら嫌がるたちのはずだもの」

 リーフィはため息をつく。

「それで最終的に彼女を手放したのだとしたら、多分、彼女に対する負い目は私たちの想像以上じゃないかしら。……だから、話を聞いた途端に様子がおかしくなったんじゃないかしらね」

「そっか」

 シャーは、ぐいと紅茶を飲み干してため息をついたが、ふといらだったように言った。

「でも、それなら一言相談してくれりゃいいのにさ」

 シャーは、ちょっと拗ねたような口ぶりになっていた。

「相談してくれりゃ、オレだってちょっとは力になってやったのによ。そりゃあ、多少はからかうかもしれないけどさ。普段はオレに散々一人で行動すんなって行ってるくせに、自分の時は一人で行動しやがって……!」

 リーフィはその様子を見てちょっと微笑んだ。

「心配かけたくなかったんじゃないかしらね」

「そうかもしれないけど、あのオッサンの場合、その為の行動が余計こっちに心配させるんだよね」

 シャーは不満そうにいいながら、ため息をついてのびをした。

「オレ、今日はちょっと別のところ当たってみようかなと思ってるんだけどさ。でも、あのダンナ、急に気が変わってリーフィちゃんとこ、来るかもしれないなーとも思っていて。もし、ダンナがここ来たらとっつ構えて、オレ達が探してるっての、一言言っておいてくれないかな?」

 シャーは、困ったようにして続けた。

「蛇王さんは、オレのいう事ならダンナは聞くっていってたけど。多分、オレが言うより、リーフィちゃんが言う方が一発だと思うから」

「ふふ、そうかしらね」

 リーフィは小首をかしげて笑う。

「私は、ジャッキールさんには、蛇王さんの言う通り、シャーの言葉が一番だと思うけれど」

「そんなことないってばー。あのダンナも、なーんだかんだで女の子に弱いからさあ。リーフィちゃんの言葉に逆らってんの、見たことないしぃ」

「ふふ、それはどうかしら。でも、気を付けておくわね。そっと様子を見に立ち寄ってくれるかもしれないし」

 シャーは頷いた。

「うん、迷惑かけてごめんだけど、よろしくね」

 リーフィから軽食を出してもらって、軽く昼食を取った後、シャーは面倒な舎弟がやってくる前に酒場を後にした。

 


 ジャッキールのいそうなところ。

 

といっても、シャーが行くのは、当然、傭兵としての彼が行きそうなところのわけだが。

「あの性格だから、まさかのんびりとメシ食ってるわけないだろうしなあ」

 そう考えて、柄の悪そうな酒場や彼と顔見知りの極道者のハーキムの縄張り。彼が情報収集や仕事の受注先を探すのに使っているらしい、ハーキムことビザンのやっている酒場。その辺をぐるりと一応回っていたものの、ここ数日彼が訪れた形跡はなかった。

 おそらく、ザハークも同じような場所を探しているだろうと想定されるのだが、昨日会った時に聞いてみてもザハークも有力な情報を掴めていないようだ。

「なにやら、不穏な奴らが桟橋付近にいたとはきいたがなあ」

 とザハークはため息交じりにいったものだ。

「しかし、そいつらとエーリッヒが接触している形跡もなかったのだな。あの男のこと、揉めるときは派手にやらかすはずだが、あまりにも静かすぎるし」

「どうしたんだろうね。ダンナ」

「まあ、一旦ああなると大抵の言葉が耳に入らんようになるからな」

 ザハークはやや困惑気味だ。

 ザハーク曰く、自分が彼を止めにかかると火に油を注ぐような結果になるという。そんなわけで、彼が集めてきた情報は、すべてシャーにくれるということになっている。

(しかし、蛇王さんが言っても止められないようなダンナを、オレが止められるわけないんじゃないかなあ)

 普段は意外に常識人なジャッキールだが、彼が強情なのもシャーはよく知っている。特に彼は一つのことにこだわり出すと、ちょっと大変なことになることがあって、きっと今回もそういうことなのだろう。

(やっぱり、オレよかリーフィちゃんにお出まし願った方がいいんじゃないかねえ……)

 シャーは漠然とそう考えながら、あちらこちらを回った後、川岸の方に歩いて行った。

 川岸の桟橋の方。そういえば、このあたりはあまり来ない場所だ。

 いつの間にか、太陽がやや傾いてきており、もうすぐ夕方になろうという時間だ。空の端が赤くなり始めていた。

 シャーは、正直、あんまり船には興味がない。旅については陸路は多かったが、あまり海路や水路を使っての旅はさほどしたことがなかった。船酔いの経験もないので別に悪い印象はないが、取立て思い入れがないともいえる。

(そういや、あのカワウソの部下が、桟橋の方で不埒な輩が逃げてるって言ってたよな)

 カワウソ、あの七部将の一人アイード=ファザナーと副官の話をシャーは思い出していた。

 アイード=ファザナーはそれなりに信頼のおける男だが、七部将の中でも取り立てて有能というほど評価はされていない。ジートリュー一門の眷属である彼の持つ軍事力の影響力は大きかったが、彼自身はあくまで穏やかな男で戦歴も目立ったものはなかった。

 まだ若いとはいえ、シャーよりはちょっと年上。本来、この状況でもうちょっと頑張ってもらわなければならないのだが、この間のように仕事中抜け出してお菓子を作っているとは思わなかった。

 この間、シャーとしてはちょっとキビシク説教してやったつもりだが、それはあくまでシャーとしてはなわけであるので、どこまで彼に響いているかはわからない。

 同じく留守番を預かるカルシル=ラダーナが城門で完璧な警備をしているのに、それに比べればやや警備がゆるくなりがちとはいえ、水門を預かる彼にはもうちょっとしっかりしてもらわなければならないのだ。そんな海賊まがいの輩を王都に入れてもらっては困る。

 ”大丈夫です。十二分に調べます。”とはそれを受けてのアイードの言葉だったが、本当にしっかり追跡調査をしているのか。

 それを考えると、今はお仕事度外視でジャッキールを追跡したいシャーも、思わず上司として考えてしまうことがあるのだった。

 そんな憂鬱な気持ちのシャーの目の前に、いよいよ桟橋の風景が見えてきた。

 船に思い入れはないというシャーだが、そんな彼をしてもここの風景は壮大に見えた。海というには小さいが、川幅は随分と広い。そこに大小さまざまな船が行きかっている。船の帆や旗が風になびき、色とりどりに川面を彩る。

「へえ、……改めてみると綺麗だなあ」

 シャーにとって王都は庭だが、このあたりにはあまり縁がなかったこともあり、ちょっと新しいものを発見した気分だ。素直に感嘆の声を漏らし、しばらくそこでぼんやりと景色を眺めてみる。ゆっくりと視線をあちらこちらに向けてみている内に、シャーは、ふと何かに目を留めた。

 シャーがいる場所より川に近い傾斜地に、誰かが座っているのだ。そして、それに彼は見覚えがあった。

(あれ? アイツ、ネズミじゃねえ?)

 改めてまじまじと見てみるが、確かにどう見てもゼダだ。ゼダとも三日前別れたっきりだが、そういえば彼はその時名前が出た海賊の情報を探しに行くとか言っていた。まさか、いまだに情報収集をしているとは思わなかったが、ここにいるという事はそういうことなのだろうか。

 シャーは声をかけようかと口を開きかけたが、その前に、ふと彼の視線の先に人影が割り込んでいた。驚いてシャーはほとんど反射的に、近くの低木の茂みに身を隠した。

「よっ」

 不意にそうゼダに声をかけた者がいたのだ。のぞいてみると、背の高い男が視線の先に唐突に現れていた。

「こんなところにいるのかい、ネズミのボーヤ」

 先ほどよりも空は赤くなっていた。その夕陽に映える燃えるような赤毛が目に入る。

 聞き覚えのある声は、顔を見るまでもなく彼がアイード=ファザナーであることをシャーに知らせていた。

(カワウソのやつ、いつの間に……。気配がまるでなかった……)

 意図的に彼が気配を消してきたのだろうか、とまで考えてシャーは首を振った。いや、アイードはアイード。この男は、前から存在感というものがない。多分それだ。

 いきなり声をかけられたゼダの方も驚いた様子で彼を見上げたが、例の喫茶店の亭主だとわかったのかため息をついた。

「ちぇっ、驚かせるなよ。アンタ、気配なさすぎだぜ。もうちょっと存在感ないと消えちまうんじゃね」

 シャーと同じことを思ったのか、ゼダは素直にそんなことを言う。アイードは肩をすくめた。

「かわいくないねえ。ったく、三白眼のボーヤといい、アンタといい、つくづくこのあたりは生意気な餓鬼が多くて困るぜ」

 そういっておいて、アイードはにやっと笑いかけた。

「で、なんだ。ボーヤは、なんでこんなトコぶらついてんだい。まさか、まだ”ダルドロス”の情報でも探してるのか?」

 アイードは肩をすくめた。

「そんな簡単に情報入んねえって。実は俺も、色々情報当たってみてもらってるんだけどさあ、これがなかなか大変で……」

 ゼダは黙ってアイードを睨み付けていたが、ふんと鼻で笑って聞き返す。

「アンタこそ、なんか色々忙しそうなのに、こんなとこにいてもいいのかよ」

「俺か。俺は、ほら、色々情報知りたいってのもあるけど、実のところ、ココによく来るんだよ」

 そういってアイードは、すっかり下りてきてゼダの傍にたたずんだ。

「気分転換にちょうどよくてね。ほらよ、ここ、眺めが良いだろ。なんかの時によく立ち寄ってるんだよ。気分が落ち込んだ時、忙しくて大変な時、慰めが欲しい時とか、色々さ。本当は、俺は船乗りしてたから、時々海が見たくなるんだが……、王都から海まではちょっとあるからな。だから、代わりにここにくるんだ」

 アイードは笑って首を振る。

「でも、王都中の船が集まるこの場所だってなかなか捨てたもんじゃない。特に今みたいに夕陽のころがな。川面に夕陽がキラキラ輝いて、その上に大きいのから小さいのまでたくさん、色んな国の船がひしめき合っててさ。このままどれかの船に飛び乗れば、あっという間に異国に行けちまいそうな感じすらするじゃないか。逃げちまいたくなるよなあ」

「何夢見がちなこといってんだよ」

 ゼダはややあきれ気味にアイードに言う。

「それはそうと、何の用さ?」

「なんだ、風流のわからないやつだなあ」

 急に現実に引き戻されて、アイードは不満げだったが予想もしていたのであっさりとあきらめる。

「まあいいや。さっきもいったとおり、ちょっと俺なりに気になることがあって、このあたりを探ってたんだよ。で、歩いてたら、そこでお前さんの姿を見かけたんで、ついでに聞いておこうかなって思ってね」

「オレに?」

 ゼダは意外そうにきょとんとする。それもそのはず。アイードと会ったのはこの間が初めてだ。どうやらシャーとは知り合いだろうというぐらいは、ゼダでも何となくわかっていたが、それにしても何か聞かれるほど親しくもないし、相手も興味がありそうでもなかった。

「気になることがあったからさ」

 アイードは、頭をかきやりながら言った。

「お前さん、やけにダルドロスに肩入れするなあって思ってね」

 ゼダが顔を向けると、アイードは首を振った。

「そりゃあ、やっこさん、一時期はかなり信奉者も多かったし、それなりに目立つ活動はしてたんだけどさ」

 アイードは苦笑気味になる。

「でもやっこさんが消えてもう十年近いんだぜ。いまだもって、そんなに肩入れするなんて珍しいなあなんてね……」

「逆にオレもあんたに聞きたいね。なんでダルドロスのこと知ってる?」

 ゼダは鋭く尋ねたが、アイードはそれを受け流すように軽く微笑んだ。

「そりゃそうと、お前さん、結構厄介な人だろ?」

「は?」

 ゼダがきょとんとすると、アイードは言った。

「あの三白眼ボーヤは、ちょっと面倒な人でねえ。自分の本性をそうやすやすと人に見せない男なのさ。なのに、お前さんには平気で本性見せてた。ってことは、お前さんのことはそれなりに認めてるってことだよ。だから、さぞかし面倒なんだろうなあと思って。あのボーヤに関わる人間は、皆面倒で厄介な奴ばかりでね。そんなわけで、流石に鈍い俺もそれぐらいの勘は働くってわけよ」

「何が言いたいんだよ? っていうか、オレの質問に答えてないよな?」

「ダルドロスを何故知ってるかって? そりゃあさっきもちらっと言ったが、こう見えても、俺は昔船乗りだったからさあ。あの時分に太内海で船乗りしてりゃ、嫌でも詳しくなるってもんだぜ。だから、俺はあの頃の海賊連中のことも良ーく知ってるさ。海賊王と言われて、アーヴェの総督にまでなった”ヴァレアース”のことも、その右腕でありながら彼を裏切った”ラーゲン”のこともさ。ダルドロスは実は十数名も手下のいねえ、零細企業の親分でな。ちょっと派手に活動してただけで、他にもカッコイイ海の男はいくらでもいたわけだぜ。少なくとも、俺は色々知ってる」

 アイードは、にっと悪戯っぽく笑いながらゼダを見やった。

「さっきもいったとおり、お前さん、厄介な人だよな。そんな厄介な奴に育った今のあんたからみても、何故あいつはそんなに特別なんだ?」

 アイードは、緑の瞳をゼダに向けて尋ねた。

「そこんとこ、ちょっと興味があったから、呼び止めてみたってわけだよ」

 穏やかに笑いながら彼は告げる。その瞳は温かで穏やかな、太内海のあの海の色に似ていた。

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